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夏怖

音の死骸

作者: 比古狭霧
掲載日:2026/07/18

「──近づかね方が、ええ」


乾いた、しかし嫌に粘り気のある声だった。

ひしゃげたアルミのパイプ椅子に腰掛けた老女は、盆の上の冷茶には目もくれず、ただ濁った瞳で私を見つめていた。


いや──正確には、私ではない。

私の「首筋のすぐ後ろ」の空間を、じっと見つめていた。


「最近また、あの声聞こえるようになったって評判ひょうばんだ。十数年前、あそこでわらし消えたときと同じだ。寂しそうな、助け求めるような泣き声だもの。近づけば、あんたも連れていかれる」


「……ありがとうございます。気をつけます」


私は手帳を閉じ、精一杯の営業スマイルを浮かべた。

「あの、誰か私の後ろに居ますか?」


冗談めかして尋ねようとした、その時だった。


「違う」


老女が、私の思考をかすめ取るように低くつぶやいた。

「あんたの後ろにおるんじゃない。あんたの中に、もう入っとる」


背筋に、氷を押し当てられたような悪寒が走った──。





私の名前は小鳥遊奏たかなしかなで、二十八歳。フリーランスのオカルトライターだ。

恐怖を覚える一方で、胸の奥では熱い興奮が広がっていた。本物の怪談に出会える高揚感だけは、いつだって冷や汗を拭う手の震えに勝ってしまう。


今回の取材対象は、地方の山あいにたたずむ「旧・神代くましろ小学校」。

十数年前、一人の児童が校内で行方不明になり、今も未解決のまま放置されている廃校だ。当時の記録には「声も出せずに消えた」という謎の記述しか残っていない。だがここ数ヶ月、ネットの局所的な掲示板で不気味な噂がささやかれ始めていた。


──『音の死骸』。


人は死の間際まで聴覚が残る場合があると言われている。

音は消えるものではない。人間は死ねば身体を失う。だが、最期に耳へ届いた最後の数秒間だけは、肉体が滅びてもその場に取り残される。


それが『音の死骸』だった。


折り重なる山影が空を狭くふさぎ、容赦なく迫る傾きかけた西日が、ほこりっぽいアスファルトを赤黒く染めていく。

私は背中に老女のチリチリとした視線を感じながら、目的の廃校へと車を走らせた。





深夜一時。

懐中電灯の細い光を頼りに車外へ出ると、夜の湿気とともにさびびついた鉄の匂いが立ち込めていた。


校舎内へ足を踏み入れた瞬間、異様な違和感に息を呑んだ。

静かすぎる。廃校なのだから静かなのは当然だ。だが、違う。虫の鳴き声がない。風が木々を揺らす音もない。世界のあらゆる環境音が死に絶え、私の足音だけが廊下に響いていた。


ペタ……、ペタ……、ペタ……。


そこで、私は気づいてしまった。


ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。


足音が、一つ多い。

私が脚を止めても、コンクリートの床板の奥から、遅れて微かなれ音が一つ、ついてきていた。振り返っても、懐中電灯の光が切り取る闇の中に誰もいない。


心臓の鼓動を破裂しそうなほど早めながら、私は目指す場所──北校舎二階の「三年二組」へと急いだ。ドアは半分ほど開いた状態で固まっていた。


教卓の上に、ライターとしての相棒であるプロ仕様のレコーダーを置く。

赤いRECランプが点滅を始めた。


「小鳥遊奏です。午前一時四十五分。旧・神代小学校、三年二組。集音を開始します」


声に出さなければ狂いそうだった。

私は教室の隅で膝を抱え、ひたすら時間を耐えた。


午前二時四十五分。

レコーダーを回収し、逃げるように車へ戻って鍵をかけた。


震える手でイヤホンを耳に差し込み、今録音したばかりのデータを再生する。最初はホワイトノイズ。

四十分を過ぎた頃だった。


『……おかあさん』


小さな子供の声。だが、その直後。

『ぐっ……っ、……』


何かがのどの奥に力任せに押し込まれたような、湿った遮断音。そして完全な無音。


「……録れた」


興奮で吐き気がした。


だが、最高の記事になる。

そう確信していた。





ビジネスホテルの薄暗い一室。

時計は午前四時を回っていたが、私はスマホに転送した音源をヘッドホンで繰り返し再生していた。細部を聞き取ろうとボリュームを最大まで上げる。


ズ……、ずるっ。


子供の声が途切れる直前、濡れた皮膚と皮膚が強く擦れ合うような凄惨せいさんな摩擦音。

そしてホワイトノイズの向こう側から、大人の男の重く湿った呼気が混ざり込んでいた。


『っ……、……ふ、……』


再生を繰り返すたび、脳の奥で「音」が勝手にディテールを補完していく。

耳のすぐ裏側で、誰かが濡れた息を吐き出しているような錯覚。


「ひっ……!」


耐えかねてヘッドホンをむしり取った。

部屋には私一人しかいない。なのに、耳のすぐ裏側で、あの「ずるっ」という濡れた摩擦音が、残響となってまとわりついて離れなかった。


翌日も、その翌日もまともに眠れなかった。

三日目、シャワーを浴びている最中、ザーッという激しい水音の向こうから『……おかあさん』と聞こえてお湯を止めた。恐怖のあまりスマホの音源を消去し、レコーダーもフォーマットした。


けれど、意味はなかった。


エアコンの送風音。電車のブレーキ音。信号機の電子音。冷蔵庫のコンプレッサーの重苦しい振動。街のあらゆる環境音が、私の脳内で勝手にあの「窒息していく呼吸音」へと変換され、鼓膜を殴り始める。


