第四話 大きな嘘
時間というものの感じ方は人それぞれだ。
その時の状況や精神状態によって長くもなるし、短くもなる。
例えるなら嫌いなことをしている時には長くも感じるだろう。早く終われ、終われと心の中で思っていればそれは尚更だ。
逆に趣味や遊びに没頭している時は短く感じるものだ。
いつのまにか夕暮れ時になっていた、というのもままあることである。
三人にとってのこの一週間はそのどちらでもなかった。
短くもあり、長くもあったのだ。
激しくも苛烈なロレンスとの修行は、これまでノエルとカイルが行っていたものが児戯のように思えるほど厳しかった。
老人は真剣を抜くことなく鞘のままで相手をしていたのだが、対峙してい者にはそんなものは関係ない。
常に刃の切っ先を首筋に当てられているような緊張感に包まれ、気の一つも逸らせる事は出来ない。
油断を見せれば次の瞬間に地に伏せることになるのは自分なのだから。
子供である二人に対しての手心や手加減なども一切ない。
二人が怪我をしたとしても差し伸べる手はなく、その顔に浮かぶのは続ける意志はあるか否か、それだけである。
しかし一度修行が終えれば、老人は普段の優しい柔和な顔を取り戻す。
見事な切り替えであり、当初は子供たちでさえ戸惑いを覚えたものだったが、それも一日経てば慣れたものだった。
確かに修行は厳しくて辛いものがある。
でもそれでロレンスの根元が変わっているわけではない、と二人は理解したのだ。
剣戟に明け暮れては限界まで体を苛め抜き、動けなくなったノエルに代わってロレンスが夜には手料理を振舞う。
老人の料理はたまにノエルの都合の悪い時に食卓に並ぶ程度だったが、腕は悪くは無い。
年の功といったところだろう。
ノエルは手料理に感激し、カイルは体を動かして腹が空いていたのだろう夢中で口に運んでいた。
そんな夜を談笑をしては過ごした。
子供たちは充実したその一日の終わり、疲れた体を癒すべく布団に飛び込む。
余力なんてものはすでになく、お風呂から上がればその心地よさと疲労感からすでに瞼は閉じかけていた。
なんとか髪を乾かしてから、とノエルはカイルを小突くが少女も大分怪しい様子だった。
そんな中、食器の後片付けをロレンスはしていたのだが……ちなみに後片付けくらいは、とやろうとしたノエルから無理やり勝ち取ったものである。
それはともかく、物音さえ聞こえなくなった部屋の様子におやっとする。
二人の部屋の戸を静かに開けると、大の字で豪快な寝姿のカイルと、すーすーと静かに寝入ったノエルの姿。
それこそ十秒と経たず寝入ってしまったのだろう。
いつもならきっちりと布団を被っているノエルでさえ、布団がはだけたまま可愛い寝息を立てていた。
微笑ましい二人のその姿に笑みを零しながら、老人は体がはみ出さないようにしっかりと布団をかける。
二人の頭を愛しげに一撫でしてはおやすみと呟き、そっと部屋の戸を閉めるのだった。
時間さえ間延びしたと感じる過酷な修行とその後に過ごす暖かでゆっくりな時間。
充実した心と疲労困憊な体では睡魔に勝てる道理はなく、いつの間にか眠ってしまう。
だからこの一週間はとても長くてとても短いものになった。
それでも時は移ろい、そして最後の日は訪れる。
その日は祝福されたかのような快晴で、早朝でもこの季節にしては珍しく暖かだった。
まるで春が訪れたかのような陽気であり見送る者としても、旅立つ者としても気持ちのいい朝だった。
玄関口でロレンス、ノエル、カイル、そしてニコの四人はしばしの別れとなる挨拶を交わしていた。
「ニコ、二人のことをよろしく頼むね」
「お任せくださいロレンス様!お二方より私は弱いですが、各地を回ったこの足と地理がこの頭に叩き込まれています。
無事に送り届けますよう精一杯努めさせていただきますっ」
「ニコ兄ちゃん気負いすぎだぜ。まだ出発もしてないじゃん」
せっかくかっこいい所を見せたかったのに、カイルの一言で台無しである。
ずっこけそうになるニコに、ノエルは笑いそうになるのを必死に我慢していた。
