第五話 凶報、走る 前編
慌しい人の流れの中、その者の足音だけは群を抜いてこの王城レフライアに響いた。
品位ある行動を慎むべし、と厳格に躾けられたメイドや執事などはその者に対して始めは険のある視線を投げつける。
騒音の人物は硬いブーツでも履いているのだろう。廊下中に木霊する硬質な音は耳に飛び込むほどにやかましい。
が、一度その者の顔を見れば、皆、毒気が抜かれたかのように唖然とするのだ。
足音の主は剣士長アールトン・フラガッハ。何よりも礼に尊び、物静かな人物と知られるその人であったから。
「王に取り急ぎ謁見願いたい」
高らかな足音を鳴らせながらアールトンは謁見の間ではなく、王の私室である部屋へと直接出向いていた。
部屋の前で待機していた近衛兵の男は戸惑いを隠せずに目を丸くする。
王に会うのにはそれなりの手順がある。それをすっ飛ばしていきなりに会いにくるなど無礼千万。
その場で取り押さえられ、幽閉されたとしても文句は言えない。
近衛兵は無論アールトンのことを知っていた。だからこそどう対応していいものか混乱していたのだ。
「よい、通せ」
近衛兵を助けたのは扉の向こうから聞こえてきた声だった。
扉越しだというのに威厳のある声、部屋の主が誰なのかすでに承知していた兵は慌てて道を譲る。
アールトンは目礼で兵に対して詫びると、両扉となっていたドアをギギギ、と開いていった。
飛び込んできた光景を一言で言えば、意外、だろうか。
王の私室にしてはあまりに質素で、豪華絢爛とはとてもいえない。市民が抱いているイメージとはあまりにかけ離れている部屋だった。
多くの本と棚はあるが芸術品の類は一切ない。
家具は最高品質のものを使っていると見るだけでもわかるが、地味な部屋だ、と切り捨てた所で異論を述べる者はいないだろう。
これは贅沢は趣味ではない、という王の性格によるものだった。
地味と呼ばれても怒ることなく、むしろ笑いながら喜ぶ変わり者として知られていた。
アールトンはロッキングチェアーにゆったりと座っている人物を前にして、まずは非礼を詫びるべく床に膝をつく。
絨毯の上にこの格好では跡がつきそうだ、と僅かに心で思いながら頭を下げる。
「突然の来訪、申し訳ありません」
「頭を上げるがよい、アールトン。その様子だと火急の用件なのであろう」
本を膝元に置いて王、クリシュナー・アルベルト三世は鷹揚に手をかざしながらそう言った。
アールトンの格好は軽装でパトロール用の軽鎧に帯剣をしている。
常に礼儀に厳しく、規律を尊ぶ彼にしてはありえないような格好だった。
なにせ目の前にいる人物は人間種族の頂点に立つ王様なのだから。
プライベートな時間であったのか、今でこそ煌びやかなガウンや宝石が散りばめられた王冠は被っていないが、それでもクリシュナーは王としての独特の空気を漂わせている。
高潔であれ、と皆の上に立つものとして胸に宿してきた王は高齢となった今でも衰え知らずのようだった。
顔には年輪のように刻まれた深い皺、そして精強な顔立ち。綺麗に揃えられた白い髭に白髪を全て撫で上げたオールバック。
印象的な力強い瞳はアールトンをしっかりと見詰めていた。
「はっ。仰る通りでございますが、些か信憑性に乏しい情報でもあります」
「お前の人柄は熟知しておる。それでも私に伝えなければならない、捨て置けないことなのだな」
「…………はい」
この時、王はアールトンの表情と返事するまでの間に不吉なものを感じた。
事実、彼が次に苦しげな表情から放たれた言葉は王に小さくない衝撃を与える。
「ロレンスさまが……逝去なされた、と噂が広がっております」
「あ奴が……死んだ?」
その言葉に王は言葉を噛み締めるように一人ごちた。
アールトンがロレンスさまと言うような人物は一人しかいない。天族の偉大なる英雄、剣聖ロレンスその人しかいない。
なるほど、彼が苦悶の表情を浮かべるのも納得がいく。
アールトンは手ずからロレンスから剣の手解きを受け、彼の者の献身的に人を救う姿に感銘を受けた過去を持っている。
確かに英雄に憧れる者などそれこそ数え切れないだろうが、自分の人生にまで多大な影響を受ける者はそう多くないだろう。
彼の礼を失せず、実直であることを常に心がけているのも剣聖を手本にしているからだ、とも言われている。
その人物が死んでしまったかもしれない、と聞けば心中穏やかではいられないだろう。
いや、それでもアールトンという者は噂だけを聞きつけて、王に報告するような男だっただろうか?
