九話
「村長からあんたの身なりを綺麗にするように頼まれた。いいかい、少しでもおかしな真似をすれば、漁師の女たちの恐ろしさを味あわせてやるからね!」
まとめ役の女は、恐ろしさをごまかすように目の前の美しい女に向かって潮焼けした声で威嚇するように言ってのけた。
小屋の中の女たちは固唾をのんで美しい女の反応をうかがったが、身じろぎもせずにその美しい顔をやや伏せているため表情がよくわからない。それが尚更不気味であった。
お清は単純に、まとめ女がしゃべるのに合わせてふるふると柔らかに、だが壮大に揺れる乳房に全神経を集中させているだけである。
しばらくお清の反応を見守っていたが、このままでは埒が明かないとばかりに漁師の女たちは仕事をするためにきびきびと動き出した。
お清は瑞々しい褐色の乳房に囲まれて鼻息を荒くしたが、後ろに控えた銛をもった女たちに気が付き助平心をひっこめた。
裸にひん剥かれて念入りに体を拭われる。
藻をすりつぶしたどろどろの磯臭い液体を体に念入りに塗られる。
それをまた沸かした真水で綺麗に 洗い落とせば、そこには光り輝く真珠のような肌を晒した天女がいた。
女たちは感嘆のため息をつきながら、お清にこの村で一番上等な着物を着せた。
薄紅色の小袖に紅の帯、金の結紐で髪を軽く括れば、村娘に紛したどこぞの姫君のようにも見えた。
漁師の妻たちは、女小屋の外でやきもきしながら待っていた村長にお清を引き渡した。
村長の男とお清が去っていくのを眺め、女小屋の女たちはやり遂げた充足感と緊張から解き放たれた安心感に微笑みあった。
そして口々に天女のようだったとか、人魚のお姫様なのかもしれねぇとさざ波のように女たちが喋りだし、またいつものように女小屋はけたたましい喧騒に包まれていった。
後にこの地を中心に「天女伝説」や「人魚姫伝説」「地に落ちた月の姫伝説」が語られるようになったという。
女小屋から出たお清はそのまま、用意されていた輿に乗せられて漁村を後にした。
漁村から領主の館までは半日もかからない。
輿の横に並んで歩きながら、自分も仕立てのよい服に着替えた村長の息子はお清に何度も含んで言い聞かせていた。
「いいな、領主様のお許しがない限りは絶対に頭を上げたり、喋ってはなんねぇ。いいな!?」
「しつこいなぁ、わかったわかった」
「お前、絶対わかってないだろっ!!」
そんなやり取りを何度も繰り返していると、お付の一人が村長の息子に心配そうに声をかけた。
「おい、こんな頭のおかしい女を領主様に献上しちまって大丈夫なのか…?」
「……親父がすでに館に『人魚を献上する』と先触れを出しちまったからな…。まさかあんな見目の良い女の中身が、こんなんだとは思いもしなかったんでな……」
そう言って村長の息子とお付の者はお清の乗る輿に目をやった。
中から微かにいびきが聞こえ、二人は深くため息をついた。
そんなこんなをしながら、一行は領主の館へと到着した。
一行はそのまま広い座敷の間へと通される。一段高くなった上座には誰もいない。
しかし一行は、物珍しさにあたりを見回そうとするお清の頭を押さえながらこうべを垂れて領主が現れるのを待った。
「連中が連れてきた女を見たか? まるで天女のようにいい女だったな!」
「あぁ、あれならどこぞの将軍様の妻にと望まれてもおかしくないだろうに。それをわざわざ人魚だとか触れてまで献上品にしようとは、浜辺の連中も必死だな」
「まぁ、領主様のお怒りをとかんと飢え死にしちまうからなぁ」
そんな声が廊下を通り過ぎていったが、座敷の間の一行は身じろぎひとつせぬままこうべを垂れていた。
ただ、膝の上に置いた拳のみが、何かを堪えるようにふるふると震えていた。
「領主様がお見えでございます!」
座敷の間に突如先触れの声が上がり、襖が音もなく開かれると同時に一人の男が入ってきた。
静まり返った部屋に領主の鋭い足さばきの音が妙に通り、座敷を支配する空気ががらりと変わる。
それはそこかしこに一斉に鮮やかな血の華が咲いたような、もしくは芯まで凍り付く氷の檻にいるような鋭い緊張感をはらみ、しかしどことなく人を捉えて離さない妖しい魅力を放っていた。
村人たちは更にこうべを垂れて必死に畳を見つめ、そしてお清は―――
何も考えずに頭を上げ、上座に座った男を見た。
「……あっ…」
お清の口から、吐息のような声が出た。
男と視線が絡み合った。
その瞬間。
抜身の刀を眼前に突きつけられたような感覚にとらわれ、お清はめまいに襲われた。
それも飾り物のなまくら刀ではない、人の血を吸った妖刀の凄味だった。
上座に座る男はまだ青年と言っても差支えないほど若かった。
真っ黒に日焼けした筋骨隆々の漁師たちに比べれば、肌は白く引き締まった体は細く見える。
顔も無骨な漁師どもに比べ、鼻梁の整ったどことなく貴族のような顔である。
しかし決して軟弱な印象は受けない。
それは、男から噴き出る覇気によるものだった。
整った顔は人の目を引き付け、そして引付られた目は男の持つ冷たく酷薄な空気により即座に引きはがされる。
人は男に恐れを抱きながらも、覇気に魅了された。
しかし気の弱い男や女子供にとっては男の覇気は毒でしかなく、畏怖の対象でしかない。
お清も男の覇気に充てられた。
お清の顔は血の気が失せ、体は小刻みに震えていた。
見る者がいればそれは庇護の念を抱かせる儚い姿である。
だが、お清はお清だった。
(な、なんじゃ。あの男を一目見た途端、胸が締め付けられるように苦しい。顔が熱くなったり冷たくなったり、手がじっとりと汗ばんでおる……)
(そ、それにさっきから股が熱くて何だか濡れてくる……)
男にビビッてちびっただけである。
お清は震える手を無意識に胸の前で合わせ、もう一度男の顔を見た。
やはり胸が締め付けられるように苦しく、自然と息が上がってしまう。
人はそれを恐怖と呼ぶ。
だがお清は。
「……惚れた…。これが、この苦しい思いが人に惚れるということなのか……」
呆然と呟いたお清の言葉に、座敷の間は凍り付いた。
「ほう、この俺に惚れたと申すか」
凍り付いた空気の中、更に底冷えのする声が感情もなく言い放たれた。
衣擦れの音がして領主の男がよどみない仕草で立ち上がる。
そのまま上座から下りると大股で歩いてきた。
そしてお清の目の前でしゃがみこむと、お清の細い顎に手をやりぐっと顔を上げて覗きこんだ。
男の目を何の恐れも抱かずに見返せる者は数少なく、ほとんどの者は男の静かな圧力に耐えかねて目をそらす。
さすがのお清も男の鋭い視線に耐えきれず、ついと目をそらした。
だが、
「……恥ずかしい…」
と、そっと一言囁いた。
それは、まごうことなき恋に恥じらう乙女の姿だった。