第一話 散り往く花と共に
枯れ葉は舞を見せながらひらひらと、やがて終着点である地面へと落ちていく。
空を舞うその姿は命の最期の晴れ舞台とでも言うように、儚き美しさを網膜に焼き付ける。
薄茶色の葉に映える青空は生命の輝きを殊更意識させた。
老人はその光景を縁側から静かに見つめていた。
整った白髭と長い白髪。頭の後ろにまとめた髪の毛は結われて一括りにされ、まばらになることなく綺麗な流線を描いていた。
優しげな顔立ちにほっそりとした目が添えられ、口元は僅かに微笑んでいる。
ゆったりとした若草色の浴衣を見事に着こなす老人は非常に自然体で、そんな光景を見守っている。
それはまるで目の前に愛しげな人がいるかのようであった。
「綺麗だね」
呟いた一言は虚空に消えていく。
老人の傍には誰もいない。古びた家屋に今は彼しかいなかった。
だからそれは誰に聞かせるまでもないただの独り言。
けれど老人は満足そうに目を細めて、髭を蓄えた顎を擦るのだった。
静かな時が流れる。風も囁き程度に吹くばかりで、あるのは木々や草葉のざわめきぐらいだった。
ゆったりとした時の流れに身を委ねて目を閉じる。
自然の音も楽しみたい。
美しい光景を目に焼き付けながら、耳にもその記憶のカケラを残しておきたかった。二度とはない光景であるから。
季節が巡れば同じような出来事はあるだろうが、それはけして同じではない。
この瞬間、瞬間が一生に一度の経験だ。
年を経ることでようやく気付いた、そんな当たり前で当たり前じゃないこと。
一期一会、そんな言葉を頭の中で浮かべてしばらくは耳を済ませる。退屈など全然しなかった。
長い間、自然の音に耳を傾ける老人だったが不意に片目を開け、髭を擦る手を止める。
「ん……?帰ってきたかな」
老人が声を発した数秒後、家の中から床を蹴りつける音が響いた。
騒音を耳にして予想と違わない人物だと確信し、老人は持っていた木の杖でゆっくりと立ち上がる。
その動きは高齢の者としては滑らかであり、淀みの無い動作だった。
遅いわけでもなく、かといって速いわけでもない流麗さ。
立ち上がれば背筋もぴんとまっすぐに伸ばし、杖など必要なかったであろうことは明白だった。
老人の所作の美しさは見るものが見れば、ほう、と感嘆のため息を零すことだろう。
「じいちゃん!帰ってきたぜ!」
溌剌な声と共にその姿を見せたのは幼さを残す少年。
元気を象徴するツンツン頭に人懐っこい笑顔を携えて老人の前へと現れた。
その少年を追いかけるようにして、今度は幾分か軽い足音も聞こえてくる。
程なくして同じように姿を現したのは可愛らしい少女だった。
ちょこんと頭の上に乗せられた二房のテールはまるで兎のようで、少年と同じ茶色の髪の毛をしている。
何処となく顔立ちが少年と似ているのは兄妹だからだろう。
少年もそうだったが少女も同年代の子供と比べるとすっとした顔立ちをしており、整った容姿をしていた。
美少年、美少女、というよりかは可愛いという比重が大きくはあったが。
「こらっ、カイル!いつも言ってるでしょ!!じいちゃんなんて失礼な呼び方しちゃダメだって!」
「ノエルは口うるさいなー。じいちゃんがいいって言ったんだからいいだろー」
「そうだとしても、よ!親しき仲にも礼儀あり。弁えなさいっ!」
「また小難しい言葉して大人振るんだからなー。ノエルは」
どうやらカイルと呼ばれた少年は見た目通りの子供っぽさ満点の男の子であり、カンカンに怒っているノエルと呼ばれた少女はカイルよりかは大人であるようだ。
実の所この二人には歳の差がほぼなく、どちらが兄か妹か、はたまた姉か弟かはわかってはいない。
その話はさておき、ヒートアップする二人の間を取り持つようにして老人は優しい声を上げた。
「ノエル、確かに僕がカイルにそう呼んでもいいって言ったんだよ」
「ロレンスさま、しかしそれは……!」
「むしろ僕はノエルにもそう呼んでもらって構わないのだけどね?」
