十四話
部屋に置いてある懐紙を束にし、屋敷の主であるはずの錦之丞は一心不乱に畳を綺麗にしていく。
余計なことは一切考えない。
気が緩めばもらいゲロしそうだからだ。
だいぶ臭いも汚れも目立たなくなってきたころ、放置したままのお清がか細い声で呟いた。
「……錦之丞さまは乳の垂れた婆に襲われたせいで、不能になっちまったわけなんですね……」
錦之丞は咄嗟に、先ほどまで畳を拭いていた懐紙をお清に投げつけた。
渾身の力で投げつけられた紙の束は、錦之丞の狙いどおりにお清の顔にぶち当たった。
「くっさっ! あんた、なんちゅうものを人に投げるんじゃあ!! この人でなしぃ!! 」
「お前が手伝いもせずに阿呆な事ばかり言うからだろうが!! それに臭いもなにもそれはお前のじゃ、この阿呆!」
錦之丞とお清はいきり立って立ち上がろうとした。
が、二人して顔を見合わせれば、お互いに顔色が悪いのに気が付きどちらともなくまた畳に腰を下ろした。
錦之丞は再びお清に背を向けると、また畳を拭きながらぶっきらぼうに答えた。
「言っとくが婆の件は未遂だからな、未遂! 飛び掛かってきた時点で切り捨てたわ!」
「…つまり、錦之丞さまは……まだ筆おろしもすんでいない清らかな身体―――」
錦之丞は容赦なくお清を投げ飛ばした。
そしてお清に体を起こす間も与えず、さっと駆け寄より的確に静かに締め落とした。
半ば白目を向いたそれは、とても安らかな顔だった。
「やっと静かになったか」
錦之丞は畳の上で伸びているお清にいったん目をやり、清々したとばかりにまた畳の掃除にとりかかった。
あとは臭いの除去だけである。錦之丞は徳利を手に中身を口に含むと、酒を懐紙に吹き付けて畳をこすり始めた。
あぁ領主とはなんぞや。
せっせと畳掃除に精をだす錦之丞を見る者がいれば、普段の錦之丞の恐ろしさを思い出し目をひん剥いて卒倒したことだろう。
だがこの部屋にいるのはゲロの後始末をする錦之丞と、布団も敷かぬ畳の上でいびきをかいているお清だけである。
誰も訪れぬ夜の部屋に若い男女がふたり。
なのになんと色気のないことか。
静かな夜に響くお清のいびきは、いい加減いびきにブチ切れた錦之丞がその頬を張り倒すまで続くのであった。
次の日の朝、館は騒ぎに包まれた。
主がいつもの時間に起きてこないのである。
錦之丞は朝の訪れとともに自ずから目を覚まし、屋敷の者が朝膳を運ぶ時にはしっかりと身支度をすませている。
だというのに、朝餉を運ぶ女中が声をかけても締め切った障子の向こうから返事が帰ってこない。
気難しい主のこと、許しもなく部屋に入ることも中を見ることすら許されぬ。
女中は、何事か起きたのではと青ざめて女中頭に報告した。
女中頭と初老の家臣筆頭は血の気のひいた顔を突き合わせて話し合い、とりあえず主が幼いころより唯一身近に置いていた老婆、フキにことの全てをお願いしようと部屋を訪ねた。
こちらも珍しいことに、いつも夜が明ける前に起きて仕事を始める老婆は、女中頭と家臣筆頭が訪れるまで床の中にいた。
女中頭と家臣筆頭は老婆の部屋の外で、老婆が支度をするのを待ちながらこれはいよいよ何かが起きているのではと、青い顔を更に白くさせて肝を冷やしていた。
やがて二人は部屋に招き入れられ、事の次第を老婆に説明した。
すでに混乱の極みであった二人は、なぜ老婆が起きてこなかったのか、なぜ老婆の目が腫れぼったいのか、なぜこの部屋に居候していたお清の姿がないのかなどに全く気が付かなかった。
ただただ、この異常な事態をとにもかくにも老婆に預けてしまいたかった。
老婆は落ち着いた様子で、二人が口から泡を吹きながら説明するのを聞いていた。
そして一言「承りました」と頭を下げると、二人を置いて部屋からすたすたと迷いない足取りで出ていった。
