第二話『そしてふたりは出会う』
小説の神さま。
俗に菊池寛やら横光利一なんかが、そう呼ばれていたりいなかったりする。どちらにしても、両者が優れた小説家であることは否定し難い事実ではある。名だたる文豪たちを差し置いて、どうしてこのふたりがそう呼ばれているのか――ぼくはそれを不勉強で知らないが、それ相応の理由があるに違いない。
ところがこのアホの子――かぜ子こと高橋風子は、自分のことを小説の神さまと言ったのだった。アホの子という表現すら生ぬるい。ぼくはまだいいけれど、ナツメさんや南角さんあたりは激怒しそうだ。
「何言ってんの、風子ちゃん?」
「かぜ子」
「……何言ってんの、かぜ子ちゃん?」
どうやら〝風子〟と〝かぜ子〟の間には、大きな差があるようだ。
「わたしは小説の神さまなのです――って言われたらさ、ちょっと読ませてみようかなって思わない?」
「読みたいなら言ってくれればいいのに」
別に小説を書くことで金を得ているわけではない。投稿前に見せたって、痛くもかゆくもない。
「んー、まあそうなんだけどさ。えっと、秋が悩んでるように見えたんだよね。書きたいものがあるのに書けないっていうか、そもそも書くことすら悩んでるっていうか」
これはあれか? コールドリーディングとかマルチプルアウトとか、そういうあれか? 僕をはめようなんて、十年早いぞ? プロだろうがアマチュアだろうが、小説を書くことに必要なのは冷静な判断と、客観的な観察ができる目だ。
とにかくかぜ子ちゃんが何を狙っているかわからないけど、僕は騙されない。
「騙すとか騙さないとかじゃないよ。わたしは小説の神さまであって、それ以外でもそれ以外でもないの」
「それを言うなら、それ以上でもそれ以下でも、だと思う」
小説の神さまというわりに、言葉を知らないようだ。
言葉を知らない――ね。
「ちょっとだけ腹を割って話そうか」
「ちょっとだけ、だよ?」
作った表情だということは見たらわかるが、仕方ないなぁ、みたいな表情でこちらを見ているのが腹立たしい。
「かぜ子ちゃんは中学生? それとも高校生?」
「高校生。ぴっちぴちの十六歳」
高校生になりつつある中学生、といった年齢か。お年頃だなぁ……そんなお年頃の女の子が、僕のような得体の知れない男に声をかけるなんて、時代は変わったものだ。
それにしても、この子、本当に何者なんだろう。
「秋は?」
「僕は大学生だ。ぴっちぴちの二十歳」
社会人としてはぴちぴちだから、うん、間違ってはいないはずだ。
「……ま、まあ、いいんじゃない?」
かぜ子ちゃんは複雑な笑みでうなずいた。
「そっか、秋はわたしより年上なんだね」
「そうなる」
年上とわかっても、「秋さん」とは呼ばないつもりらしい。僕はそれで構わないけれど、学校でもそのスタンスなら、ちょっと問題がありそうだ。中学なんてのは、どういうわけか学年による上下関係がはっきりしている。それは正しいことではあるのだけど、当たり前のことではあるのだけど、それで強権振りかざしてくる人もいるからタチが悪い。
ちらり、と目の前に立つ少女を見遣る。
この子はそういうのとは無縁そうだ。そういうのは軽く受け流してしまって、自分が先輩になっても後輩にはそういう面で緩いように思う。
「まあいいや。そんなことより、小説の神さまって言うのは、菊池寛とか横山利一とか、そういう人らのことなんだ。かぜ子ちゃんには荷が重いんじゃない?」
「大丈夫、大丈夫。わたしじゃあ役不足だから」
「用法が正しいことは認めるけど、それでも神さまは認められない」
僕には小説の神さまに対してこだわりがあるわけじゃないが、それでも認めたくないものがある。かぜ子ちゃんの荒唐無稽な戯言など、到底信じられるわけもなく、冗談として受け流すには、この子の表情はあまりにも真剣だった。
本気で言ってる……わけないよな。
「あっ、信じてくれてないんだ? そんなこと言うなら、いいよ、わたしが小説の神さまだってこと――信じさせてあげる」
――っ!
