第四話『それぞれの〝物語〟』
この世界には、物語があった。
今のこの時代には、物語はない。
夢だって見られないし、かろうじて見えた光明は――現実というどうしようもない壁に閉ざされる。若さなんて関係ない。若いから頑張れるなんて――やり直せるなんて、そんな甘言は聞き飽きた。そしてそれらは全て、戯言だった。楽しい時代を生きて、けれど転落してしまった大人たちが、若い僕たちに向けて送るとびっきりの呪詛だ。僕らは物心ついた時から、ずっとこんなだった。
豊かな時代になった。
それはその良い時代よりも豊かだろう。豊かで――もしかしたら、それこそ幸せな時代なのかもしれない。
けれど。
それだけだ。
物は豊かになり、格差は覆い隠されているだけでそこには存在するけれど、経済的にも豊かになってきている。だけど、それだけ。
僕たちには展望が無い。
将来に対する展望が、圧倒的に閉ざされている。終わったゲームのレベル上げをするかのごとく、自分自身を探す旅に出るかのごとく――僕らには未来がない。
一寸先が誰にも見えないのは、きっといつの時代でも同じだ。
だけど、今の僕たちはそれとは別種の問題を抱えている。
「ねえ秋、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
『銀色の夢』を読了して、かぜ子ちゃんはある種の決心を込めた表情で僕を見上げた。
「何だ?」
「秋は物語をどう思う?」
「質問の意味がわからないな。具体的に言ってくれ」
「わかってるくせに。この『銀色の夢』には、〝物語〟っていう単語が何回も出てくるよね。第八話『鏡の檻』には――『これがぼくたち兄弟の物語ならば、結局、それを受け入れざるを得ないんだ』って書いてある。この意味での物語だよ」
それは重要なことなのか?
その物語に対する僕の意見は、小説の感想を僕に言うよりも優先すべき事項なのか?
「うん。その意見によって、かなり変わってくると思うんだ。先に言っておくと、わたしはこの『銀色の夢』にしても、無題の新作にしても、一貫して同じ物語観で書かれてると思う。そしてそれは、きっと後ろ向きな考え方」
「余計なお世話だ、と言いたいところだ。それにかぜ子ちゃん、きみはここでの物語の意味を理解しているのか?」
これは別に姉弟の人生を物語にたとえているだけじゃない。そんな単純な話じゃない。いや、単純明快でありがちなことだ。
「もちろん」
かぜ子ちゃんはうなずいた。
「わたしはね、この世界は最高のバランスでできてるって思うんだ」
最高のバランス――それは一体、なんの冗談だ。いや、それは決して良い意味ばかりではない。かぜ子ちゃんはきっと、バランス良く失意がちりばめられたこの世界の物語を語っているんだ。
「ううん、違うよ。この物語の主人公はわたしたち個人なんだ」
「ふうん?」
「それでね、幸福と不幸の比率は一対一で、それらは交互に訪れるとは限らないけれど、きっとその総量は等しいんだよ」
「それは違うね」
僕はすぐに言った。
「違うの?」
「ああ。この世界に物語なんてない。もしあるとしても、それは完結してる」
終わったゲームのレベル上げ、だ。
「世界には希望も不幸もなく、ただそこに現実があるだけだ」
「それは自分が物語の主人公だっていう自覚が無いだけじゃないの? わたしたちは自分たちの物語を全うするために生きてるんだよ」
「それにならって言うなら、僕たちは現実に生きるために生きてるんだ。理想に生きるのは楽天家のやることで、夢に生きるのは一部の活力あふれた人間のすることだ。僕らのような凡人は現実に生きるしかない」
そしてその現実は、僕たちのような人間に対して優しくない。
「後ろ向きだね」
「そう思うなら、きみは僕のようにならないことだ。僕みたいなやつの人生はつまらないぞ」
「うーん……」
かぜ子ちゃんは納得いかないと言いたげな表情で首をかしげた。しかし本当に首をかしたいのは僕のほうだ。
「それよりかぜ子ちゃん、感想を聞かせてくれないか」
『銀色の夢』を読了した今、彼女の最も重要な仕事はそれだ。僕は今、他の誰よりもかぜ子ちゃんの感想を聞きたい。
高橋風子というこの少女が、一体どんな感想を持ったのか――それが気になる。
「秋の小説ってさ、なんていうか、鏡だよね」
「鏡?」
「秋が考えていること、秋が感じてること――そういうことを映し出してる気がするよ」
「それは感想とは言えなくないか? どっちかっていうと評論だ」
「でも、わたしの感想はこれなんだよね。このラノベなのにどこか純文学然としてるのは、そういう秋の感情が出てるからじゃないかな?」
