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十話



 浜辺の漁村の者たちはもう生きた心地がしなかった。

頭のおかしな女だとは思っていたが、さすがに領主の前に出ればおとなしくしていると思っていた。

というか、領主の姿を見れば恐れおののき何もできないと思っていたのだ。

領主の怒りを買えば今度こそ村は終わりだ。ならばこの首を差し出して…。

村長の息子が覚悟を決めた時だった。



「面白い。俺を見てこのような珍妙な反応をする女は初めてだ。確かにこいつは人魚かもしれん」


 領主のいくぶん笑みを含んだ声に、その場にいた者たちは畳を見つめたままはっと目を見開いた。

いつも氷のように底冷えのする声であるというのに、このように機嫌の良い声を聞いたのは漁師の男たちにとって初めてだった。


「女、名はなんと申す」


 顔を覗きこんでくる男の整った顔と強い視線に、お清は頬を赤く染めながら視線をそらしてそっと名を答えた。


「…せ、…清吉でございます……」

「……清吉…?」


 いつもなら迷いなく一刀両断するように発言する男が出した、いぶかしげな声に再度空気が凍り付く。

何となくな流れにより周りから『お清』と呼ばれることはあったが、清吉自身が『お清』と名乗ったことは一度もなく、また女名を名乗ろうとする頭もなかった。


 村長の息子は脂汗をだらだらとかいていた。

流れ着いた女の素性を確認もせずに領主様に献上を決めた親父も親父なら、目覚めた美女の阿呆さにあきれて話をろくに聴くこともなかった自分もうかつだった。

今領主を前にして思えば、どうしてこの女を献上しようという流れになったのか。

それは、海から流されてきた女があまりにも人間離れした美しさで、また流れてきた状況が不可思議であったために村中が舞い上がってしまったのだ。


 今度こそ村は終わりだ。

村長の息子の目に涙が浮かんだときだった。



「……ふうむ、都の芸女は男名を名乗ると聞いたことがある。その容貌からしてお前も芸女なのであろう」


 領主は眉を軽く寄せてお清に問いかける。

村長の息子は首の皮がどうにかつながった!と微かな希望を胸に、畳をこれでもかと目を見開いて見つめたままお清の言葉を待った。


「いえ? わしはただの農民でごぜぇます。芸女でも人魚でもありゃしません」

「ただの農民だと? それが何故こやつらの村の献上品となるのだ」


 領主の言葉に、村長の息子はがたがたと震え、膝の上で握りしめた手にはぼたぼたと脂汗が落ちていた。

もうだめだ! もうだめだ! もう村は終わりだぁ、あっひゃっひゃっひゃっひゃ!

村長の息子が心の中で暴れ狂っている時だった。


「へぇ、気が付いたら海に流されて、あの村に流れ着いていたんで」

「そなたはどこぞから流されてきたのか。つまり村の連中はお前を助けたという事か?」


 頼む、頼むからそうだと返事をしてくれ!!

村長の息子が歯を喰いしばったひょうしに、口の中は血の味でいっぱいになった。


「う~ん、目が覚めたら変な男に迫られたりはしたが、きれいなべべを着せてもらったりしたからそうなるんですかなぁ……」

「流されてきたとあらば、お前を探している者がおるのではないか?」


 領主の声音に少し気遣うような気配が混じっていたが、お清と領主の会話をひやひやと聞いている者たちは気づかない。

いつ領主がこの頭のおかしな女を「無礼者!」と切り捨てるかと冷や冷やしていた。

そしてお清には気づく頭もない。


「いやぁ、戻る里もなければわしを探すような者はおりゃしません」


 さらっと答えるお清の顔を、領主の男はしばし眺めた。

そして後ろに控える漁村の民たちに目をやった。

その間、漁民たちは生きた心地がしなかった。

そして村長の息子は、引き締めた口から血を垂らしていた。


「いいだろう、この女を献上品として受け取ることとしよう。貴様らはさっさと失せるがいい」


 領主の男がそう言い捨てると、漁師町の男たちは挨拶をして逃げるように座敷の間から出ていった。

そんな漁村の民たちを凍える視線で見送る領主を、お清はうっとりと見つめた。

やがて領主はお清に目を戻す。


「…はう…」


 視線があったお清は高鳴る胸を思わず抑えた。

そんなお清の様子に、領主は口角をあげた。


「ふん、見れば見るほどおもしろい女だ。今まで俺を見た女は、怯えるか媚びてくるしかなかった」

「まぁ、元々わしは女じゃねぇですから…」


 お清の言葉に男は軽く笑った。


「なるほど、女扱いをしてくれるなということか。ちょうどよい、俺もお前が女だから手元に置くわけではない」

「…はぁ…」


 お清は何となく話がかみ合っていないような気がしたが、男の声が耳に心地よくどうでもいい気がしてうなずいた。


「ここで芸者として過ごす必要もない、よって清吉と男名を名乗る必要もない。本当の名はなんと申す?」

「本当の名が清吉でごぜぇます」


 男とお清は見つめ合う。

やがて男は感心したようにため息をついた。


「なるほど、あくまで芸女としての己を貫くか。その頑なな姿勢気に入った。ならばそなたの好きなように過ごすがよい」




 そうしてお清もとい清吉には、小柄で品の良い老婆が世話係としてつけられることとなった。

食事から衣服の着付けまでこの老婆が世話をした。

老婆は寡黙なたちのようで、清吉のとんちんかんな発言に対して特に反応を示すことなく淡々と清吉の世話をした。


 領主の名は『錦之丞(きんのじょう)』と言った。


 錦之丞は屋敷の中で常に張りつめたような空気を身にまとっていた。

誰を前にしても、たとえ独りの時でも。

屋敷の使用人に対しても冷酷非情な扱いで、気に入らないものは容赦なく暇を出された。


 そんななか、清吉はいつも通りにのほほんと暮らしていた。

生活に必要なものに困ることはなく、黙っていてもお茶やお菓子が出てくるような生活だったので、清吉も特に何かを欲しがることもなく過ごした。

錦之丞の顔を眺めていれば、清吉にとって白湯も甘露だった。


 錦之丞は清吉に何も命令はしなかった。

そばにはべらすこともなく、歌や芸を求めることもなく、清吉を寝所に呼ぶこともなかった。

……これでは衆道話のようなので、やはり便宜上『お清』と呼ばせていただく。

お清の様子を遠巻きに観察しているようにも見えた。



 そのうち、執務の合間にたまにお清を呼んでは、ぽつりぽつりとたわいのない話をするようになった。

あいかわらずお清は自分のことを「清吉」と言うので錦之丞もそれに合わせていたが、そのうちに面倒くさくなったのかいつしか「お前」呼ばわりになっていた。

お清はなんと呼ばれようがかまわなかったし、それどころか「あぁ、ついに夫婦のように『お前』『あんた』と呼び合う仲に!」とうっとりとしていた。

さすがに館の主を「あんた」呼ばわりさせるわけにはいかないと、お付の老婆にこってりと叱られたが。

そんなお清を見るたび錦之丞は、「お前と話していると、頭を使うのが馬鹿らしくなる」と微かに口角をあげるのだった。


 錦之丞に妻はおらず、また傍にはべらす女もいなかった。


 ある日いつものように執務の息抜きに錦之丞の部屋に呼ばれたお清は、老婆の淹れた茶をすすりながら思ったことをそのまま聞いた。


「錦之丞様は、男しか相手にできぬお方なのですかい?」


 茶をすすっていた男は一瞬固まった。




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