十六話
錦之丞が屋敷から出ていくことを告げてはや二日後、屋敷の門には旅装姿の錦之丞、お清そしてフキの姿があった。
皆、必要最低限のものしか持たなかったため、支度は驚くほど早かった。
錦之丞は告げたその日に出ていってもよいくらいの心積もりであった。
しかし、屋敷中の人間が錦之丞に最後の挨拶に伺おうとしててんやわんやとなり、混乱状態となったため結局錦之丞が差配をすることになり出立を伸ばした。
「主様、どうかお体にお気を付けてお過ごしください」
「あぁ、そなたも達者でな」
二度と座ることのないと思っていた大広間の上座に再び座り、錦之丞は挨拶に来る使用人ひとりひとりに言葉を返していた。
錦之丞の隣には、ひっそりとお清が傍に付き添っていた。
屋敷にいた時間は短いながらも何やら思うところがあるのか、押し黙ったまま厳かな顔で、挨拶に来る使用人たちの顔を眺めている。
その静かな憂い顔はまるで木陰にひっそりと咲く可憐な花のようで、錦之丞に挨拶が終わった人々はこの穏やかな人こそ奥方にふさわしいと、今までの奇行も忘れてお清にも頭を下げていった。
錦之丞は挨拶をうけながら、横目でそんなお清をちらりと見た。
(えらく殊勝な態度だが、あいつも何か感じるところがあるのだろうか……。いや、おおかた今日の昼飯はなんだろうかとか考えているに違いない)
そんなことを考えている錦之丞の顔も、はた目から見れば屋敷や使用人たちに惜別の思いを抱く厳格な領主の顔をしていた。
フキは二人の後ろに控えながら、
(……錦之丞さま、毒されてきましたな……)
と、これまた厳かな顔で二人を観察していた。
「!」
そんなとき、ふとお清がフキの方に振り返った。
口を開きかけたお清を制すように、フキはさっと膝でつめよるとお清の耳に口を寄せた。
『今日のお昼膳は、朝に水揚げされたばかりの魚を塩焼きしたものです。あと幾ばくかで人もはけましょうから、もう少し我慢して黙って座っておいでなさい』
『あい、わかりもうした』
お清も小声で返すと、また錦之丞と挨拶を交わす使用人へと美しい憂い顔を向けるのであった。
「………」
背後のそんなやりとりに耳を傾けていた錦之丞は、
(あのフキも、随分と毒されてきたもんだ……)
と、領主の顔を崩さぬまま気の抜けた息を吐いた。
そんなこんなで、出立の日が来た。
門の前には申し訳程度の荷物を手にした3人と、古くからこの屋敷に仕える年老いた重臣たちが見送りにいた。
「本当にその程度でよろしいのですか、もう少し路銀を持った方がよろしいのでは……」
重臣たちはあまりにも少ない錦之丞の荷物に戸惑いながら、すでに何度目かわからぬ言葉をかけた。
「くどい、必要ないと言っているだろうが」
そうぶっきらぼうに答える錦之丞の顔は、どこかしら面映ゆい顔をしていた。
錦之丞を腫物のように扱ってきた重臣たちが、いままでこのように意見してくることはなかった。
それが今では錦之丞のためを思ってかけられる言葉に、慣れぬがゆえか体がこそばゆくなるような、それでいて春の陽気に包まれているような不思議な心地がした。
どう反応していいか密かに錦之丞が迷っていると、袂をそっと引っ張られた。
「?」
錦之丞がふと横を見ると、頬を膨らませたお清がやや眉をひそめながら錦之丞を見上げていた。
「……錦之丞さま、じじぃにデレデレしすぎぃ…」
「………」
錦之丞は無言で、袂を掴むお清の手を叩き落とした。
「なら、そろそろ行くか」
錦之丞は少ない己の荷物を担ぎ直すと、何も言わずにお清が持っていた荷物も乱暴に奪い取りその背に担いだ。