この場で少女まで笑ってしまうとさすがにニコがいたたまれない。
老人は和やかな気持ちでそれを見守る。
もうすぐ二人とは別れることになるだろう。それでも老人の顔には翳り一つ無く、彼らの門出を祝っていた。
「カイル、荷物の中身はちゃんと確認した?そそっかしいんだから忘れ物とかしてないでしょうね」
「何回も確認したから大丈夫だって。それに忘れ物したとしても、途中で買えばいいだろー」
「あんたね……お金には限りがあるんだから無駄遣いは出来ないの!」
「……ケチくさ」
「なんですって!」
大きな皮袋を背負った二人はそうやっていつもの喧嘩を始めてしまう。
皮袋の中身は食料や生活用品、衣服などが入っているのだろう。
子供たちの身長とほぼ同じ大きさで、ぱんぱんに膨れ上がっていた。
それ以外には馴染みの木剣だけで、今にも二人はエスカレートした喧嘩の末に抜きそうになっていた。
そんな二人におろおろと困惑しているニコ。
顔は右往左往させては、所在無さげに止めるか否かと手を迷わせている。
(そんな調子じゃ身が持たないよ、ニコ)
苦笑しながら心の中でそう呟くロレンスであった。
二人にとっては喧嘩もコミュニケーションであり、本気ではないのだから止め時を与えてやればいいだけの話だ。
ニコにも慣れてもらわなければ、この先の旅路で苦労するばかりだろう。
そう思ってちょっとだけ様子を見ていた老人だったが、ぐるるがるるといがみ合う二人の間にニコが割ってはいるのは難しそうであった。
平和主義である彼には少し重荷だったか、とそろそろ老人は助け舟を出すことにする。
「こらこら。いい加減にしなさい。カイル、ノエルの言うことは最もだ。王城までの旅路は長いのだからお金は大切にしないといけないね」
「……うん」
「ふふん」
「でもノエル?君もそう頭ごなしに怒ることでもない。もっと優しい言葉をかけてもいいはずだよ」
「……はい。すみません」
カイルが怒られた時には鼻を鳴らして喜んでいたノエルだったが、自分もその対象だったと知って瞬く間にしゅんとする。
一時はどうなることかと思っていたニコはその素晴らしい手際に思わず感動してしまう。
「さすがです……ロレンス様。不肖このニコ、感激致しました」
「うーん、ニコもこれからのことを考えると頑張って欲しい。結構な頻度でノエルとカイルは喧嘩しちゃうからね」
はっ、とした顔をするとニコは自分にも至らない部分があったと気付き、子供たちと同じようにしゅん、として顔を項垂れる。
老人の目の前には子供二人と青年一人が同じような格好で頭を垂れていた。
まるで示し合わせたかのような光景に吹いてしまいそうになるロレンスだった。
「……っ。ま、まぁそれはそれとして、三人の旅路となるのだから仲良く、ね」
「…………じいちゃんは一緒に来ないの?」
いつのまにかカイルは顔を上げていた。その表情は眉根を寄せていて、老人が共に行かないことに不満を抱いているようだった。
そしてそれは隣にいたノエルも同じなのだろう。
少女もどこか懇願するような視線で老人を見ていた。
それは歳相応の子供の表情で、親となるロレンスの元から離れたくない、と言外に物語っている。
一つだけ、老人は静かに息を飲み込む。
「行けない」
「どうしてですか?あんなにお強いのに私たちよりもずっと皆の助けになると思います」
「そうそう。結局俺たちじいちゃんには一度も勝てなかった。剣を当てることさえ出来なかったし」
「それに……私たちだってロレンス様と」
「行けないんだ」
老人の声は大きく、ノエルの言葉に被さってはかき消した。
二人はびくり、とその声の大きさに体を震わせる。ニコでさえ目を丸くして驚いていた。
普段から物静かであるロレンスがこうまで声を荒げたことなどなかったのだから。
心中、穏やかでいられないのは老人とて同じだった。
これから自分は嘘をつこうとしている。正しさから目を背けようとしている。だから思わず声が大きくなってしまったのだ。
和やかだった空気はどこかに吹き飛んでしまい、緊張感が辺りを支配する。
