第五話『ネットとリアル』
わたしの人生は、概ね順調だった。それなりの学校には進学できたし、今も変わらず学生生活を過ごしている。就職のことはこのご時世、なかなか順調とはいかないだろうけれど、無暗に悲観的になっているわけにもいかない。
人生とは夢を見ることだ――と、わたしは常々思っているけれど、そんなことを許してくれない現実が目の前にあることも理解している。実際、わたしの前には学業以外の何かがあったわけではない。部活なんてやっていなかったし、甘酸っぱい経験もあまりなかった。
だから――と言うつもりはないけれど。
お酒を飲んだから――とも言うつもりはないけれど。
けれどもやっぱり、それらは要素のひとつと言っていいのだと思う。
結局、わたしが油断していたからで、間抜けだったということなんだろうと思う。
「もう……やだ」
現実は小説じゃない。奇しくもそれは、秋月さんに言われた言葉だった。良くも悪くも、ここは現実であって現実でしかなく、それ以上でもそれ以下でもなくて――わたしはわたしでしかなかった。
なんとなく違和感を覚えながら、僕はサイトを閉じた。ここ最近、れんれんさんの小説の更新が滞っている。今までこんなことはなかったし、間が開く時は必ずその旨を読者に伝えていた。今回はそれが全くないまま、すでに三回分の更新が滞っている。
「おかしいなぁ」
会議ツールには接続しているみたいだけど、メッセを送っても返信がない。サイトのダイレクトメッセージを使っても、やはり返信がない。会議ツールを常時起動している可能性も考えたけれど、夜になればログアウトしている。僕のメッセは意図的に無視されているようだが、僕には全く身に覚えがない。
〈ぼくから聞いても、結局は同じでしょうね。今はひとりで何かを考えたい時なのかもしれませんね〉
ナツメさんが言う。
〈あの人が小説の更新を滞らせるなんて、やっぱり何かがあったんだと思いますよ。ぼくでは何があったのか――そもそも何もなかったのかわかりませんけどね。案外、こうやって心配する必要がないことなのかもしれません〉
〈そうかな? もしそうだとしても、僕は心配でならないよ〉
あの人とリアルで話したことはないけれど、会議ツール越しの彼女は明るい人だった。チャットでもVCでも、彼女は明るかった。それが作ったキャラクタである可能性は、決して否定できない。けれども、それが作ったキャラだったとしても違ったとしても、彼女が読者を蔑ろにするようには思えない。
〈そうですね。でもれんれんさんがアクションを起こしてくれない限り、ネットでしか繋がりのないぼくたちにはどうしようもありませんよ〉
そうだ。どれだけ近しい存在に思っても、僕たちとナツメさんやれんれんさんをはじめとするみんなとの繋がりは、ネット上のそれでしかないのだ。会議ツールで繋がってもそれは変わらない。例えば僕が、今ここで会議ツールをアンインストールして活動している小説サイトから脱会すれば、それだけでみんなとの繋がりはなくなる。
濃くて細い――奇妙な繋がり。
〈こうなってしまえば、ぼくたちは彼女の帰りを待つしかないですよ〉
ナツメさんはとことん冷静だ。きっと彼はネット上の付き合いというものを、それ以上のものとして見ていない。それが悪いわけじゃないし、僕はそれについて意見をするつもりは毛頭ないけれど、その点では僕とは意見が合わないみたいだ。僕にとって――リアルとネットは限りなく同等に近いものだからだ。
〈そうだね。きっとちょっと疲れたんだろうさ〉
けれど、ナツメさんが言っていることは正論だ。僕は――僕たちは待つしかできない。それがわかっているから――これ以上なく理解しているから、僕はより心配なんだ。
ネット小説では突然更新をやめ、そのまま作者が失踪する例は少なくない。その手の書き手は大方、小説を書く経験が浅かったり、気分だけで書いていたりする作者だ。けれど、れんれんさんはそうじゃない。
「何がどうなったっていうんだ」
しかしいくら心配でも、これ以上気を揉んでいても仕方ないのは事実。僕は僕で自分がやるべきことをしなくてはいけない。
〈あ、そうそう。れんれんさんの新作は良かったですね。ときめきます〉
〈そうだね。れんれんさんの書いたものはみんなそうだよ〉
〈不思議ですよね。同一作者の同一ジャンルならワンパターンな書き方になりそうなものなのに、彼女は必ずしもそうじゃありませんよね。ひとつだけ――彼女自身が作った「軸」があって、それ以外は全く異なってます〉
それは恋愛小説というジャンルが「軸」であるというわけではないのだろう。小説を書くスタンスに大きく関わる「軸」――れんれんさんが〝れんれん〟という書き手であるために必要なスタンスのことだ。
〈だからこそ、彼女の小説にはときめくんですよね。あざとく言うと萌えます〉
言いなおした理由はわからないが、言いたいことはわかる。僕も同じ気持ちだ。れんれんさんの恋愛小説は、どこまでも魅力的だ。なんならお金を払っても良いくらいに。彼女から小説家になりたいというようなことは聞いたことはないけれど、彼女にはその技量はあると思っている。