「……そなたは噂だというが、ある程度の事実確認はすでにとっておるのだな?」
「確実では、ございません……」
まるでそれは自分に言い聞かせるようにアールトンは小さく声を零した。
クリシュナーは一度背もたれをゆっくりと倒しながら息をつく。
考えられなかったことではない。剣聖も自分と同じくらいの歳だ。何かの節に死んでしまったとしても不思議ではないだろう。
だかしかし、まさかあの男が、という思いが消えない。
クリシュナー王と剣聖ロレンスには浅からぬ縁がある。
魔族の侵攻から国を救ってくれたことだけではなく、個人的な面でも付き合いがあったのだ。
王になることを義務付けられていたクリシュナーに自由はなく、彼は本の世界でその欲求を満たしていた。
特に彼は冒険譚が大好きで、夜な夜な竜退治や未知なる大陸への冒険に心を躍らせていた。
クリシュナーが王子という身分にまだ席を置いていたある日、一人の若者が城に訪れた。志願兵であった。
激励の意味合いで兵舎に行っていた彼は鮮明にその日のことを覚えている。
その者はめぼしい特徴というものがなかった。
平凡な服装に普通の見た目。若者の傍にいた女性の方がよっぽど目立っていただろう。
誰もが彼女ばかりに視線がいっていた中、クリシュナーだけはその若者を見ていた。
ただ一点。若者には他の者にはないものを持っていた。
その瞳の中にある光。なんと揺ぎ無い強さであろうか。
まるでそれは大河の如き不動で壮大な大らかさ。成人にも至っていない者が出来る目ではない。
クリシュナーが今まであってきたどんな者よりも力強さを感じさせるその瞳は、彼に衝撃を与えるには十分だった。
片田舎にから訪れた若者の名前はロレンス。
今でこそ知らない者はいない程に有名であるが、まだその時にはただの無名な青年であった。
(その後、私から話かけたのであったな……)
懐かしい思い出に浸りながら王は瞳を閉じる。あの日から平民と王子との不思議な関係が始まった。
王城からあまり離れられないクリシュナーはロレンスとの会話がとても楽しかった。
ロレンスは派遣部隊――様々な命令を受けて各地へと赴く部隊。なんでも部隊とも呼ばれていた――に所属し、様々な場所を転々としていた。
そんなロレンスが語る話は本の中にある話どの話よりも面白かった。
例えばあくどい領主をこらしめたこと、山の頂上に棲む魔物を死闘の末に退治したこと、未知の遺跡へと探索にいったこと……。
クリシュナーは話に聞き入りながら時には喝采をあげ、時には民衆の苦しみに胸を痛めた。
時は移ろい日々も過ぎていく。クリシュナーは王となりロレンスはその才覚を認められ名前をあげていった。
だがそれでも二人の関係は崩れることはなく、より得がたい絆を結ぶことになっていったのだ。
瞳を開けると同時に過去からクリシュナーは戻ってくる。
悲しみを携えた瞳は何かをこらえるように宙を向き、少しの間を置いてからアールトンへと視線を移した。
「つい先日など、家族の自慢話を聞いたばかりなのだったがな……。アールトン、剣聖の弟子たち……彼の子供たちはすでに旅立ったのであったな?」
「はっ」
「もしやすでに耳に入ってるやもしれぬが、彼らに伝えてやるがよい。その際、彼らが剣聖の元へ帰りたいというのなら止めるでない」
「ははっ!その様にお伝えします。陛下のご温情に彼らも感謝することでしょう」
「アールトン。お前も駆けつけたい気持ちはあるであろうが、許せ。剣士長であるお前を簡単に動かすことはできぬ」
「……いえ、そのお言葉だけでも私には十分でございます」
そうアールトンは顔を伏せながら言い放った。
クリシュナーが退出を命じると、彼は速やかに王の私室から出て行く。おそらくすぐにでも早馬を出してこのことを伝えるのだろう。
そうして誰もいなくなった部屋でクリシュナーは重いため息をついた。
