音の死骸
「──近づかね方が、ええ」
乾いた、しかし嫌に粘り気のある声だった。
ひしゃげたアルミのパイプ椅子に腰掛けた老女は、盆の上の冷茶には目もくれず、ただ濁った瞳で私を見つめていた。
いや──正確には、私ではない。
私の「首筋のすぐ後ろ」の空間を、じっと見つめていた。
「最近また、あの声聞こえるようになったって評判だ。十数年前、あそこで童消えたときと同じだ。寂しそうな、助け求めるような泣き声だもの。近づけば、あんたも連れていかれる」
「……ありがとうございます。気をつけます」
私は手帳を閉じ、精一杯の営業スマイルを浮かべた。
「あの、誰か私の後ろに居ますか?」
冗談めかして尋ねようとした、その時だった。
「違う」
老女が、私の思考を掠め取るように低く呟いた。
「あんたの後ろにおるんじゃない。あんたの中に、もう入っとる」
背筋に、氷を押し当てられたような悪寒が走った──。
◇
私の名前は小鳥遊奏、二十八歳。フリーランスのオカルトライターだ。
恐怖を覚える一方で、胸の奥では熱い興奮が広がっていた。本物の怪談に出会える高揚感だけは、いつだって冷や汗を拭う手の震えに勝ってしまう。
今回の取材対象は、地方の山あいに佇む「旧・神代小学校」。
十数年前、一人の児童が校内で行方不明になり、今も未解決のまま放置されている廃校だ。当時の記録には「声も出せずに消えた」という謎の記述しか残っていない。だがここ数ヶ月、ネットの局所的な掲示板で不気味な噂が囁かれ始めていた。
──『音の死骸』。
人は死の間際まで聴覚が残る場合があると言われている。
音は消えるものではない。人間は死ねば身体を失う。だが、最期に耳へ届いた最後の数秒間だけは、肉体が滅びてもその場に取り残される。
それが『音の死骸』だった。
折り重なる山影が空を狭く塞ぎ、容赦なく迫る傾きかけた西日が、埃っぽいアスファルトを赤黒く染めていく。
私は背中に老女のチリチリとした視線を感じながら、目的の廃校へと車を走らせた。
◇
深夜一時。
懐中電灯の細い光を頼りに車外へ出ると、夜の湿気とともに錆びついた鉄の匂いが立ち込めていた。
校舎内へ足を踏み入れた瞬間、異様な違和感に息を呑んだ。
静かすぎる。廃校なのだから静かなのは当然だ。だが、違う。虫の鳴き声がない。風が木々を揺らす音もない。世界のあらゆる環境音が死に絶え、私の足音だけが廊下に響いていた。
ペタ……、ペタ……、ペタ……。
そこで、私は気づいてしまった。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。
足音が、一つ多い。
私が脚を止めても、コンクリートの床板の奥から、遅れて微かな擦れ音が一つ、ついてきていた。振り返っても、懐中電灯の光が切り取る闇の中に誰もいない。
心臓の鼓動を破裂しそうなほど早めながら、私は目指す場所──北校舎二階の「三年二組」へと急いだ。ドアは半分ほど開いた状態で固まっていた。
教卓の上に、ライターとしての相棒であるプロ仕様のレコーダーを置く。
赤いRECランプが点滅を始めた。
「小鳥遊奏です。午前一時四十五分。旧・神代小学校、三年二組。集音を開始します」
声に出さなければ狂いそうだった。
私は教室の隅で膝を抱え、ひたすら時間を耐えた。
午前二時四十五分。
レコーダーを回収し、逃げるように車へ戻って鍵をかけた。
震える手でイヤホンを耳に差し込み、今録音したばかりのデータを再生する。最初はホワイトノイズ。
四十分を過ぎた頃だった。
『……おかあさん』
小さな子供の声。だが、その直後。
『ぐっ……っ、……』
何かが喉の奥に力任せに押し込まれたような、湿った遮断音。そして完全な無音。
「……録れた」
興奮で吐き気がした。
だが、最高の記事になる。
そう確信していた。
◇
ビジネスホテルの薄暗い一室。
時計は午前四時を回っていたが、私はスマホに転送した音源をヘッドホンで繰り返し再生していた。細部を聞き取ろうとボリュームを最大まで上げる。
ズ……、ずるっ。
子供の声が途切れる直前、濡れた皮膚と皮膚が強く擦れ合うような凄惨な摩擦音。
そしてホワイトノイズの向こう側から、大人の男の重く湿った呼気が混ざり込んでいた。
『っ……、……ふ、……』
再生を繰り返すたび、脳の奥で「音」が勝手にディテールを補完していく。
耳のすぐ裏側で、誰かが濡れた息を吐き出しているような錯覚。
「ひっ……!」
耐えかねてヘッドホンを毟り取った。
部屋には私一人しかいない。なのに、耳のすぐ裏側で、あの「ずるっ」という濡れた摩擦音が、残響となってまとわりついて離れなかった。
翌日も、その翌日もまともに眠れなかった。
三日目、シャワーを浴びている最中、ザーッという激しい水音の向こうから『……おかあさん』と聞こえてお湯を止めた。恐怖のあまりスマホの音源を消去し、レコーダーもフォーマットした。
けれど、意味はなかった。
エアコンの送風音。電車のブレーキ音。信号機の電子音。冷蔵庫のコンプレッサーの重苦しい振動。街のあらゆる環境音が、私の脳内で勝手にあの「窒息していく呼吸音」へと変換され、鼓膜を殴り始める。
そして夜、ベッドの上の静寂の中で、私は本当の恐怖に気づいてしまった。
──ひゅっ、……ぐっ、……っ。
録音を聞いているのではない。
私自身の喉から、息を吸う私の肺の中から、あの「死にかけている子供の呼吸」が漏れ出していた。
