十八話
一行はしばらく歩き続けた。
そうしてすでに領地も見えなくなった頃、微かに女人の声が聞こえた。
一番最初に気が付いたのはお清だった。
「…錦之丞さま、女の声が聞こえませんか?」
「ん? ……いや、俺には聞こえないが?」
いぶかしげに辺りを見回す錦之丞の耳を、お清はいきなり引っ張った。
「も、もしや領地に置いてきた女が追いかけてきたんじゃないでしょうね!? すっとぼけてんじゃないのかい!?」
「阿呆か!! あれだけ屋敷にいて、俺に女がいたと思うか!?」
「なら男かぁ!?」
「お前は阿呆だぁああ!!」
相変わらずな二人を諌めながら、老婆は耳をそばだてた。
「……わたくしにも聞こえましたよ? はて、誰ぞ殿方のお名前を呼んでいるようですが…」
やがて、女人の声ははっきりと耳に届くようになった。
「…吉、…清吉……せいきっちゃーん!!」
「……あれ、呼ばれてるのわし?」
三人は思わず顔を見合わせた。
やがて後ろの方から、旅装の女人が物凄い勢いで駆けてきた。
それは、お清の良く知る女人であった。
「あれ…小夜?」
息を切らしながら駆けてきたのは、清吉の幼馴染であり、清吉が人身御供の身代わりとなった小夜であった。
呆気にとられているお清達に追いついた小夜は、しばらく乱れた息を整えるのに時間を要した。
そして顔を上げると、ぽかんと見守っていたお清にいきなり抱きついた。
「清吉っちゃん、清吉っちゃん、清吉っちゃん!! 無事だったのね! 良かったぁ~」
小夜は涙を流しながら強く強くお清を抱きしめた。
お清は何が起きているのかわからず、感極まっている小夜にされるがままだった。
錦之丞は遠巻きに抱き合う女二人を眺めていたが、またもや遠くから聞こえてくる声にきがついた。
見れば小夜が走ってきた方から、一人の男が走ってくる。
錦之丞は目を細めると、いまだ抱き合っている(お清は一方的に抱き着かれているだけだが)二人の前にさりげなく出た。
やがて男は錦之丞たちのもとへたどり着くと、先ほどの小夜のように、いや男はその場にへたりこんでしばらく情けない恰好で息を整えていた。
そしてだいぶ時間をかけて息が整った頃、膝に付いた土をはらいながら立ち上がる。
やや警戒している錦之丞に愛嬌のある笑顔を浮かべると、居住まいを正した。
「みっともないところをお見せして申し訳ありません。わたくし、そこの小夜の婚約者にございます」
「……見たところ、どこぞの大店の若旦那といったところか?」
「これは御見それいたしました。そのとおりです、ここからまぁまぁ離れたところで商いをさせていただいてます、ほどほどの呉服屋の倅にございます」
にこにこと愛想よく笑う男の立ち振る舞いは、育ちの良さをうかがわせる品があった。
危険な人物ではないと判断した錦之丞は、そっと警戒を解いた。
「それでこれは?」
いまだ抱き合っている女二人にちらりと目線をやり、目の前の男に問いただす。
男は抱き合う女二人を眩しそうにながめ、錦之丞に答えた。
「ある日わたくしの店に、小夜が人を訪ねて参りました。その恰好は長旅のせいでぼろぼろで、小夜自身もやつれておりいまにも倒れそうな様子でした。若い娘さんがそのような様子で旅をする理由を聞きましたら、『命の恩人を探している』というではないですか」
そこで男はその時のことを思い出したのか、小さく鼻をすすって話を続けた。
「若い娘が己の身なりも気にせずに、一途に人を探す様子に心打たれましてね。私も両親も、やつれた体に鞭打って探し人を訪ね店を飛び出そうとする小夜を引きとめて、体の塩梅が元に戻るまでと世話をすることにしたんです」
「……そしてそのまま許嫁にか?」
母親のことがある錦之丞は、やや冷めた表情で男をみやった。
「小夜はとても一途で気の良い娘です。気の強い町娘や、お高く澄ました商家の娘しか知らなかった私には、とても眩しく思えました」
錦之丞は「よくわかるぞ」とばかりに頷いた。
どちらも女子に良い縁のなかったようである。