悪いことは続くものなのだな、と思いながら。
魔王の再臨と剣聖の死が重なるなどタイミングが悪いとしかいえない。
現役を退いていたとはいえ剣聖ロレンスという人物が与える影響力は少なくないのだから。
これから起こる事態を想像するだけで重圧が圧し掛かってくる。
だがそれよりも、ほんの少しのこの一時だけ。
クリシュナーは王である前にただの一人の男として、あいつに文句を言いたかった。
勝手に死んでしまったことを怒鳴り散らしたかった。
そして……生涯の友であるロレンスに、苦渋の選択をさせたこと。
彼の子供たちを戦わせるという非情な選択をさせてしまったことを……謝りたかった。
クリシュナーはロッキングチェアーから立ち上がりバルコニーへと出る。
明るい日差しに晒されながら王は空を見上げた。
あの男は空が好きだった。いや、自然を愛していたと言った方がいいだろうか。
若い時分からぼーっとそんな光景を眺めては微笑んでいたのだ。
変な奴だな、とクリシュナーが言えばロレンスはますます顔を綻ばせて、クリスは風情がわかっていないね、と笑っていたのだ。
「私を女のような名前で呼ぶ馬鹿者め……。私を差し置いて先に逝きおって」
憎まれ口を叩き、空を強く睨む。その顔に涙はない。
だかしかし、欄干を握るその手は硬く硬く握り締め、震えていたのだった。
天族には魔術は使えない。それは魔力そのものがないからと言われている。
代わりに気という不思議な力が体に流れてるという。武技と言われる技が使えるようになったり、気孔によって癒しの力を得ることも出来る。
ただ天族の中にも魔術と似たような力が扱える種族は存在する。
それはエルフ。王城から北東の深い森の中に住む種族である。
精霊術と呼ばれる大地の力を借りることで、奇跡のような超常の現象を引き起こすことが出来るのだ。
彼らは天族でありながら他の種族から歓迎されず、隔絶したコミュニティを形成している。
魔術と精霊術を一緒くたに考える者が多いからだ。
エルフは魔族なのではないか、と心ない言葉を吐きかける者もいるという。
エルフもエルフでその種族の性質からプライドが高く、歩み寄ろうとはせず見下してしまう。くだらない屑共だ、と。
そういった経緯から自分の種族以外入れないように結界を張り、誰にも来ることは出来ない森の中に引き篭もってしまった。
迷いの森を抜けた先には見上げるほどの大樹がある。
そここそがエルフの国、フィラルド。
自然と共存することを選んだ彼らは大樹の中に住まいを構え、受け入れた樹木の精霊はエルフたちから力を貰うことでそれを許した。
豊かな自然の中に存在する大樹の周辺にはエルフだけではなく、鹿や兎といった動物、小さな精霊の姿さえ見える。
フィラルドは規模として小さい国ではあるが、こんな光景は外の世界ではけして見られないものだろう。
大樹の奥深く、神殿、とエルフたちの間からは呼ばれている場所には彼らの女王がいるという。
大樹の精霊と契約を結んだ者のみが王の位を受け継ぎ、エルフのみならず精霊たちをも率いていく役目を負う。
長命なエルフなのだから世代交代も早々起きない、とはいかない。精霊も彼らを見ているのだ。
もしも相応しくない、と彼らに判断されれば契約は解かれる。
数年で王位を退いた者が過去に存在するのだからそれは真実である。
その点から鑑みれば現代の女王は素晴らしく優秀だといえるだろう。
今の女王がその任について二百年の時が過ぎようとしていた。本来なら一度や二度、交代が起きていてもおかしくはない。
そしてプライドの高いエルフたちからも、女王のことを賢者と褒め称える者も多くいる。
賢者と呼ばれしエルフの女王、レティシア・ヒルデガルド。
容姿端麗なエルフの中でも際立った美貌を誇る彼女は、あるかないかの微笑みを維持するのを必死に頑張っていた。
