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十五話



 ひと騒動合ったその翌日から、館の主である錦之丞はいつにもまして自室に閉じこもるようになった。

食事は老婆が運ぶ膳をしっかりと取っているようだが、使用人たちの前には一切出てくることはない。

また、いろいろな所に書状を出しているようである。


 それは二日間。

その間、お清も錦之丞の部屋に立ち入ることを許されなかった。


 屋敷の者たちは何が起きているのだろうかと怯えていたが、表面上は普段通りに過ごしていた。

そしてお清は。


「寂しいのう、退屈じゃのう……」


 自室でくさっていた。


 畳にひたすら「のの字」を書いているお清の横で、老婆はいつも通りにてきぱきと仕事をしていた。

錦之丞に会えず、老婆も適当にしか返事をしてくれず、ふてくされたお清は畳に横になると、部屋の隅から隅までころころと転がりだした。


「ふごっ!」


 何度目か転がったところで壁に激突し、お清は痛む額をおさえながら老婆をうらめしげに見つめた。


「なぁばあちゃん、錦之丞さまは一体どうしたんじゃろうなぁ?」


 老婆は縫物をしていた手をとめ、ちらりと畳に寝そべっているお清を見た。


「錦之丞さまのことが心配かえ?」

「う~ん、錦之丞さまって何だかいろいろといらんことまで抱え込みそうだし、今も一人で変なこと考え込んでいるんじゃないかと思うと、心配じゃなぁ……」


 眉をひそめてさえ能天気な顔にしかならないお清を見て、老婆はふっと軽く笑った。


「この前、二人で腹をわって話をしたのでしょう? もう、錦之丞さまは大丈夫ですよ……」


 最近増えた老婆の笑みを、まるで眩しいものでも見るようにお清は何度かまばたきしながら見つめ返した。

そんなお清の様子がおかしくて、老婆は更に微笑んだ。

お清はなんだか面映ゆくなり、頬をかきながらようやく体を起こした。


「う~ん、しばらく会わないうちに、錦之丞さまが男に目覚めていたら嫌じゃなぁ……」


 老婆は無意識に、縫いかけの衣服をお清の顔目がけて投げつけた。


「痛ぁいっ!! ばぁちゃんっ、針が付いてる! ってか、三本刺さった!」

「ふむ、最近体が軽うて、思うよりも先に腕が動いてしもうたわ」


 わめくお清の横で、老婆は涼しい顔をしてぶんぶんと風を切りながら腕を振っていた。


「ばぁちゃん、何かキャラが違う!」

「ふむ、次は針刺しが飛ぶやもしれぬの」

「いやぁあああああ鬼ぃ!」


 館で間違いなく何かが進んでいたが、とりあえずお清の周りはのどかだった。




 錦之丞が自室にこもって三日目の朝、屋敷の主だった者たちが大広間に呼び出された。

使用人が所狭しと座敷に並ぶ中、お清と老婆も後ろの方でちんまりと座っていた。

別にお清は縮こまっていたわけではない。

しかし、いならぶ使用人たちの深刻な雰囲気が読めず、部屋中をきょろきょろと見回していたところを隣に座る老婆に抑え込まれた結果、ちんまりと座る姿勢となった。


 やがて、絶えることなく座敷に充満していたざわめきが見る間に引いていった。

上座に錦之丞が入ってきたのだ。


 座敷の空気はがらりと変わった。


 ぬるくまとわりつくようであった重苦しい空気は、まるで冬の朝のように息をするたびに身が引締められるようなものに変わった。

ただ、以前のように身を切りつけられるような厳しさではなく、自然と背筋が伸びるような程よい緊張をうながす清浄さを持ち合わせていた。



 やがて錦之丞は、ゆっくりと腰を下ろした。

大勢の人を前に座る錦之丞の姿は、領主にふさわしく威厳のあるものだった。


 久しぶりに見る錦之丞は、やや疲れた様子であったが特に病的なところは見られなかった。

遠目ながら相変わらず見目の良い錦之丞を認め、お清はだらしなく相好を崩しながらへらりと上座に笑いかけた。

お清の座るところから上座までは遠く、また大勢の人間がいる。

しかし錦之丞は確かにお清を見つめ、そしてにやりと笑った。


 それは一瞬のことで、使用人たちは不安と錦之丞への恐れにより顔を下げていたので誰も気が付かなかった。

気づいたお清が頬を赤らめてくねくねしているのと、全て見ていた老婆が苦笑いしてるのみであった。



「さて、皆に集まってもらったわけだが」


 錦之丞の一言で、座敷の間の緊張は一気に高まる。