私は音を拾ったのではない。
命が潰える瞬間に残された「音の死骸」が、私という人間を新しい身体として選び、内側から侵食していたのだ。
「あの場所に音を返さなければ、私もあの音の中に置き去りにされる」
錯乱状態のまま、私は再びあの廃校へと向かっていた。
手には、レコーダーとポータブルスピーカーを握りしめて──。
◇
スピーカーから子供の声を流しながら廊下を歩く。
すると、突き当たりの用具室の奥から、スピーカーとは別の、大人の女性の死に際のような生々しい呼吸音が聞こえてきた。
『……ぁ……っ、……』
私の喉も、その音と完全に同期してヒュ、ヒュと引き攣り始める。
吸い寄せられるように用具室へ入る。奥にある木製の棚を力任せに倒すと、隠し扉が現れた。扉を引き開け、中に転がり込む。
四畳半ほどの狭い空間。
青白く光るノートPC、壁一面にピン留めされた大量のSDカード。
そこには几帳面なラベルが貼られていた。
【2022/03/14 F-24 最終呼気】
【2024/09/02 F-31 ノイズ混入・破棄】
そして──棚の最下段に貼られた、一枚の新しいラベル。
【2026/07/22 F-32】
【対象:未定】
【状態:録音開始済】
「……え?」
息が止まった。
まだ誰も死んでいないのに。まだ誰を録るのかすら決まっていないのに、もう録音が始まっている。
背後でカサリ、と衣擦れの音がした。
「……いい音だろ?」
振り返ると、影の中から青ざめた男が姿を現した。
男はガタガタと震える指で、自分の耳を強く指差していた。
「あんた……ここで何をしてるの……?」
私が問うと、男は正気を失った目で首を激しく横に振った。
「集めてるんじゃない……! 違うんだ……聞こえるんだよ……!」
「何が……?」
「あいつらが……次の音を探してる声が聞こえるんだよ! 録音してどこかに流さないと、俺自身の息が止まるんだ! なあ、あんたも聞こえるだろ!? あの子供の死に際の音が……!」
男の顔が歪む。
彼もまた、私と同じように「音の死骸」に身体を奪われた最初の被害者に過ぎなかったのだ。
その瞬間、私の肺の奥が激しく痙攣した。
「がっ……っ! う、ふっ……!」
喉の奥が力任せに塞がれる。
私自身の身体が呼吸を拒絶し、自らを絞め殺そうと暴れ出す。
床に倒れ込み、必死に酸素を求めて掻き毟る。
男は狂ったように両耳をかき毟りながら叫んだ。
「やめろ……やめろ……俺はただ録っただけだ……!」
その瞬間。
男の喉から、奇妙な音が漏れた。
ゴチ、と骨が破砕するような重い音。
しかし、男の身体には何も起きていない。ただ、声だけが変わった。
『……おかあさん』
男の口から、あの幼い子供の声が流れた。
男自身が驚いた顔で、自分の喉を両手で強く押さえる。
「違う……これは俺の声じゃない……っ!」
震える声。
だが、その声すら途中から別の誰かのものへ変化していく。
『たすけて』「苦しい』『息が……」
男は涙を流しながら、床に伏せる私を見つめた。
「俺は……もう何人分の最後になったんだ……?」
男の姿はそこにあるのに、その輪郭と存在感だけが、すうっと空気の中に溶けるように薄れていく。
デスクの上のSDカード一覧の画面から、一枚だけ文字が書き換えられていくのが見えた。
【記録者】
その欄にあった男の名前が綺麗に消え、代わりに、新しい文字が浮かび上がる。
【F-32】
【対象:小鳥遊奏】
【状態:録音完了】
私という人間の最後の数秒が、完全にデータとして完結した瞬間だった。
レコーダーから流れた音は、一つではなかった。
子供の声。女の声。老人の震える息。そして、まだ誰も聞いたことのない、何かの呼吸。それらが重なり合いながら、ひとつの音になって響いていた。
私は床に伏せたまま、最期の呼吸を迎えていた。
自分の意思とは無関係に、私の喉から、あの子供の声が完璧な音程で滑り出ていく。
『……おかあさん』
私が最後に聞いたのは、自分の喉から漏れた、子供の叫びだった。
その音が、私の最後の意識とともに、暗闇の中へと静かに書き込まれていく。
◇
液晶画面の青白い光が、誰もいない暗い部屋を照らしている。
大手匿名掲示板のオカルト板。新規スレッドの画面。
タイトル:【音の死骸】神代小学校で録音しました。
投稿者:名無し
本文:聞いてください。この音は本物です。でも気をつけてください。最後まで聞くと、あなたの部屋で同じ音がします。
添付ファイル:202607_takanashi.mp3
再生回数:1,280
>これガチなやつじゃん。聴くだけで息が苦しくなる
>なんか、この音声の後ろ側で『次はあんただよ』って聞こえない?
>嘘乙wwww……待って。
>今、俺の部屋のエアコンから同じ呼吸音がした
再生回数:1,492
その投稿を最後に、三分間。
新しいコメントは一つもつかなくなった。
既読人数だけが、静かに増えていく。
再生回数:1,740
コメント数:4
画面の最下部には、ただ一つだけ表示され続けている。
【再生中】
誰も押していないはずの音声が、今も流れるのをやめない。
チカ、チカ、と画面の隅でカーソルが点滅を繰り返す。
次の瞬間。
画面の右下に配置されたマイクのアイコンが、静かに、赤く点灯した。
【録音中:00:00:01】
あなたの部屋の、静かな息遣いを拾うために──。




