十一話
「錦之丞様は、男しか相手にできぬお方なのですかい?」
お清の突然の言葉に、茶をすすっていた男は一瞬固まった。
そして眉をひそめて言った。
「この俺に怯えることなく、そんなことをずけずけ言ってくる奴はお前だけだ……いや、怯える頭もないのか……。黙っていれば天女のような顔だというのにお前、俺に惚れているのではなかったのか?」
「惚れているからこそ、興味があるのでございますよ」
胸をはって自信満々に言うお清に、錦之丞はそれもそうか、いやそういうものか…?と悩みつつなんか納得してしまった。
正直なところ非常に言いたくない。
そして屋敷にいるだけの女に説明する義理もない。
しかし説明をしておかないと、お清がどのように暴走するか予想するのも恐ろしいので、錦之丞はしぶしぶといった様子で口を開いた。
「俺は男にも女にも興味がないだけだ。お前をこの屋敷においたのも、ただ単純に物珍しかったからだけだ」
「……男や女も関係なく、わしのことに惹かれたということですかい……。なんちゅう殺し文句や……」
「……いや、なんでそうなる……」
錦之丞は眉間をほぐしながら、目の前で頬を赤らめてくねくねしているお清に目をやった。
「お前、俺に抱かれたいのか?」
そう問う錦之丞の声は冷ややかで、すっと細めた目は剣呑な光を帯びていた。
この表情のとき、屋敷のものであれば返答を間違えば後がないと冷や汗がとまらないところである。
いや、初めてその表情を見たものであっても、鋭い刃のような雰囲気に圧倒されて答えをしばし詰まるであろう。
だがお清は迷いもせずに美しく上気した顔を上げ、潤ませた瞳で見つめ返して答えた。
「こんなに良い体に生まれてきたんじゃ、ほったらかしは勿体ない! それにわしは錦之丞さまに惚れぬいとるんじゃ、好いた男に抱かれたいと思うのは当然のことじゃろう?」
「……そうだよな、お前に媚を売れるような頭があるわけないわな……」
錦之丞は額に手をやりうなだれた。
ここでお清が「あなた様のお子が欲しゅうございます」とか、「このわたくしめにあなた様の子種を授けてくださいませ」とか言いながらすり寄ってきたら、問答無用で屋敷からたたき出すつもりだった。
実際にそうやってすり寄られたときはしばらく鳥肌のひかなかった経験のある錦之丞の口元は、うなだれて隠れていたが確かに笑っていた。
そうこうしているうちに「この見事な張りと形を見てくれ!」と胸元をくつろげて胸を揺らし始めたお清を見て、さすがに拳骨を落としてやめさせたが。
「主様、ご政務のお時間でございます」
締め切った襖の向こうから、恐る恐る声をかける部下の声がした。
この屋敷で、主の名を呼ぶのはお清と老婆だけである。
その声を合図に、今まで影のように控えていた老婆が立ち上がった。
そしてお清の胸元を綺麗につくろうと、しぶるお清の頭を下げさせて腕をひっつかんで共に退室していった。
それを見送りひとつため息をつくと、錦之丞はいつもの冷酷な領主の顔に戻るのだった。
「はぁ~、今日の錦之丞さまも素敵やったのぅ…」
与えられた部屋に戻り、また老婆の淹れた茶を手にお清は先ほどまでのやりとりを反芻し、相好をだらしなく崩してうっとりとしていた。
そんな残念な様子でさえはた目からは、頬を染めて恥ずかしげにうつむく花も恥じらう乙女に見えるのである。
ただ、口から垂れるよだれだけは、いかに恋する乙女の姿とはいえ頂けなかったが。
そんな時だった。
いつもは後ろに控えて黙って聞き流す老婆が、このときばかりはすっとお清の前に座った。
そんな老婆の珍しい行動にお清は仰天して居住まいをただした。
しっかりと口元の涎も拭いた。
このお清の一連の動作も老婆の教育の賜物であるが、老婆はそんなお清をよそに、静かな口調で語りだした。
「錦之丞さまは、先代様のお妾であったお方のお子でございます。ご母堂様は、元は都の芸女でございましたが、その美しさと才気に惹かれた先代様が、なかばこの屋敷に幽閉するように妾にされてしまったのです」
そこまで語り、老婆はお清の反応をうかがった。
今までの付き合い上、お清が理解できているか不安だったのだ。