神殿にある王座から見下ろした先にいるある男のせいである。
その男は騎士団の副隊長を務めるもので、事あるごとに報告にくる厄介な相手だった。
相手の立場が高いが故に追い返すことも簡単には出来ない。
レティシアは何故こうも頻繁に訪れるかは知っている。
彼は彼女の娘であるシルキーをチラチラと見ているのだ。あからさまな程に。
娘であるシルキーは母親のレティシアの美貌をこれでもかと詰め込んだ美しい女性だった。
巷ではその美しさから黄金の姫と呼ばれているらしい。
確かに親の贔屓目を差し引いても、なめらかで透き通った肌と煌く金色の髪は綺麗だった。
母親譲りの顔立ちもすっとして見栄えがよく、細長いまつ毛に憂いの込めたその表情を見ればエルフの男だろうとイチコロだろう。
まぁ副隊長が娘に惚れ込むのもわからないでもない。会いに来る頻度と、不躾な視線、くだらない話の数々をどうにかしてくれれば文句はない。
(つまるところ、もう来るな、ってことなんですけどね……)
心の中でため息をつきつつ、曖昧に副隊長の話に相槌をうつ。
肝心のお目当てのシルキーは相槌をうつことなく、黙って女王の隣に立っているだけだったが。
全く、そんな顔で立たれるぐらいならいなくてもいいのだ。
レティシアは事前にそう言っていたのにこの娘ときたら、公務ですから、と切り捨てたのだ。
誰の為に言っているのかわかっているのだろうか、と本気でレティシアは頭を悩ませた。
(はぁ……旅から帰ってきて心身ともに成長したと思ったのですけどね。厄介な病も患うとは思いませんでした)
すでにレティシアは副隊長の話を右の耳から左の耳に素通りさせるようにしていた。どうせ大した話でもないのだ。
娘のことを考えていた方がマシである。
シルキーは昔、この国から旅立ったことがある。
フィラルドに引き篭もるエルフが多いとはいえ、外に出ないエルフがいないわけでもない。
出て行く分にはフィラルドは寛容だった。ただし、一度出て行ったエルフがフィラルドに戻ることはそう容易くは無いが。
ともかく、普通のエルフならばそう難しい話ではない。だがシルキーは王女なのだ。
彼女が外に旅立つのには紆余曲折あったのだが……今はその話は置いておこう。
そう、問題はシルキーが国に戻ってきた後の話だ。
彼女は旅立つ前よりも精神的に強く、美しさに磨きをかけて戻ってきた。それ自体は喜ばしい。
だが一つの病をシルキーは患っていたのだ。それは恋の病。
しかも相手はエルフではなく、人間。全く、とんでもない相手に恋をしたものだと当時は驚いたものだ。
無論、その病は現在進行形である。憂いの表情もどうせ相手のことでも考えているのだ。
あの人間嫌いだった娘が人間に恋をしたのも親としては感慨深い。
(それでも二十年も片思いを続けるというのも、我が娘ながら不器用というか純粋というか……)
初恋、故にどうすればいいかわからないのだろう。
それに付け加え相手は……。
(剣聖ロレンス)
「剣聖ロレンス」
ん?と女王は首を傾げる。はて、自分は知らずに声を出してしまっていたのだろうか、と。
しかしそれは勘違いなのだとすぐにわかった。
何故なら声を発していたのは自分ではなく、副隊長その人であったから。
彼はその時だけ、シルキーに視線をチラ見させず、醜く下品な笑いを滲ませていた。
「聞きましたか、女王様。人間が崇めているという奴が死んだようですぞ」
ばっ、と反応したのは女王ではなく隣に立っていたシルキーその人だった。
驚きに目を見開かせて一度として視線を向けることがなかった副隊長に目を向けていた。
念願の思い人であるシルキーに見られているとは知らず、副隊長は含み笑いをしながら話を続ける。
「私は剣聖だのなんだのと触れ回る愚者がいなくなって清々しましたな。大仰な噂を撒き散らし、自分を誇示する矮小な輩などいなくなって当然」