部屋に残された二人は、しばし気が抜けたように呆然と座り込んだまま動けなかった。
老婆はよどみない足取りで、錦之丞の部屋まで歩いていた。
その手には、湯を張った桶と手ぬぐいを持っていた。
昨夜はあのお清に、己の積年の重荷を解き放たれた。
己の取り乱した姿を見て、お清が錦之丞になにかしら行動をとったのであろうと容易に想像がついた。
お清が錦之丞の闇を解き放つことができたのなら、部屋の中で二人は床を共にしたと思われる。
身を清めたりなどの用意が必要であろう。
しかし、錦之丞の闇は深い。
もし、もしお清が錦之丞の闇に飲まれたときは、……きっと部屋の中は血の海となっていることだろう……。
老婆はかつて幼い錦之丞が正妻を切り捨てた時の、むせ返るような血の臭いを思い出し我知らず身震いをした。
まだ息がかろうじてあった正妻の姿を見ても、特にどうも思わなかった。
ただ、正妻の返り血に染まった表情のない錦之丞を思い出し、再び胸が苦しくなった。
そして、血まみれで事切れているお清の姿を思い浮かべそうになり、老婆は慌てて頭を振って忌まわしい幻想を追い払った。
かなりおかしな娘で頭を悩まされることの方が多かったが、フキは自分でも意外なほどにあの娘を気に入っていた。
この息の詰まりそうな屋敷の中で、裏表のない娘の姿はとても好ましいものだった。
そしてそれは錦之丞も同じである。
なまじ心を許しかけていただけに、お清を切り捨てたとあればもう錦之丞は誰にも心を開かないであろう。
あの能天気の塊のような娘が、生気のない目を虚ろに開けたまま転がっている姿は想像だにしたくなかった。
やがて、老婆は主の部屋の前へとたどり着いた。
不気味なほどに静まり返った部屋を前にし、目を閉じて一つ息を吐く。
そして覚悟を決めて顔を上げると、応えのない主の部屋に一声かけ、血の気のひいた手でゆっくりと障子を開けた。
そして。
一声叫んだ。
「臭っ!!」
部屋の中の様子は、フキが想像したどれでもなかった。
二人は寝間着にも着替えぬまま、寝室にもいかずに畳の上にそれぞれ転がっていた。
衣服は多少乱れているものの脱いだ様子もない。
そして情事のあとのような艶めかしい空気のかけらもない。
何やら汚れた紙の束にうずもれ、白目を向いていびきをかいているお清と、かなり離れたところに、疲れた表情で眉間にしわを寄せながら眠っている錦之丞の姿があった。
そして、息も詰まるような酒ぐささと、何の臭いか想像もしたくないすえた臭いが漂っていた。
「臭っ!」
ほんの少し、いや大いに二人が床を交わしたのではと期待していた老婆は、予想とは違う部屋と二人の惨状に涙を浮かべながら頭を垂れた。
それから、用意した手拭いで素早く口元を覆うと、フキは半ばやけくそ気味にいまだ寝こけている二人を叩き起こして回った。
二日酔いで頭が回っていない二人のために(一名はいつも頭が回っていないが)、屋敷の者に命じて風呂を沸かせ、畳の入れ替えをさせ、フキはあくせくと動き回った。
屋敷の者たちはいまだ状況がさっぱりわからなかったが、とりあえず老婆の指示通りに動いていた。
ただひとつわかっているのは、長年眉間に深いしわを刻み、口元はいつも何かに耐えるように引き結ばれ影の差していた老婆の顔が、絶えることのない柔らかい笑みを浮かべているということだけだった。
老婆は自分が、とうの昔に忘れ去った笑みを浮かべていることに気づいていない。
ただ、意識がもうろうとしつつも目を覚ました錦之丞が開口一番に言った言葉を、何度も心の中で繰り返していた。
―――フキ、俺は自分のことしか見えていなかった。長くの間、母の代わりと傍にいてくれたお前に心労をかけて済まなかった―――
手を止めれば涙が零れ落ちそうで、フキはただひたすらに体を動かし続けた。
その日はどのように動き回っても、体はまるで羽に生えたように軽かった。