お清は顎に手をやり「だから錦之丞さまはあんなに美しいんじゃな…」と、とりあえず真剣に聴いている様子だったので、老婆はそのまま話をつづけた。
「やがてお二人の間に男が誕生いたします、それが錦之丞さまでございます。しかしお屋敷にはすでにご正室がおられ、また世継ぎの男子もおられました。ご正室からの執拗な嫌がらせは、錦之丞さまがお生まれになったことにより途端に苛烈なものと相成りました。先代様はご正室と、そしてご正室のご実家の権力に圧倒されてそれを容認なさっておいででした。そして…」
そこで老婆は口をつぐみ、無意識に膝の上の手を握りしめた。
「屋敷の中で孤立していたご母堂様は、屋敷から出ることも叶わぬまま、幼き錦之丞さまを守って無念のうちに亡くなられたのでございます。錦之丞さまが五つのころでございました…」
そこで老婆ははっとした。
遠い日の話に痛む胸をかばうようにいつの間にか丸めてた背中を、お清がゆっくりとさすっていたのだ。
お清は今は亡き年老いた母を思い出し、目の前の老婆の背を何度もさすった。
お清のいたわりの仕草に、老婆は胸に溜まった息をゆっくりと吐きだすと、話の続きをはじめた。
「錦之丞さまはたったお独りで、屋敷中からの悪意を受けてお育ちになられました。そして錦之丞さまが十になられたときにございます。ご正室様のご実家で漁の真似事をされていたお世継ぎ様が、鱶に襲われて命を落としたのでございます」
老婆は当時の自分を思い出し、一層胸が締め付けられる思いになった。
老婆も元はこの屋敷の人間ではなく、錦之丞の母と共に芸女をしていた。
そしてなかば囚われの身となった女を哀れに思い、世話係として傍にいるようになった。
そして正室の息子が死んだとき、これで錦之丞は救われると密かに喜んだ。
だが、幼い錦之丞の闇はすでに深かった。
「それから、錦之丞さまの環境はがらりと変わりました。屋敷中から嫌がらせを受けてきたのが、あっという間にお世継ぎ様となり祭り上げられるようになりました。しかし錦之丞さまは、人々の手のひらを返すようなその変化を憎みました。そして特にすり寄ってきた人間たちを処分いたしました。そして領主となった後も孤独の中におられたのです」
老婆はそっと振り返った。
「あなた様がこの屋敷に来られるまでは」
お清は手をとめて、言葉もなく老婆の目を見つめ返した。
老婆は静かにそのお清の手を、自らのしわだらけの手でつつむように握った。
「あなた様をこの屋敷においた理由は、その境遇をご母堂様に重ねたのやもしれません。しかし、今の錦之丞さまを拝見していると、とても良いお顔をされています。あなた様であれば、醜い人の心に閉じこもってしまった錦之丞さまを癒せると思うのです。お清さま、どうぞこの老いた婆のお願い事を聞いてくださりは致しませぬか」
そして老婆は畳に額を擦り付けんばかりに頭を下げた。
お清はそんな老婆を困ったように見ながら頬をぽりぽりとかいた。
「…ばぁちゃん、わしはそんな立派なお人じゃないよ。頭もないし下種な野郎だよ。ばぁちゃんだってさ、そんな溜め込まなくてもいいんじゃないかい? 錦之丞さまだってちゃんとした大人なんだからさ、ばぁちゃんが錦之丞さまの過去をしょい込もうとせんでもいいんじゃないの」
老婆ははっと顔を上げた。
お清は頭をかいていた。
「いや、いっつも背筋のしゃんとしたばぁちゃんがさ、話をしている間にどんどん背中が曲がっちまうからよ、どんだけ重いものしょってんのかと思ってさ…。とりあえずお飯のことだけ考えてれば良くないか?」
老婆は感極まったようにお清に頭を下げて泣き出した。
「わ、私の身勝手な思いで、あなた様までこの屋敷の因果に取り込むところでございましたっ…。どうかお許しくださいっ」
「いや、だからばぁちゃん、そんな難しいこと言われたってわしにはわからんて!」
そのまま取り乱した老婆は、体力の尽きるまで泣き果てた。
お清は冷や汗をかきながら泣いている老婆をあやし、やがて落ち着いたところで布団を敷いて寝かせてやった。
そして珍しいことにう~んとしばし考えた後、屋敷の者を部屋に呼んで老婆のための水差しを持ってきてもらった。
そしてついでにと、ひとつふたつお願い事をした。