その緊張の糸が張り詰めて途切れてしまう前に、老人は重たい口を開いた。
殊更に笑顔を貼り付けながら。
「僕は確かに今の二人よりも強いけれど、いかんせん体力がないんだよ。修行している間だって僕はろくに動いていなかっただろう」
「えっ、てっきり私は大げさに動くまでもないのだと思っていました」
「だよなぁ。俺の攻撃って大したことないんだってショック受けてたのに」
「すまないね。そうでもしないとすぐに息切れしてしまうから」
「ってことは俺の攻撃を無理やり避けてたの?じいちゃん。俺の攻撃すごい?」
「そんなわけないでしょ!調子に乗らないのカイル!」
てんやわんやと懲りずに仲良く二人がじゃれ始めたら、いつのまにか空気は元通りになっていた。
子供たちは素直に老人の言葉を信じた。それは今の様子からも窺い知れる。
初めて老人が声を荒げたというのに、それさえもなかったかのように。
純粋でいて無垢。無垢故にそのサインを見逃してしまう。
ノエルとカイルがこうまで信じてしまったのには理由がある。
老人は子供たちに一度として嘘をついたことがなかった。そう、一度として。
小さな他愛無い嘘でさえ一つとしてなく、二人と過ごした十五年という歳月の中で老人は正直者でい続けた。
一体どうやってそんな人を疑うことが出来るだろうか。
この場で疑念を持ったのはニコただ一人だった。
ただしその青年でさえ、真偽を確かめることが出来ない。
剣聖である彼を尊敬し、その嘘がどんな物だったかわからなかった為。老人が……ずっと笑顔でいた為。
「そうだ。二人には贈り物があるんだよ」
「「え?」」
「その木剣を貸してごらん」
なんでと思いながらも素直に二人が木剣をロレンスに手渡すと、老人は換わりに自分の腰に差していた二振りの刀を取り出した。
それは剣聖の愛刀である月光と月影であった。
それぞれ月光はカイルに、月影をノエルの目の前に差し出す。
「これを二人に」
「ろ、ロレンス様?それはロレンス様の……」
「うん。そうだね、僕が長年使い込んできた刀だ。これからの君たちには必要となる物だろう」
「じいちゃん、いつもその刀を大切にしてきたのに、そんな物を俺たちに渡していいの?」
カイルでさえ躊躇を覚えるほど老人にとって、いや、剣を扱う者にとって自分の得物というものは大事な物である。
命を預ける事になる武器を軽視する剣士などいない。
それを弟子であろうと家族であろうと、気軽に渡していいものではないのだ。
しかし老人は快く頷くのだった。受け取って欲しい、と。
「じいちゃん……」
「ロレンス様……」
恭しく受け取った二人がその刀を手にして最初に感じたのは重い、というものだった。
当然、木剣よりは重量的には重い。木で出来た剣と鉱物から造られた刀では違いがあるのは当たり前だ。
でもそれ以上に心にずしりとくる重みがあった。
「重いだろう、ノエル、カイル。それは覚悟の重みでもある」
「覚悟の……?」
「真剣であるその刀には容易く人を傷つける力がある。使う者が望めば命を奪うことだって出来る」
「……」
「心の鋼を持ってして振るいなさい。そうすれば結果など後になってついてくるのだから」
「俺は守りたい者を守るよ、じいちゃん!じいちゃんのように!!」
「私も、私もロレンス様のように歩んでいきたいですっ!」
嬉しかった。愛する家族が自分と同じような道に歩むと言ってくれたことが。
苦しかった。茨の道と誰よりも知ってるから、そんな所へ行かせてしまうのが。
悲しかった。剣を教えたあの日から感じていた未来が現実となってしまったことが。
だがその全てを飲み込んで、老人は刀を渡したのだ。
二人は自分のようになりたいと言った。ならば殺人鬼になったりはしない。
それでも戦場の最中ではどんなことが起こるかわからない。
苦難に立たされた時、傍にいられないのがこの上なく老人にとって辛い。
ロレンスは思いを押し殺して別れの言葉を告げる。
「名残惜しいけれど、そろそろ行きなさい……僕はついて行くことは出来ないけれど、いつでも君たちの無事を願っているよ」