「それは悪いことじゃないだろう? ライトノベルがライトな読み物だなんて、一体誰が決めた? ラノベのライトは僕にとっては蔑称だ。どうせならフリーノベルとでも呼んでもらいたいね」
「悪いなんて言ってないよ。それこそが秋の小説が書く小説で一番大切な部分だとも思ってるよ」
「煮え切らないな。面白いか面白くないかで言えばどっちだ?」
畢竟、物語の価値はそこで決まる。
「面白いくない」
「どっちだ」
「面白い」
最初からそう言えばいいのだ。
それとも、面白いと言うには物足りない出来なのだろうか。
サイトを開けて、『銀色の夢』のアクセス数と各種評価を見比べる。格別高くはないが、それでも決して低い評価ではないはずだ。アクセス数は連載終了してから日数が経ち、減少傾向にはあるものの、それでもまだ三ケタは切っていない。
「かぜ子ちゃん、きみ、確か小説の神さまだとか言ってたよな?」
「うん。わたしは小説の神さまなのです」
それは、小説に興味があるということなのか。
僕をからかっているだけなのか。
「なら、僕と小説、作ってみないか?」
久しぶりに会う同級生たちは、みんな明るい顔をしていた。暗い顔で同窓会に出るのは気が引けるから、無理して明るくしているのかもしれないけど。それでもわたしは、明るく声をかけて会うみんなを見て元気になれた。
「あれ? 久しぶりじゃん」
「え? あ、もしかしてたっくん?」
「たっくんはやめろって。もう二十歳過ぎてるぞ」
「それもそうだね」
たっくん――いや、高木くんが自然な動作でわたしの隣に座った。高木くんは遅刻してきたけれど、わたしの隣がちょうど空いていた。
「いやあ、しばらく見ないうちにでっかくなったな」
「最後にあったのは小学校の卒業式でしょ? わたしだって成長するの」
小学校の頃は本当に身長が小さくて、それでみんなにからかわれていた。中学になってから身長が伸び始めて、そんなことはされなくなったけれど。
「ははは。そうだな。今は何やってるんだ?」
「ん? えっとね、大学に通ってるよ」
「おー、いいね」
「高木くんは何してるの?」
「俺は会社勤めさ。マジで嫌な職場だけど、高卒で就職しておいて良かったと思うわ。今の就職難見てたらな」
「ホントだね」
わたしも、小説なんて書いている場合じゃないのかもしれない。
今からでも就活を始めるべきなのかもしれない。そう思っていても、自分の先が見えないのだった。夢はあるけれど、それ以上にはなかなかならない。
「で、高木くんは彼女とかいるの?」
「唐突だな。ま、いないけどな。俺の職場に出会いなんてねぇよ」
「そうなんだ」
「そういうお前にはいんの?」
「いないよ」
「いないのかよ、お前んとこの男たちは見る目がねぇな」
「みんな必死なんじゃないかな? 就活とか?」
「なんで疑問形なんだっつの。お前だって例がいじゃないだろ」
例外じゃない――はずだ。
それでも、わたしはどこか現実を見ていない。
小説なんか書いて、そこに自分の理想を描いている。
高木くんがビールを一気に飲み干す。
「はい、高木くん」
「おお、悪いな」
空になったジョッキにビールを注いで、少し多すぎた泡に笑った。
「下手だな」
「わたしは日本酒派なの」
「それは渋いな。本当に女子大生か?」
「いいじゃん。焼酎って言われるよりマシじゃない?」
「それは渋いって言うよりおっさん臭いな」
大きなお世話だ。
会は滞りなく進行し、一次会は終了した。そのまま遊び足りない人たちが集まって、カラオケに行くことになった。わたしと高木くんも参加した。
わたしはカラオケの雰囲気は好きだけど、歌うのが得意じゃなかったから聞く側に回った。高木くんは歌ったけれど、あまり上手ではなかった。二次会のカラオケは朝まで決行するのかと思っていたけれど、思ったよりも早く終了した。とはいえ、それでも日付はとっくに変更されていたのだけど。
最後にみんなで『翼をください』を歌って、解散となった。それは卒業式の時に歌った歌で、この合唱だけは聞く側のわたしも参加した。お酒がかなり入っていたからか、歌ってみれば気分のいいものだった。これなら一度くらい歌っていても良かったかもしれない。ちょっとだけ損した気分だ。
夜の街を街灯が照らして、なんとなく明るい。さて帰ろうかと歩き出した時、高木くんに呼びとめられた。
「どうしたの?」
「あのさ、いいかな?」
「え? えっと……」
何が「いいかな」なのかは、考えるまでもなくわかった。一次会の時からそれっぽい雰囲気はあったし、わたしもまんざらでもないとは思っていたのだ。しかし、いざとなるとうなずくのには抵抗がある。
「ちゃんと家まで送るからさ」
「うーん……よし、いいよ」
この時うなずいたわたしを――ぶん殴ってやりたい。
酔いが醒めた後にまず思ったのは、たったそれだけのことだった。