「そこで両親とともに頭を下げて、うちに嫁に来てもらえるように頼んだのです」
「…田舎から出てきた娘にとって、願ってもない縁談ではあるな」
「そうでしょう? そうでしょぉぉおおおうっ!?」
「うおっ!?」
男は穏やかな笑顔を豹変させ、いきなりカッと目を見開くと錦之丞の手を激しくつかんできた。
「小夜はそんな軽い女じゃないんです! 幾度も幾度も考えたのちに、やっと頷いてくれたんです! だけど、だけど! 恩人である方を見つけ出さないかぎりは、嫁になるつもりはないって、きっぱり宣言したのです! まさに天国から地獄に突き落とされた気持ちでしたよ!! いつ見つかるのかもわからない、生きているのさえも分からない方が見つかるまでっ、傍にいるのに手が出せないのですよ!? なんという生殺し! あなたも男だから分かるでしょうっっつ!!」
「……お前、そういうのは心の中にしまっとかないと、嫁になる前に逃げられるぞ……」
男の手を振り払い、錦之丞は一歩も二歩も距離をとった。
「……そうかぁ、小夜、お前は阿呆だなぁ」
お清は小夜の顔を覗きこみ、困った顔でぽつりと呟いた。
「あぁ、俺以上に小夜は阿呆だ。俺のことなんかさっさと忘れて、嫁に行って幸せになってくれりゃあ良かったのに……」
「そんなこと、できるわけない……。清吉っちゃんはいつも優しくしてくれたもの。私の代わりに川に飛び込んだ清吉っちゃんが心配で心配で、つい村を飛び出しちまったんだ。いろんなところを回ったよ。いろんなところで、清吉っちゃんに感謝している人たちに会ったよ」
馬鹿だなぁ。
そう言ってお清は小夜を抱き返した。
小夜も嬉しそうにお清に抱き付く。
そんな幸せそうな女二人の姿を見て、男どもは二人をゆっくりと引きはがして自分の方に引き寄せた。
何となく、何となくだが、二人の世界を作っていた女たちに危機を覚えたからだ。
「……小夜は、このお清…清吉さん?、が好きなのかい?」
商人の男が不安げに尋ねる。
錦之丞もなぜか唾を飲んで見守った。
小夜はやや悲しげな顔をしてぽつりぽつりと話し出した。
「私と清吉っちゃんがほんの小さな童の頃にね、私が山の花畑に連れて行こうとしたことがあったの。だけど獣道を歩いているときに、私が足を滑らせて……」
小夜はそっと目を伏せて続ける。
「私を助けようとした清吉っちゃんも、一緒に崖から落ちてしまったの……。その時に清吉っちゃん、頭を強く打ってしまって……。それから、なんだかおかしなことばかりするようになってしまって……」
「馬鹿だなぁ!」
突然の大声に、皆は驚いて声の主を見やる。
そこには、情けない顔をしたお清がいた。
「俺のおっかさんが『あの時よりも前から、この子はおかしな子だった』って何度も言ってたろうがよ! お前、まだ気にしてたのか……」
そんなお清を、小夜は不安げに見つめた。
「清吉っちゃん、……幸せかい?」
錦之丞のそばで、お清はへらりと笑ってはっきりと答えた。
「あぁ、幸せだよ」
そんなお清の肩を抱き、錦之丞は小夜に向きなおった。
「こいつは男だったり女だったりいろいろとおかしな奴だが、俺が責任をもって幸せにしよう。小夜と言ったか、お前も安心して幸せになるといい」
小夜は少し考えた後、安心したように錦之丞に微笑みかえした。
「『蓼食う虫も好き好き』とは、このことですね!」
「……お前らの村はこんなのだらけか……」
最後にもう一度しっかりと抱き合った後、小夜は商人の男と旅立っていった。
何度も何度も振り返りながら手を振る小夜を、お清はいつまでも見送った。
その姿が見えなくなった後も、お清はしばらく眺めていた。
そして隣から軽く小突かれた。
「おい、いつまでそんな捨てられたような顔をしてるんだ。隣に誰がいるか忘れていないか?」
お清は呆けた顔で、「あぁ……忘れてた」と答え、頭に拳骨をくらった。
そしてお清達一行がその場を去ろうとした時。
辺りは突如もやに包まれ、3人は乳白色の世界に閉じ込められた。