副隊長も例に漏れず、エルフの中でも大の人間嫌いである。
とかく自分も剣の腕に自信があるのか、剣聖であるロレンスに対して異常な対抗心を燃やしていた。
レティシアはそのことを噂で聞いていたが、まさかこんな場所でも言い触らすとは思わなかった。
女王の前では外聞の良くないことだと知っていたはずなのに。
しかも言葉が真実ならば故人である。
わなわなと震えだす娘を気にしながら、事の真相をレティシアは問うた。
「それは真なのですか……?」
「ええ、ええ!本当ですとも。密偵からの情報で、国をあげての葬儀を執り行うとのことです。全く、人間共の考えはわかりませんな。あんな卑怯者を祭り上げるなど」
そう言いながらも副隊長の口元はにやけていた。心底嬉しいことがあって話さずにはいられない、そんな様子だった。
度し難い彼の態度にいい加減業を煮やした女王は口を挟もうとする。
その前に副隊長は油でも差したかのような饒舌ぶりを披露する。
「全くあんな小物、死ぬ前に私の剣の錆になればよかったのです。そうすれば噂は払拭され誰が真に強い者か――」
「黙りなさいッッ!!この痴れ者が!!」
神殿中に怒号が鳴り響く。
目を丸くした副隊長は途中で言葉を閉ざし、女王でさえその声に上げかけた声を止めてしまった。
その声の主はシルキー・ヒルデガルド、全身を烈火の如き怒りに打ち震える王女その人であった。
彼女は射殺さんばかりに副隊長を睨みつけ、彼女はその場から一歩も動いていないというのに副隊長は後ずさる。
「貴方にあの人の何がわかるというのですか!!彼は幾度の困難に立ち向かい、その体に無数の傷を負いながらも歩みを止めることのなかったっ!!
剣聖という言葉もあの人は望んでいませんでした!ただ自分の力で人々を救い続けてきた結果、そう呼ばれてしまっただけで!
数々の賛美にも驕ることなく、褒め称えられたとしても愚直にあの人は自分に出来ることをしただけなのです!」
物静かな美しき花、と密かに囁かれていた黄金の姫はそこにはいない。
激情にその身を任せ、ただただ心の中身を吐き続ける。
声を張り上げては涙を散らし、留まることのない思いを言葉にする。
「愚者?矮小?卑怯者?えぇ、あの人がその言葉を耳にしても気にも留めないでしょう。貴方のような小物ではないのですから。
例えどんなに貶されようとも、彼は笑って受け流していたでしょう。ですが」
「し、シルキーさま……私は」
「黙りなさい下郎。その口で私の名を汚すな。そして彼のことを汚すことも……このシルキー・ヒルデガルド、フィラルド国の王女たる私が許しません……!!」
副隊長がシルキーに伸ばしかけていた手をがっくりと落とす。
完膚なきまでに叩きのめされた男は行き場をなくしたかのようにその場に崩れ落ちた。
その様子を見てもシルキーの視線は弱まることなく、容赦などカケラもなかった。
一種の沈黙が訪れた中、女王はようやくシルキーに向けて小さく声をかける。
それは心配していた為。シルキーの思い人はロレンスだと知っていた為。
歯を食いしばりながらシルキーはレティシアに顔を向けた。
その顔はさっきまでの毅然と責め立てる女傑のような顔ではなく、弱弱しくも今にも散ってしまいそうな少女の泣き顔だった。
「……お母さま、この場は失礼いたします」
そう言葉を残してシルキーは足早に立ち去る。彼女を止める者は誰もいなかった。
公然の場で女王さま、ではなくお母さまと口にしたこと……そしてあの顔を見てはレティシアに彼女を止めることなんてできなかった。
シルキーは自分の部屋に戻るとすぐに鍵をかけて、そのままベッドに飛び込む。
おろしたてのシーツはそれだけで大きく皺を寄せてしまうが、彼女の心の中は荒れ狂いそれ所ではない。
(あの人が死んだ……?嘘よ、嘘よっ!嘘よ!!)