いたずらっぽく片目を閉じて老人……ロレンスは微笑んだ。
弱った顔をしたのはノエルだった。当の本人にそんなことを言われてしまったら文句のつけようがない。
ノエルとしては本人にそう呼んでもいいと言われても、簡単にそう呼べるはずがない。
だからこそ困った顔で固まるしかなかったのだ。
ロレンスも少女をいじめる気は更々なかったので、すぐさまに話題の転換を図った。
「そういえば街はどうだったのかな?変わりなかったかい」
「そーそー!じいちゃん!今日は行商人のおっちゃんが来てて色々珍しい物見れたぜ!」
いの一番に反応したカイルは体を乗り出してロレンスに語り始めた。
その勢いや軒下を飛び出さんばかりであり、外に立っていたロレンスが落ちやしないかと気が気ではなかったぐらいだ。
熱が入った様子でアレやコレという言葉が口から飛び出す後ろで、ノエルは呆れた顔でカイルを見ていた。
位置関係としてはいつもこんな有様で、元気があって活発なカイル、その元気すぎるカイルを暴走しないように見張っているノエル、といった感じだった。
ロレンスはそんな二人をずっと見守ってきた。
そう、二人と出会ったあの日からずっと。
ロレンスは忙しないカイルの話を聞きながら、そんな暖かな懐かしさを胸の内に感じていた。
「今日の夜ご飯は鍋です!」
どどーん!っと言った有様でノエルがどこか得意げに胸を張る。
すでにテーブル中央にはぐつぐつと煮えた鍋が置かれており、湯気と共に食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐっていた。
日もすでに落ちきって腹の虫も囀りだした夜のこと、それはそれは魅力的な匂いであった。
鍋の中を覗き見れば山菜の数々に程よく色づいた鶏肉、そして椎茸やエリンギといったキノコ類が所狭し。
どんな鍋物にも名脇役として登場する白肌美人、豆腐の存在も忘れてはいけない。
それらの味を濃縮した出汁は、うまみ成分がこれほどまでかと詰め込まれている。
食材を平らげた後にご飯を入れておじやにするもよし。
スープとしても絶品で、鍋を頂くときには無粋な邪魔をする他の飲み物など不要といっていいかもしれない。
「何でそんなにノエルが偉そうなんだよ。野菜とか切って入れてるだけじゃん」
「あんたね……包丁も持ったことないのに、そんな文句つけるなんていい度胸してるわね」
「包丁なんて刀と一緒のようなもんだろ。なら俺の方が得意かもな!」
「カイルぅぅ。今、二重の意味で馬鹿にしたわね……。許さないんだからっ」
ピキリと青筋を立てるノエル。それはそうだろう。
カイルは料理のこともそうだが、剣の腕もノエルより自分の方が上だと言った様なものなのだから。
鍋を前にして大声を上げて喧嘩をし始める二人に、ロレンスは慌てふためくことなく事の成り行きを見守っていた。
これはいつものことであり、二人の様子を見ても本当に怒っている感じではなかった。
ならばやらせるだけやらせて、白熱しそうだったら自分が間に入って止めればいい。
喧嘩も二人にとって一種のコミュニケーションなのだから、無闇に割って入るのも逆にダメになるとロレンスはわかっていた。
それでも今日に限っては早めに止めたほうがいいだろう。
せっかくの鍋料理が勿体無い。
新鮮な素材を使っているから例え煮え立ってもおいしいには違いないが、料理には最適な時間というものがある。
最高の味を逃すのは誰にとっても得をしない結果になるだろう。
「ノエル、カイル。そろそろご飯にしないかい。僕はお腹がすいてしまったよ」
お腹をさすりながらそう訴えるロレンスに、さすがの二人も喧嘩を止めざる終えなかった。
そういやそうだった、と早速とばかりに箸を取り出すカイル。
敬愛している人物の前で醜態を晒したことを恥じ、頬を赤く染めるノエルと二人の反応はかなり違ってはいたが。
とりあえず喧嘩を止めることが出来たようでロレンスは一安心する。