食べていけるか否かは、別問題として。
食べていけなければ小説〝家〟とは言えない――と言われれば確かにそうなのだけど。むしろそれ以上でもそれ以下でもないのかもしれないけれど、とにかく、僕は彼女がその資質を持っていると言いたいんだ。
〈ああ、すいません。ぼくはこれで失礼します。学校の宿題をしなくちゃいけません〉
〈勤勉だね、僕はしょっちゅうさぼってたよ〉
〈真面目だけしか取り柄がないんですよ。というわけで、失礼します〉
〈ではまた〉
〈お疲れ様でした〉
気の抜ける音と共に、ナツメさんのログアウトが通知された。
なんとなく。
意味がないことは理解しつつも、僕はもう一度サイトを開けた。れんれんさんの小説は、やっぱり更新されていなかった。れんれんさんに関する項目は何も変化がなかった。
れんれんさんの最新作『風の通り道』は、まだ四話で止まっている。まだ主人公は片想いの相手と言葉を交わしていない。物語はまだ始まってすらいない。
「こんなところで終わらせるような無責任な人じゃない」
そうであることを僕は知っている。この会議ツールに登録された作者メンバーの中で最も付き合いの長い僕はきっと、他の誰よりもれんれんさんを知っている。
知っているはずだ。
けれど――今は何もしないし、できないのだろう。
待つだけだ。
〈話がしたいから、気が向いた時にメッセを送ってほしい〉
とりあえずそれだけを送信しておいた。もしかしたらメッセが返ってくるかもしれないという淡い期待があってのことだったが、当然のようにそんなことはなかった。なんとも言えないむなしさが込み上げてきたが、それは努めて我慢した。
「はあ……ん? ああ、そろそろかぜ子ちゃんが来るな」
時刻は十六時三十分を少し過ぎたところだ。かぜ子ちゃんは大体この時間帯にやってくる。それがわかっていたから、僕は玄関のカギを開けておいた。以前は常にカギをかけていたのだが、かぜ子ちゃんが来るようになってからはそれをしなくなった。
「やっほ、秋」
彼女はインターフォンを鳴らすことなくドアを開け、年頃の男の部屋に上がり込んできた。変なイベントが発生しないことを祈るばかりだ。
「いらっしゃい、かぜ子ちゃん」
かぜ子ちゃんは我が家のようにくつろいで、僕のベッドに寝転がった。この図々しさはさすがの僕でも真似できない。
「思ったんだけどね」かぜ子ちゃんは世間話の延長のように切り出した。「連載物ばっかりじゃなくて、短編も書けばいいと思うんだ」
「一応、理由を聞いておこうかな」
「長い物語を書くのって、結構簡単なのは知ってるよね?」
「ああ」
長い文章を書くということは、一見すると面倒で難しい作業のようだが、実はそうではない。詳しく書けば必然的に長い文章になるし、情報を様々に織り込めばやはり長くなる。ようは長い文章の書き方に慣れてしまえば――もっと言えば文章を書くという動作に慣れてしまえば、長文を書くなんてことはたやすい。物語はそれがさらに顕著で、それ相応の設定と展開があれば、物語を長くすることはできる。
もちろん、長ければいいっていうわけじゃないのは、言うまでもないことだ。
「でも短い物語、たとえば二千から五千字、それ以下の物語を作るってなるとそれは難しいことだよね」
「そうだな。原稿用紙一枚とか二枚で物語を書けって言われたら、長編を書くより頭を悩ませるよ」
短い物語は起承転結、序破急が長編のそれよりもわかりやすい。文字数も限られるため、表現できることも少なくなる。その中でいかに描写を織り込み、物語を成立させるかというのは大きな問題だ。表現技法と構成力が重要になってくる。
「だから秋は短編を書きつつ、新しい長編小説の設定を考えればいいと思うよ。短編に出来が良いのがあったら、それを長編に書き変えるってこともできるしね」
「つまり文章を書く練習をしろってことか」
「ま、まあ……言葉を飾らずに言ったらそうなるかな」
かぜ子ちゃんはやや気まずい表情でうなずいた。
「変なところで遠慮しなくてもいいよ。僕らは一緒に小説を作るんだろう? 少なくとも小説に関しては対等な立場だ」
そこに年齢は関係ない。
「よし、じゃあわたしがお題を出すから、そのお題に沿って三千字以内で小説を書くことにしよう」
「お題小説、か。昔はよくやったな。今じゃ実質活動停止状態だ」
数年前はそういう活動をするグループに所属していた。その時は月に一本くらいのペースで、お題小説を書いていたのだ。その時は特に構成も考えず、お題で浮かんだ場面を殴るように書いていた。それは小説としての体裁は保っていたが、内容としてはそれほど完成度が高いものとは言えないものに仕上がってしまったが。
「おーけー。で、第一回のお題は何だ?」
かぜ子ちゃんはわざとらしく指をあごに当て、うーん、と唸った。あの顔は、すでにお題を決めている顔だ。
「決まらないなら、第一回は僕が決めようか」
「それじゃ意味ないじゃん! えっとね、第一回のお題は〝物語〟だよ」
かぜ子ちゃんは挑発的な目で僕を見ていた。