「あ、錦之丞さま。錦之丞さまは婆ちゃんの荷物も持ってるんだから、わしのは自分で持つよ」
お清は錦之丞が担いだ荷物に手を伸ばした。
が、錦之丞は何も言わずにお清の手から荷物を上へと遠ざける。
その様子にお清はぷうと頬を膨らませ、むきになって錦之丞から荷物を奪おうと飛びかか……ろうとして、老婆に背後から羽交い絞めにされた。
『錦之丞さまのお心遣いなのですから、ありがたく受け取っておきなさい』
『でもばぁちゃん、わし、そんなか弱い女子じゃないし……』
お清に小声でささやいたフキは、羽交い絞めにしていた手をほどくとお清の顔を掴んだ。
『ほら見てごらんなさい、錦之丞さまの首を。素直に受け取っておきなさいな』
「……あ…」
お清はしかめっ面をしている錦之丞の首を見た。
そこは見事に赤く染まっていた。
お清はへらりと相好を崩した。
「え、えへへ……。き、錦之丞さま、荷物重かったから、助かっちゃったなぁ。でも疲れたらわしも荷物を持つから、その時は言っておくれね」
もじもじと落ち着きなく手を組んだりしながら、お清は錦之丞にそっと寄り添った。
「あぁ、俺が疲れたら全部の荷物をお前に持たせるから、今だけ楽をするといい」
「ひぃぃぃ、目が本気ぃ……!」
そんな、いちゃついているのか何なのかわからない二人を遠目に、重臣と老婆はひっそりとため息をつきあっていた。
「どのように手を尽くしても、御母堂のお骨もなければ形見となるものも何一つこの屋敷にはありませなんだ。当時はご正妻の支配が強かったとはいえ、何とも情けない限りでございます……」
そう言って深々と頭を下げる白髪のくたびれた髷をながめ、老婆はそっとため息をついた。
錦之丞の母が亡くなったとき、葬儀を行うことが許されなかった。
それどころか、正妻の差配で亡骸すらも行方知れずのままであった。
幼い錦之丞には、母を忍ぶものが何も残されていなかった。
フキは幼い錦之丞の傍にいながらも、必死で亡骸の行方を追った。
そして、正妻の郷である漁師町で海に投げ捨てられたと突き止めたときには、ただただ慟哭した。
フキには幼い錦之丞に伝える言葉が無かった。
だが、どこからか、悪意を持って錦之丞に伝える者がいた。
ある日、錦之丞はフキの手をとり、暗い笑みを浮かべてフキに語りかけた。
「母上は、広い海でゆうゆうとなされているのだ。フキよ、悲しむことはない。このような息苦しいところに墓なんぞ作られでもしたら、それこそ母上の御霊も浮かばれぬであろうよ」
泣いているようにも、笑っているようにも、そして苦しげにも見える哀しい微笑みを思い出し、フキはいまだじゃれあっているお清と錦之丞を見て細く息をはいた。
そして頭を振る。
晴れの旅立ちに、このような想いはふさわしくない。
あの奔放であった女人のことだ。
海を、空を、自由気ままに遊びながら門の前の三人を眺め、「待ちくたびれた」と朗らかに笑っているに違いない。
そして三人は名残惜しそうに見送る人々をあとに、屋敷を旅立った。
「錦之丞さま、どこに行くんで?」
お清は手持ちぶさたに歩きながら、ひたすら前を見て歩いている錦之丞の端正な横顔を覗きこんだ。
錦之丞はちらりとお清に視線をやった後、目に見えぬ何かを見つめるように目を細めた。
「……うん、この地を離れる前に、海を見に行こうかとな…」
「ほぉぉ、海ですかい」
前を行く二人の会話に、フキははっと顔をあげた。
この領地には海に面した土地がたくさんある。
錦之丞の想いが予想通りなら、行く場所はあそこだろうとフキは検討をつけた。
その場所は、錦之丞が領主として領地を視察する機会が幾度もある中で、一度も訪れたことのない場所であった。