とはいえ、腹が本当に減っていたのも事実。
腹の虫が鳴らない内に、そしてカイルに全ての具を掻っ攫われない内に食べ始めたほうがいいだろう。
だがそれもきちんと挨拶をしてからではないと。
胃を刺激され今にも鍋に手をつけそうなカイルには少々悪いが、ロレンスは手を止めさせる。
「逸る気持ちはわかるけど、まずはいただきます、だね」
「あ、そっか!ごめんな、じいちゃん」
こういう時に素直に謝れるのがカイルの美徳だとロレンスは思う。
我侭な子供であったなら、自分の楽しみを邪魔されれば反抗的な目で睨みつけてくるかもしれない。
無視してそのまま食べ始めるというのもありえる。
カイルという子供は礼儀の面では些か問題点はあるが、根本的な部分ではとてもいい子なのだ。
カイルがテーブルに箸を置いたのを見てから、いつものようにロレンスがいただきます、と声に出した。
料理を作ってくれたノエルに、そして食材に感謝を。
続いて二人のいただきますの声が重なる。
後はおいしい料理に舌鼓をするばかりの幸せな時間。
さぁ食べよう、とする前にまずはロレンスはノエルに皿を渡した。
喜んで鍋の中身をついでくれるノエル。
別にロレンスとて自分でやれないことはないが、そうするとノエルが物足りなさそうな顔をするので忍びないのだ。
鼻歌でも歌いそうな上機嫌な彼女の姿を見ていると、ロレンスもまぁいいかという気分になるというものだ。
適度に盛ってくれた皿を受け取り、ありがとうとお礼の言葉を言うと、ノエルは何も言わずにただ笑顔になった。
一方のカイルはというと、ひたすらに食事を満喫しているようだった。
いつの間にか皿の上には大量の具が盛っており、それをなくすことに邁進しているかのような勢いである。
咀嚼しては飲み込み、咀嚼しては飲み込みの繰り返し。
機械でもこうも早く食べることが出来るのかと疑わんばかりの速度であり、最早料理を流し込んでいるといってもいいだろう。
老人であるロレンスにとって真似の出来ない所業であり、いっそ清々しい食べっぷり。
喉に食べ物を詰まらせないか心配になるが、これが器用にも今まで一度と足りてそんなことはないのだった。
さて、そろそろ自分も食べようかとロレンスは思うが、ノエルはまだついでもいない様子だったのでそれを待つことにした。
自分が待っていることを感付かれるとまた恐縮しそうなので、とりあえず茶でも飲んで間を持たせる。
ずずず、とゆっくり茶を楽しみ、テーブルに湯飲みを置く頃には彼女の準備も終わったようだ。
ちょうどいいタイミングと思い、ロレンスも箸を手に取り食べ始めた。
どうせならノエルが食べ始めたのを確認してからがロレンスとしては良かったのだが。
だがそれは彼女も同じようで堂々巡りになることがあった。
そういうことがあってからは先に食べるようにしているのだ。
「うん、今日もノエルの料理はおいしいね。それに加えていつもより味の染み込みが深い。もしかして具材の切り口を変えたのかな?」
「あ、そうなんですよ。よくおわかりになりましたね。山菜の切り口を工夫してみたんです。この方が出汁が馴染むかなと思いまして」
「へぇぇ。それは自分で考えたのかい」
「はい。自己流でお粗末ですけど……もしかして口に合いませんでしたか?」
「いやいや。そんなことはないよ。さっきも言った通りとてもおいしい。僕はただそれを自分で思いついたのならすごいと感心したんだよ」
「す、すごいですか?そんな大した手間じゃないし、ただの思いつきなんですが」
そう謙遜しながらも満更ではない様子でノエルは照れていた。
そんな彼女の様子を微笑ましく思いながら箸を進めていく。
最近は気温も低くなってきていて寒いことこの上ない。夜ともなればそれも一入で体を温めてくれる鍋物は最適な料理だった。
カイルほど大食漢にはなれないが、それでも山菜を中心に軽々とロレンスは平らげていく。
