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十三話


 お清の必死の言葉に、「そういえばお前、女だったか……」と錦之丞は思い出したように呟き、あっさりとその戒めを解いた。


「あっはっは! 隙ありぃいいい!!」


 お清は畳にうずくまった姿勢からまるで獲物に飛び掛かる猫のように、目の前にある錦之丞の足首目がけて飛び掛かった。


「甘いわ、阿呆」

「!?」


 お清の目の前から足が忽然と消え、直後に尻に衝撃がきた。

お清の手を避けた足によって、尻を蹴飛ばされたのだ。

お清はそのままべちゃっと畳に落ちた。


「し、し、尻を足蹴にするかぁ!!」

「ふむ、存外に柔らかいな」


 尻を押えて真っ赤な顔で抗議するお清に、錦之丞は飄々と言い放った。


「もう我慢ならん!! 覚悟せぇやぁ!!」


 お清は今までにない素早さで立ち上がると、いつの間にか衣服を整えて涼しい顔をして立っている錦之丞に向かって飛び掛かった。

錦之丞はまたもやひらりと交わしお清の腕をつかむと、今度は勢いよく足を払った。


「ぎゃぁあああああ!!」


 なす術もなく、勢いよく尻から畳に激突するお清。

それを見て更に爆笑する錦之丞。


 一応、受け身を取れないであろうお清のために、錦之丞は腕を掴んで畳に頭がぶつかるような事態は防いでやっている。

繰り返すが、一応、気遣いはしているのだ。


 これでも。


「あーっはっはっは! まじめな話をしているのにだと!? お前が言うなよ! どうだ、お前の相手をする人間の気持ちがわかったか!?」

「きぃいいいいいいっ!」



 酒の席で乱れた男と女が二人。

なのに何と色気のないことか。



 錦之丞は生まれて初めて大声を出して笑っていた。

酔っていたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

とにかく初めての経験で、溢れ出てくる笑いの心地よさに身を任せていた。

もし老婆がこの光景を見れば、新たな涙で袖を濡らしたことだろう。



 その後もお清はひたすら飛び掛かり、錦之丞は笑いながら容赦なく投げ飛ばした。


 そうしてひとしきり騒いだ後、二人の腹が同時に鳴った。


「……動いたら腹が減ったな。飯でも食うか」

「……あい。ご相伴にあずかります……」


 二人は冷静になると静かに卓につき、黙ってもそもそと食べ始めた。

育ちの良い錦之丞と食べ物に意地汚いお清は、あの騒ぎでも決してお膳を倒すような真似はしない。

あんなに煩かったのが嘘のように、部屋には二人の咀嚼する音だけが微かに聞こえるのみだった。




「……フキには心労をかけていたからな。後で見舞いに行く」


 ぽつりと囁かれた声に、お清は顔をあげて錦之丞の顔をみた。

錦之丞は己の卓を眺めていたが、その横顔はいつもの凄味もなく、つきものが落ちたように静かなものだった。

お清はそんな錦之丞の顔に見とれていたが、ふと思い立って錦之丞の杯に酒をつごうととっくりを持ち掲げた。

だが錦之丞は手を上げて首を振り、お清の酌を断った。


「…まだ怒ってるのか…」


 自然とむくれたお清の顔に、錦之丞は静かに苦笑して答えた。


「いや、俺は大体酒は好まぬし、誰かに酌をされるのも嫌いだ」

「…なんか嫌な思い出でも?」


 お清の問いに、錦之丞は嫌そうな顔をしてみせた。

「いらんとこだけ鋭いな…」

「女の感ですよ」


 鼻の穴を広げて胸をそらすお清に、『お前、女のつもりだったのか』と言おうとしてよけい話がこじれると、錦之丞は咄嗟に言葉を飲み込んだ。

勝ち誇ったお清にそのまま説明をするのも癪で、錦之丞はお清からとっくりを奪うと手酌をして己の盃を空けた。


「フキから大体は聞いたのなら、正室の最後は聞いたか?」

「いや? そういえば全然聞いてないなぁ」


 首を傾げるお清に、なんとなく錦之丞は酒を注いでやった。

酔わずには話せなかったのかもしれない。