そして夜、ベッドの上の静寂の中で、私は本当の恐怖に気づいてしまった。


──ひゅっ、……ぐっ、……っ。


録音を聞いているのではない。

私自身の喉から、息を吸う私の肺の中から、あの「死にかけている子供の呼吸」が漏れ出していた。


私は音を拾ったのではない。

命が潰える瞬間に残された「音の死骸」が、私という人間を新しい身体として選び、内側から侵食していたのだ。


「あの場所に音を返さなければ、私もあの音の中に置き去りにされる」


錯乱状態のまま、私は再びあの廃校へと向かっていた。

手には、レコーダーとポータブルスピーカーを握りしめて──。





スピーカーから子供の声を流しながら廊下を歩く。

すると、突き当たりの用具室の奥から、スピーカーとは別の、大人の女性の死に際のような生々しい呼吸音が聞こえてきた。


『……ぁ……っ、……』


私の喉も、その音と完全に同期してヒュ、ヒュと引きり始める。

吸い寄せられるように用具室へ入る。奥にある木製の棚を力任せに倒すと、隠し扉が現れた。扉を引き開け、中に転がり込む。


四畳半ほどの狭い空間。

青白く光るノートPC、壁一面にピン留めされた大量のSDカード。

そこには几帳面きちょうめんなラベルが貼られていた。


【2022/03/14 F-24 最終呼気】

【2024/09/02 F-31 ノイズ混入・破棄】


そして──棚の最下段に貼られた、一枚の新しいラベル。


【2026/07/22 F-32】

【対象:未定】

【状態:録音開始済】


「……え?」


息が止まった。

まだ誰も死んでいないのに。まだ誰を録るのかすら決まっていないのに、もう録音が始まっている。


背後でカサリ、と衣擦きぬずれの音がした。

「……いい音だろ?」


振り返ると、影の中から青ざめた男が姿を現した。

男はガタガタと震える指で、自分の耳を強く指差していた。


「あんた……ここで何をしてるの……?」


私が問うと、男は正気を失った目で首を激しく横に振った。

「集めてるんじゃない……! 違うんだ……聞こえるんだよ……!」


「何が……?」


「あいつらが……次の音を探してる声が聞こえるんだよ! 録音してどこかに流さないと、俺自身の息が止まるんだ! なあ、あんたも聞こえるだろ!? あの子供の死に際の音が……!」


男の顔が歪む。

彼もまた、私と同じように「音の死骸」に身体を奪われた最初の被害者に過ぎなかったのだ。


その瞬間、私の肺の奥が激しく痙攣けいれんした。

「がっ……っ! う、ふっ……!」


喉の奥が力任せに塞がれる。

私自身の身体が呼吸を拒絶し、自らを絞め殺そうと暴れ出す。


床に倒れ込み、必死に酸素を求めて掻き毟る。

男は狂ったように両耳をかき毟りながら叫んだ。


「やめろ……やめろ……俺はただ録っただけだ……!」


その瞬間。

男の喉から、奇妙な音が漏れた。


ゴチ、と骨が破砕するような重い音。

しかし、男の身体には何も起きていない。ただ、声だけが変わった。


『……おかあさん』


男の口から、あの幼い子供の声が流れた。

男自身が驚いた顔で、自分の喉を両手で強く押さえる。


「違う……これは俺の声じゃない……っ!」


震える声。

だが、その声すら途中から別の誰かのものへ変化していく。


『たすけて』「苦しい』『息が……」


男は涙を流しながら、床に伏せる私を見つめた。

「俺は……もう何人分の最後になったんだ……?」


男の姿はそこにあるのに、その輪郭と存在感だけが、すうっと空気の中に溶けるように薄れていく。

デスクの上のSDカード一覧の画面から、一枚だけ文字が書き換えられていくのが見えた。


【記録者】


その欄にあった男の名前が綺麗に消え、代わりに、新しい文字が浮かび上がる。


【F-32】

【対象:小鳥遊奏】

【状態:録音完了】


私という人間の最後の数秒が、完全にデータとして完結した瞬間だった。


レコーダーから流れた音は、一つではなかった。

子供の声。女の声。老人の震える息。そして、まだ誰も聞いたことのない、何かの呼吸。それらが重なり合いながら、ひとつの音になって響いていた。


私は床に伏せたまま、最期の呼吸を迎えていた。

自分の意思とは無関係に、私の喉から、あの子供の声が完璧な音程で滑り出ていく。


『……おかあさん』


私が最後に聞いたのは、自分の喉から漏れた、子供の叫びだった。

その音が、私の最後の意識とともに、暗闇の中へと静かに書き込まれていく。





液晶画面の青白い光が、誰もいない暗い部屋を照らしている。

大手匿名掲示板のオカルト板。新規スレッドの画面。


タイトル:【音の死骸】神代小学校で録音しました。

投稿者:名無し

本文:聞いてください。この音は本物です。でも気をつけてください。最後まで聞くと、あなたの部屋で同じ音がします。


添付ファイル:202607_takanashi.mp3


再生回数:1,280


>これガチなやつじゃん。聴くだけで息が苦しくなる

>なんか、この音声の後ろ側で『次はあんただよ』って聞こえない?

>嘘乙wwww……待って。

>今、俺の部屋のエアコンから同じ呼吸音がした


再生回数:1,492


その投稿を最後に、三分間。

新しいコメントは一つもつかなくなった。


既読人数だけが、静かに増えていく。


再生回数:1,740

コメント数:4


画面の最下部には、ただ一つだけ表示され続けている。


【再生中】


誰も押していないはずの音声が、今も流れるのをやめない。


チカ、チカ、と画面の隅でカーソルが点滅を繰り返す。


次の瞬間。

画面の右下に配置されたマイクのアイコンが、静かに、赤く点灯した。


【録音中:00:00:01】


あなたの部屋の、静かな息遣いを拾うために──。

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