街であったことを談笑しながら和やかに夕餉は過ぎていくのであった。
「今日も楽しかったね」
縁側に座っていたロレンスはそうやって独りごちる。
そこは老人の寝床である和室からすぐの場所で、眠る前にはそうやって一人で佇んでいる事もしばしばあった。
すでに深夜に差しかかろうという時であり、ノエルとカイルはもう寝てしまっているだろう。
賑やかな食事の時間と比べると、今は風の音すら聞こえなくなっていて寂しい気持ちになってしまう。
虫たちの鳴き声さえ聞こえないのは冬眠に入ってしまったからだろうか。
それでも一人ではないとでも言うように月の光が差していたから、悪くない夜だった。
昼間には太陽、夜間には月。
変わらず空にいてくれることにロレンスは喜びさえ感じていた。
八十年……そう、老人が生きてきた年月を数えればもうそんなに経っていた。
色んなことがあった。色んな人々と出会った。
皆で旅をした。世界を巡りに巡った。
数奇な運命に翻弄されることもあった。自分に課せられた宿命に苦しみを覚えたこともあった。
だけれどロレンスは一生懸命に生きてきた。それこそ愚直と言わんばかりのまっすぐな心根。
違えぬ信念があったからこそ衝突することだってある。
そんな物は当然のことだ。一人一人が自分の正義を持っている。
この世にあるのは正義と正義のぶつかり合い。悪というものはきっと存在しない。
傷つけあいながら、痛みを抱えながら、ようやくそれを理解した。
そんな単純なことに随分時間をかけてしまったものだと、ロレンスは思わず苦笑してしまう。
だけれどそうやって今の自分が出来たのだと思えば、そう悪いものではないと思ってしまう。
そんな中、夜空に浮かぶ月は今でも変わらずにいてくれる。
ロレンスの原点、今はもうなくなってしまった村で、大切な幼馴染と見上げた空と何も変わらない……少なくとも、ロレンスにはそう思えた。
変わらずにいてくれたことに安心感を覚えながら、老人は和室の方を振り向いた。
和室の奥に鎮座する二振りの刀。
ロレンスが現役の頃に振り抜いてきた愛刀だった。その名は月から名前をとって月光、月影という。
鞘に収められて沈黙を保つ刀を見ては在りし日の思い出に浸る。
「おっと、こんなことをしているとまた叱られてしまうね」
口に思わず出したのは自分を嗜める意味もあるのだろう。
思い出を振り返ることは悪いことではないが、それも頻繁となれば問題だ。
今を生きるのだったら前だけを見ろ、とは懐かしき親友の言葉だったか。
そういえばあの引き篭もりの親友とも、とんと会っていない。
久しぶりに会いに行くのもいいかもしれない。
二人も一緒に連れて行けば賑やかな旅路となるだろう。
こちらから出にいかなければ、一向に顔さえ見せないのだから困ったものだ、とロレンスは思っていた。
ノエルとカイルを会わせてみた時、どういう反応をするのか楽しみだ。
あの男は子供が苦手だから、いつもの仏頂面でいるのは難しいだろう。それを想像するだけでも笑みが浮かんでしまう。
「だけれど……」
ふとした瞬間に差すのは黒い影だった。
今までが明るい気持ちでいたからこそ、尚更に影は深い。
その影とは実体を持ったものではなく、時たまロレンスが感じている嫌な胸騒ぎが正体だ。
最近になって現れたそれはただ漠然としているだけで、確たる証拠というものはない。
現に今まで不幸という不幸はなく、穏やかな日常を過ごしているだけだった。
幸せを感じているからそれを失うことを恐れているのか、とロレンスは自問してみるが、どうやらそんなものでもない。
では一体何なのか。
答えはわからない。それだけに尽きた。
何もなければそれでいいのだが……嫌な胸騒ぎを抱えつつ、ロレンスは床につく。
すぐに眠りに入ればこんな思いもきっと消えてしまうだろう。そんなことを考えながら。
だがロレンスの胸騒ぎは的中する。それも最悪の形となって。
この日を最後に老人の穏やかな日々は終わりを告げるのであった。