「……ぐすっ。ろ、ロレンス様っ。行ってきます。ロレンス様の名に恥じないように精一杯努力したいと思います」
「じいちゃんの代わりに俺たちが魔族ぶっとばしてくる!それからお土産とかいっぱいいっっぱい買ってくるから楽しみにしててくれよな!」
「あぁ。二人共、気をつけて行くんだよ。ニコをあまり困らせないようにね」
その言葉を最後にして三人は古びた家屋を後にする。
何度も何度も振り返っては手を振る子供たち。だがその足を止めることはない。
寂しさや不安はあるだろうが、ロレンスから受け取った数々のものが後押しをしてくれていたから。
見送るロレンスは小さくなっていくその姿をずっと見届けていた。
三人の姿が影となり、粒となり、終には姿形さえ見えなくなっても老人はその場から動くことはなかった。
感慨深く佇んでいるのだろうか。
十分、二十分と時間が経とうとしても老人は立ち尽くしていた。
それからちょうど三十分という時が経った時、唐突にロレンスはまるで糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
今までのことが嘘であったかのように顔面は蒼白で、か細く息を吐くだけでも苦労をする有様だった。
立つこともできずに頬を地面につけて、よくぞここまで持ってくれた、と老人は意識を失う直前にそんなことを思っていたのだった。
老人が目覚めた時にはすでに辺りは薄暗く、夜の帳が降りてしまったことを教えてくれる。
数時間もの間、ロレンスは意識が覚醒することはなかった。
意識を取り戻したとしても体に力を入れることも困難で、よろよろと壁を支えにして立つことさえやっとだった。
そうして誰もいなくなった家屋になんとか戻ると、老人は自分の部屋にいつもの数倍の時間をかけて辿り着く。
「わかっていたことだけれど、ここまで衰えてしまったか……」
机の前にある椅子にどっと大きな物音を立てながら座ると、荒々しく呼吸を吐き続ける。
呼吸が落ち着いた頃を見計らい、引き出しにある紙と便箋を取り出した。
手紙でも書こうと言うのか、机の上にあった筆を取るものの腕が震えてしまって定まらない。
字を一つ書くことさえもままならない。
だが、今から老人が書こうとしている物はとても大切な物であり、どれだけ時間をかけようと残さねばならないものだ。
(時間はそんなに残されていないが……それでも書き残しておかねば)
八十という年月を生き続けて老い先短いのはわかっていた。
だがこうも唐突にロレンスの体調が悪化したのには理由がある。
それは二人と過ごしたあの一週間。その時に残りの全ての時間を費やしたからだった。
天族には気、というものがある。
人体に流れる血と同じように全身を駆け巡る生命のエネルギーのようなもので、それを操ることによって超常的な力を得ることができる。
魔族はそれとは反対に気は持たないが、魔力を宿しているという。
気とはすなわち生命の源。
超越した力が使える代わりにあまりに酷使しすぎると死んでしまうこともある。
今のロレンスがまさにそのような状態であり、もはや回復の見込みがないほど気が渇水してしまっていた。
ロレンスは十五年前の魔王との死闘の末、勝利を収めたが代償も支払うことになった。
代償、それは気の回復がうまく出来なくなってしまったこと。
普通の生活を送る上ならば支障はないが気を余分に使うようなこと、例えば剣技などは気を大量に消耗してしまい命が危ぶまれる。
だがそれでも短時間ならば少しだけ具合が悪くなる程度で済んだだろう。
しかしそれが長い時間、一週間も続いたとなると……。
(まずはノエルとカイルに)
決死の思いで老人は綴る。自分がこの世の残せる最後の言葉を。
遅筆で普段の老人の流麗な文字と比べることもできない有様だったが、その文字には一つ一つ思いが込められている。
伝えたい言葉はたくさんある。
愛していたこと。家族として一緒に過ごしたことがこの上なく幸せだったこと。