目が本気だ。どうやら僕は、少しばかり危ない人に関わってしまったのかもしれない。いや、でも言っても高校生だ。こちらが注意していれば、なんとかなるだろう。
「どうやって、だ?」
試しに聞いてみると、かぜ子ちゃんは自信満々にうなずいた。
「わたしが秋の小説をさらに高みに導いてあげよう!」
「遠慮しておくよ」
余計なお世話だ――と言いたいところだけど、ふっかけたのは僕だから我慢しよう。だけどかぜ子ちゃんが僕の小説に口出しするのは、さすがにいただけない。作者以外の人が小説にすることは、評価だけだ。
「その評価をわたしがするっていうのは?」
「ふぅん? じゃあ、ついてきなよ。未発表の小説、読ませてあげる」
まだ数十ページ分くらいしか書いていないけれど、導入としての感想を聞いてみるとしよう。そこで提示した評価で、僕がかぜ子ちゃんを評価することにしよう。
「いいの?」
「やるって言ったのはきみだろ? やる気があるならついてきたらいい。なに、ここで帰ったって、次会う時に無視したりなんかしない」
今日会ったのは完全に偶然なのだろうけれど、不思議と、この子との関係が今日で終わるとは思えなかった。
僕は返事を待たずに、かぜ子ちゃんに背を向けて歩いた。そろそろ散歩もいいだろう。家に帰って続きを書くことにする。もしかぜ子ちゃんがついてくるようなら、かぜ子ちゃんが小説を読んでいる間に、僕は設定を練ればいい。
「もちろん行くよ」
後ろから声がして、僕の隣に並んでついてくる。かぜ子ちゃんはかなりいい笑顔でついてきた。
「何がそんなに楽しいんだ?」
「んー? 内緒」
激しくイラッとしたが、この程度では怒らないのが大人っていうやつだ。僕は大学生で、この子は高校生。寛容で懐の広い大人の余裕というものを見せておくことにしよう。
坂を下ると、人通りが多くなった。この峠の人の往来は、車も含めて結構多い。その割に車線が一本しかないから、ひどい時は下の交差点から峠の半ばくらいまで車が連なっている時がある。今はそれほどでもないけれど、それでも四分の一くらいまでは車が並んでいる。
「秋は県外の人?」
「ん? まあね」
「ふぅん。ひとり暮らし?」
「ああ。下の交差点の近くのアパートに住んでる」
「ひとり暮らしって楽しい? 寂しくない?」
「うーん……楽しくもないし、寂しくもないかな」
特に楽しいってわけでもないし、それでも寂しいとは思わない。ひとり暮らしというのは、突き詰めてしまえば、自由なだけだ。そして全ての責任を、全ての管理を、自分自身が背負うことになる。門限があろうがなかろうが、実家で過ごしていたほうが楽しい、という人だっているだろう。
寂しくないのは、僕がそういう感情に疎いからだ。友達付き合いは広く浅くをもっとうとしていたし、ひとりでいることも平気だった。だから、大学に通うに当たってひとり暮らしをして、それで新しい友達があまり増えなくても、僕は何も思わなかった。
「そうなんだ。なんかひとり暮らしって、楽しいものだと思ってたよ。そして寂しい思いもするって」
「そういう人だっていると思うよ。楽しくて楽しくて仕方がない人や、寂しいと思う人――でも僕はさ、そうは思わないんだ。僕はどうしようもなく受動的な人間だからね」
「受動的? 受動的なら寂しいって思うんじゃない?」
「どうして?」
「うーん、なんとなく」
「なんとなく、ね。まあいいけど。受動的ってのはつまり、何かがないとどうにもならないってことなんだ」
「何かがないとどうにもならない?」
かぜ子ちゃんはよくわからないという表情で、僕を見上げた。
「ああ。どうにもならない。自分の考えは人並みに持っているけど、行動に移したり、何かを感じるには外から何らかの影響がいるんだ。好きになるのも嫌いになるのも、自分だけではそうなりにくい。人に影響されてそうなる――そんなことがよくあるんだ」
自分の好きなことさえ――満足に自分で決められない。
こんな恥ずかしい話があるか。
「積極的な感情を持ちにくいんだ。だからこうやって、かぜ子ちゃんに小説を読ませようとしてる」
「わたしが読みたいって言ったから?」
「少なくとも理由の半分はそうだ」
「もう半分は?」
「きみを試そうとしてる」
「……正直なんだね」
「嘘は苦手なんだ。嘘をついた後は最高に最悪の気分になるから」
いつだったか。僕がまだ小さい頃の話だ。ちょっとした事故で窓を割ったことがあった。素直に話していれば、怒られただろうが、それだけで終わったはずのことだったのだが、愚かな僕は嘘をついた。自分ではない――自分が原因ではない、そういう嘘をついた。自分はそもそも、窓が割れた原因さえ知らない――と。母はそれが嘘だってわかっていたのだと思う。けれど、何も言わずにうなずいてくれたのだった。あの時の胸のモヤモヤ感といったら、今までで一番ひどいものだった。
「その後、それは白状したの?」
「いや、してない。僕はチキンだからそんなことは言えやしない」
だから、なのかもしれない。僕が未だに精神的に幼いのは。幼いから、臆病だから、だから――嘘をつく。
自分に嘘を、つき続ける。
「ついたよ、ここの一○三号室が僕の部屋だ」
「おじゃまします」
そういえばこの部屋に女の子を招いたのは、これが初めてじゃないか。まさか初対面の子を部屋に連れ込むなんて、誰が想像しただろう。
PCを立ち上げて、書きかけの文書ファイルを開いた。今作っている設定を使う小説の、思いつきで書いた部分だ。
「じゃあ、読ませてもらうね」
「ああ。書きかけで短いけど」
さて。
この子はどんな感想をくれるのだろう。