誰かが唾を飲み込んだが、それが幾人も同時に行ったために部屋中のそこここでごくりという音が鳴り響いた。

唾を飲み込んだものもそうでない者もビクリとし、部屋は痛いくらいの静寂に包まれた。


 そのような座敷の間の様子に、後ろに控える老婆は静かにため息をもらした。

以前に比べれば錦之丞の声は柔らかくなっている。

しかし疑惑と恐れに囚われた人々は、自分たちで更に不安と恐怖を膨らませていた。

この使用人たちの中に、錦之丞自身を見ている者が一体どれくらいいるというのだろうか。


 老婆は、隣であいかわらずくねくねしているお清を一瞥して重いため息をついた。



 錦之丞は上座から、決して目の合う事のない使用人たちを見回した。

そして一言言い放った。



「俺はこの屋敷を出ていくことにした」



 座敷の間は混乱とざわめきに包まれた。





「な、何故にございますか!!」

「わたくし共は何も聞いておりませぬ!!」


 先代の頃より仕えていた重臣が思わず叫び、そして顔を上げ、息をのんだ。

錦之丞はいたずらが成功した子供のように、慌てふためく人々を見回しながら片方の口角だけを上げて笑っていた。

そんな純粋な錦之丞の笑顔を目にした使用人たちは、声を失くして見とれた。


 先ほどとは違う静寂に包まれた座敷で、錦之丞は呆けた表情で顔を上げている人々に向かって朗々と語り続けた。


「俺が領主として行っていたことは紙に残さずしたためておいた。なに、先代より仕えていたお前たちならばよく知っているだろう。近辺の権力者たちにも知らせは出している。お前たちで頭となるものを決め、落ち着いた頃に挨拶に向かえ」


 そう言って己の隣に積まれている紙の束を叩く錦之丞に、人々はこの日のために用意周到に準備されていたことを思い知った。

いまだ混乱から抜けられない人々をよそに、錦之丞はニヤニヤしながらお清の方を見た。


「どうだお清、さすがのお前も驚いただろう?」

「ん~、別に」


 ぽけっとした顔で返事をするお清に、上座の錦之丞はおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。

そんな二人のやり取りを、人々は呆気にとられて見守ることしかできなかった。

上座に座るのは、己らが恐れていた主なのだろうか?

人を寄せ付けない硬質な美しさはあいかわらずだが、このように笑う青年だったろうか?

人々はやっと錦之丞の雰囲気が、前と比べて柔らかくなっていることに気が付いた。


「錦之丞さまには驚かんかったが、お屋敷の方々が喜ばんことには驚いた」

「な、何と無礼な物言いか!」


 白髪をたくわえた老臣のひとりが、ぽけっと言ったお清の言葉に立ち上がって怒鳴りつけた。

顔を赤らめて唾を飛ばさんばかりに怒鳴る老臣にも怖気つくことなく、お清は不思議そうな顔で言った。


「だって、皆錦之丞さまが怖かったんだろう? そりゃ錦之丞さまが威嚇していたのもあったけど、皆避けるくらい怖がってたじゃないか。だったら居なくなって喜ぶもんじゃないのかい?」


 お清の言葉に、座敷の間にいた人々は虚をつかれたようにはっと息を飲んだ。


 お清はそんな人々にかまわず、首をかしげながらひとりごちる。

「わしが村を出ていくときは、皆万々歳だったんじゃけどな……」

「阿呆、有能なわしと阿呆なお前を比べるな」

「ひ、ひどい……」

「ま、お前を追い出した村の連中は、見る目がなかったと思うぞ」

「き、錦之丞さまぁ……」

「お前は度し難い阿呆だがな」

「ひぃいいい……」



 上座で屈託なく笑う錦之丞の笑顔を見て、立ち上がっていた老臣をはじめ先代の頃より仕えていた人々は、かつて少年が母の傍で笑っていた光景を思い出した。

そして少年から笑顔を奪った要因のひとつが、まぎれもなく己たちであることを思い出して自然と頭を垂れた。


 新しく入ってきた人々は錦之丞の笑顔を初めて見て、主もこのように笑うことができるのだと知った。

そしてこの屋敷を捨てることでようやく、主は笑みを浮かべることができたのだと悟り頭を垂れた。


 座敷の間には頭を垂れてそれぞれの思いに浸るものたちと、それを静かな笑みで見守る錦之丞、そして頭を垂れてふてくされながら「のの字」を呑気に書いているお清の姿があった。

その後ろで、老婆は静かに目尻をぬぐっていた。




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