盃を傾けてちびりちびりと舐めるように飲みだしたお清を確認し、錦之丞はため息をひとつ吐いてひとつひとつ噛みしめるように語りだした。


「自分の息子を失った後、散々俺や母上に嫌がらせをしていた女はだ、何をとち狂ったのかある日、突然にこのような酒の席を用意した」


 お清は盃から口を離して何か言おうとしたが、即座に錦之丞に酒を注がれて慌ててこぼれそうな盃に口を付け直した。

うまくお清の口をふさいだことに満足げな笑みをうかべ、錦之丞は続きを話し出した。


「顔を見るのも吐き気がしたが、あの女を郷に叩き返してやるのが決まった後だったからな。みじめで哀れな女の末路でも見てやろうと乗ってしまった」


 そこで錦之丞はぐっと吐き気に襲われた。

お清はまだ酒の残る盃を放り棄て、錦之丞に近づきその背をさすった。


「話したくないなら無理に話さんでえぇ。顔色がわるぅなった、お茶でも持ってこようか?」


 錦之丞はうなだれたまま首を横に振った。

「いや、今日はすべてをぶちまけたい気分だ…。清吉よ、付き合ってくれるか?」

「あいわかり申した」


 背中をさすり続けるお清の妙にかしこまった言葉に静かに苦笑し、錦之丞はくぐもった声を絞り出すように続きを語った。


「酒の席にいたあの婆は、妙にこぎれいにしいて全く取り乱した様子もなかった。それどころか気色の悪い笑みを浮かべながら酒を勧めてきた。あの婆の用意した酒や食べ物に手を出す気持ちには到底なれなかった。そこで用件をさっさと言うように切り出したんだ。そうしたらだ……」


 錦之丞は知らぬうちに拳を握りしめていたらしい。

そっと触れる柔らかな感触に顔を上げれば、心配そうに見つめてくるお清と目が合った。

珍しいお清の真剣な顔に内心でふっと笑いつつ、そうすることでやや心のつかえがとれた錦之丞は続けた。


「『お前の子を身ごもれば、また私が跡継ぎの母となれる!!』と叫んでな、その場で衣服をはだけると、十ほどであった俺を……」


錦之丞は途端に目の前に迫りくる過去の幻影に、思わず目を固く閉じた。


「……手籠めにしようとした…」



 暗闇の世界で、全裸で覆いかぶさってくる元正室の姿が鮮烈に蘇る。

それは十の歳月が過ぎてもなお錦之丞を苦しめる幻影。

驚きで身動きの取れない幼い錦之丞に手を伸ばし、衣服をはぎ取ろうとする。


 幼い錦之丞と現実の錦之丞の口が、悲鳴を上げるために開かれたその時だった。

狂気の目で迫っていた女の顔が変わった。


「あ?」


 その姿は先ほど散々見た、必死の形相で飛び掛かってきたお清の姿になっていた。

呆気にとられた幼い錦之丞に、お清は飛び掛かる。

そして先ほどのように覆いかぶさられたと思った瞬間、幼い錦之丞はお清を投げ飛ばしていた。



「!!」


 そこではっと錦之丞は我に返った。

いつの間にか、先ほどまで錦之丞を苦しめていた吐き気と胸の重みが無くなっていた。

何だかよくわからないまま、ふと後ろのお清を振り返った。


「うぉおおおおおお!!」


 お清は、錦之丞の真後ろで吐いていた。


 咄嗟に自分に吐しゃ物がかかっていないか背中などを一通り確認し-た錦之丞は、慌ててお清に駆け寄ってその背中をさすった。


「お、おい大丈夫か?」


 焦る錦之丞に、いまだ俯いたままのお清は、かろうじて弱々しい声で返事をした。


「……乳の垂れた婆に襲われるなんざ、考えただけでおぞましい……」

「…うん、……まぁ、乳が垂れていたかは覚えていないが、おぞましいな……」


 そんな笑い話みたいな話だったか?と、錦之丞は首をかしげた。

しかも何故か介抱しているのは錦之丞の方だ。

しかも……。


「ううっ、…臭い…」


 二人の傍らにはお清の吐しゃ物が。


 使用人を呼んでさっさと片付けさせようとも思ったが、食事を運ばせるなどの最低限の用事以外で館の者を自室に入れたくない。


「……くそっ」



 悩みに悩んだ末、館の主である錦之丞自ら後始末をすることにした。



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