あの魔族に襲われてしまった廃村で生き残ってくれていたことを感謝し、村の人々を救えなかったことを謝る。
それから……それから……たくさんの思い出をくれたことがたまらなく嬉しかったこと。
書き続ければそれこそきりが無い程の思い出と幸せ。
二人が老人にくれたものは何よりの宝物であったこと。
そうして最後に自分の死は誰のせいでもなかったということ。
「最後のは……余計かもしれないね。でももしも自分たちのせいだと思ってしまうなら、やはり書き残しておかなければいけない、か」
あの一週間のせいで老人の命が短くなってしまったのは確かだが、それは老人がしたかったからだ。
子供たちに自分の技を教え、少しでも手助けになればいいと思ったからだ。
戦いの場に行く、と二人が口にした時にすでに死を覚悟していた。
自分が少しの間生き長らえるよりもっと大切なことがある。
自分の子供が生き延びる可能性が高まるならこれ以上の喜びはない。
だから子供たちが自責の念に駆られる必要はないのだ。
惜しむらくは直接顔を見て話したかったが、そんな機会は二度と訪れないだろう。
多少尾を引かれるが、その手紙の終わりはそう括ることにした。
便箋の中に手紙をしまい、丁寧に封をしてから最後に子供たちへ、と書くことでようやく完成した。
「後は……」
はぁはぁ、と息を吐く。手紙を書くだけでも結構な体力を消耗してしまった。
気の渇水は深刻で、ロレンスの視力はすでに利かなくなっていた。
かろうじてぼやける程度に見えるぐらいであり、ますます文字を書くことは難しくなっていく。
それでもロレンスは筆を止めることはなかった。
体が痺れを催し始めても、時折、記憶が飛び飛びになりかけたとしても手を止めることは無い。
自分をこれまで支えてくれた人がいる。その人々に何も言わずに去ることなんて到底できない。
純粋に自分を慕ってくれて、子供たちとも親しくしてもらっていたニコに……。
酒飲みで頑固、偏屈を地でいく困った親友に……。
高貴でいて気高く、他種族の自分を認めてくれた彼女に……。
身分の違いを超えて接してくれた優しき王様に……。
文を書き連ねるごとにその時の記憶が蘇る。
息も絶え絶えで苦しみの中にいるというのに、老人はその懐かしさに笑みを零す。
たくさんのことを思い出しながらゆっくりと筆を走らせる。
まるでそれは走馬灯のようで、微かに残った意識をどうにか繋げていく。
そして、そして。
最後にもうずっと会っていない幼馴染に向けて、短くも思いの丈を込めた手紙を書いた。
(君は……今も、あの空の下に、いるの……か)
意識はまたも暗転する。
ことり、と手に持っていた筆を机の上を転がっていく。老人は宛名のない手紙を最後にして机に突っ伏した。
それこそ二度と目覚めることの無い、永遠の眠り。
稀代の英雄、剣聖ロレンス。
数多の戦場を生き抜いては不殺を貫き、常勝にして無敗の剣士。
刀を振るえば百の武器を切り落とし、疾風の如き勢いで駆け抜ける戦場には血の一滴さえ落ちていない。
武器をなくしても抵抗する者には、卓越した剣技がその心を砕く。
万の敵にも臆することなく立ち向かい、一切合財の理不尽を跳ね除けて先陣を切るその姿に、人々は奮い立つ勇気を貰ったという。
引退後には国の復興に力を注ぎ、人格者としてもその名を知られた。
隠居した後でも剣聖の名声は留まることを知らず、吟遊詩人が今でも一番の人気がある歌は彼のものであった。
その生涯の最期はこうして誰に看取られることなく終わりを告げる。
愛する家族は傍におらず、一人で逝くことになった剣聖ロレンス。
だがしかし老人の横顔はどこまでも安らかで、幸せに満ちたものであったという……。
彼の物語はそこで終わる。そのはずであった。
老人は知らない。これからの運命を。
舞台は変わらずのアレフガルド。
しかして彼が生まれ落ちるのは天族ではなかった。
まさしく神のいたずらによって彼はもう一度、その命を始める事になる。
ずっと戦い続けた相手。天族にとっての宿敵。子供たちの故郷と親を奪った魔族として生まれ変わるのだった。