あの場はあれでもなんとか体裁を保っていた方だった。
本当なら叫んでも叫び足りない程に心が苦しくて仕方なかった。
だけれど自分は王女という立場。見苦しい真似は出来ない。
それでもあの男の言葉だけは許すことは出来なかった。
自らが言った言葉通り、ロレンスがあの男の言葉を聞いても笑うだけだろう。
だがそれは自分が許さない。彼が口汚く罵られるなど我慢できない。
あまりの罵倒に自慢の弓であの者の眉間を貫きたい程に彼女は激怒していた。
それを差し置いたのは奇しくもロレンスが死んだという事実だった。
もしも彼がロレンスが存命の時にあのような言葉を吐いていたなら、命はなかったかもしれない。
「ロレンスさま、ロレンスさま……。貴方は本当にいなくなってしまったのですか」
存在を確認するように言葉を洩らした。その声に応える者はいない。
いなくなった、と自分で言葉にしたのにも関わらず、それを聞くだけでも涙は更に溢れていく。
自分がどれだけロレンスという人を好きだったのか、今更になって思い知る。
旅立った時には大嫌いだった。自分たちの種族以外のことなんて気にも留めていなかった。
そんな自分の心にいつのまにかあの人は潜り込んできた。
彼は挫けない心を持って途方も無い夢を抱きながら歩き続けた。果ての無い争いに終止符を打ちたいと、夜空を見上げながら語ってくれた。
その横顔に、その瞳に、その生き方にどうしようもないほどに惹かれた。
そして……救ってばかりいる彼に、自分は救いを与えたいと思ってしまった。
だけれど彼は人で自分はエルフ。種族の壁、そして王女という自分の立場を思えば踏み切ることは出来なかった。
旅はそうして終わってしまい、片思いを抱えたままフィラルドに戻ってしまった。
それでも年に何回かは彼から会いに来てくれた。
あの男のように歓迎しないエルフもいるというのに、笑顔で自分の元へと来てくれたのだ。
それだけで自分は満たされていた。このまま一生恋が実らなくとも、それでいいのだと思っていた。
そう、思い込んでいた。
「私は……私は貴方が好きではなかったのですね」
一粒、真っ白なシーツの上に涙が零れた。
シーツに染みこむと小さな円を作り出す。
その光景を見てか、はたまた思いの堤防が脆くも崩れてしまったのか、次々に小さな円が生まれていく。
ぽろぽろと瞳から流れ出て止まらない。あぁ、私は……。
「貴方のことを、愛していたのですね……」
より深い愛情を抱いていたのだ。いなくなってからそのことに気付いてしまった。
なんて今更な話なのだろう。
どうしてもっと前にそのことに気付かなかったのだろう。
エルフは長命だから彼が先に逝ってしまうと思っていたから?
それでもいい。それでもよかった!
例え短い時だろうとこんな思いをするぐらいなら彼と一緒に過ごしたかった。
種族や身分を言い訳にするなんて馬鹿馬鹿しくて、今となってはなんと惨めなのだろう……。
「う、うっうっ、ロレンス……さま……」
止め処ない涙を流しながら思う。もしも、もしもあの者の言葉が嘘だったならば。
心の中ではわかっている。女王の前で虚偽の情報を流すことなどすれば罰は免れない。
副隊長の位にいる者がそんなことを知らないとは思えない。
つまりは真実なのだ。ロレンスは……この世には、もう。
それでも、もしもを考えてしまう。ありもしない未来を想像してしまう。
もしもあの情報が嘘で、ロレンスが本当は生きていたのならば。
自分は今度こそ、全てのことを捨ててでも心に正直になろう。必ずあの人に愛していると告白しよう。
神さま……出来ることならばこの願いをどうか、どうか叶えてください。
真新しいシーツを涙で濡らしながら、そうして彼女は泣き疲れて眠りに落ちる。
真実は変わらない。剣聖ロレンスはその生涯を終えてしまったのだ。
ただし神はその願いを叶えた。彼女が祈ったからかは定かではないが、ロレンスは別の命を与えられたのだ。
その願いの行く末を知ることになるのは、遠い未来の話。
シルキー・ヒルデガルド、彼女が再びフィラルドから旅立つことになってから、ずっとずっと先のこと……。