おはようの終末
ミナの手は、水に濡れても冷えなかった。
そういうふうに作られていたからだ。
外環区の保育施設では、一日に何十回も水槽へ手を入れる。水温の差で動作が鈍っては困る。幼体が噛みついても、すぐ引き抜けるほうがいい。濡れた床で転んでも、壊れにくいほうがいい。
だからミナの身体は、丈夫で、乾きやすく、疲れにくい。
けれど、朝いちばんに水晶球を撫でる指先だけは、できるだけ優しく動かすことにしていた。
「おはよう、ピカ。今日もきれいだね」
天井から吊られたアトラフラウの中で、水が淡く光った。
一度。
二度。
眠たげな瞬きのようだった。
けれどその光は、返事のようで、真似のようで、少しだけ先回りのようでもあった。
「はいはい。眠いのは分かるけど、もう朝です」
ミナは笑って、壁の調整盤を操作した。
オラゾ外環区、第七小型水棲生物保育区。
中央監理塔から離れた湿地の奥にある、小さな施設だった。十基の水槽と、光量調整管と、古びた排水設備。そこでミナは、レイテ支流域に放流される前の幼体たちを世話していた。
幼体たちに名前はない。
記録上は、種名、発生番号、成長段階だけで管理される。
けれどミナは、水槽の裏側に小さな札を隠していた。
よく跳ねる子。
寝坊助。
すぐ噛む子。
餌を横取りする子。
主任に見つかれば叱られるだろう。保育対象への過度な愛着は、観測精度を損なう。そう言われるに決まっている。
でも、ミナは札を捨てられなかった。
「おはよう、よく跳ねる子。今日もちゃんと生きてるね」
餌を落とした瞬間、水面が弾けた。
青い背鰭を持つ幼体が勢いよく跳ね、ミナの頬に水を飛ばす。
「こら。朝から元気すぎ」
叱った声は、半分笑っていた。
すると、頭上のアトラフラウが、ちかちかと明滅した。
からかうような光だった。
「ピカ、今笑ったでしょ」
水晶球は、すましたように一度だけ光った。
「嘘つき」
二度、弱く瞬く。
ミナは口元を押さえて笑った。
アトラウェネスは、本来ただの発光微生物である。
水に棲み、光を放ち、栄養と環境さえ整えばよく増える。光源としても簡易エネルギー源としても使えるため、オラゾでは珍しくもない。
けれど、ミナの担当するアトラフラウだけは少し違っていた。
右手を振れば、右側が光る。
左手を振れば、左側が光る。
鼻歌を歌えば、少し遅れて同じ拍子で明滅する。
ただし、いつも一拍だけずれる。
そこがまた可愛かった。
「そこ、遅い。もう一回」
ミナが歌い直す。
ぽ、ぽ、ぽう。
やはり少し遅れる。
「うん。下手」
水晶球がむっとしたように強く光った。
「冗談だって」
ミナは笑いながら、記録板に数値を入力する。
水温、正常。
酸素濃度、正常。
幼体反応、良好。
アトラフラウ発光、正常。
そこまで打ってから、ミナは少しだけ手を止めた。
正常。
ピカの返事も、歌も、怒ったような光も、記録には残らない。
書けないからだ。
ミナ自身の欄にも、名前はなかった。
担当補助個体MNA-37。
それが正式な記録名だった。
ミナという呼び名は、施設に配属された初日に、自分でつけたものだ。短くて、呼びやすくて、水の音に似ている気がした。
誰かに呼ばれることは、あまりない。
主任はいつも「補助員37号」と呼ぶ。間違いではない。むしろ、正確だ。
それでも時々、ミナは水槽のガラスに映った自分が、薄く透けているように感じることがあった。
昼休み、ミナは保育区の裏手にある人工池へ行った。
池の底には、余ったアトラウェネスがわずかに棲みついている。白い浮草の下で、光の粒が星屑のように揺れていた。
ミナは岩に腰掛け、栄養包をかじる。
「味、薄いなあ」
隣に置いた小型アトラフラウが、ぽうっと光った。
「ピカはいいよね。ご飯、光と栄養液で足りるんだもん」
一度、強く光る。
「自慢?」
二度、弱く瞬く。
「違う?」
ミナは笑った。
こうして話している間だけ、自分がちゃんとここにいる気がした。
誰かに必要だからではなく、誰かに命じられたからでもなく、ただ、朝に挨拶をして、昼に愚痴を言って、夕方に「また明日」と言う。
そういう小さな一日が、ミナには大切だった。
異変は、その三日後に起きた。
朝の点検中、ミナがいつもの鼻歌を歌うと、ピカが少し違う拍子で光った。
ぽ、ぽぽ、ぽう。
ミナは手を止めた。
「……今の、何?」
水晶球の奥で、光の粒が集まり、ほどけ、また集まる。
ぽ、ぽぽ、ぽう。
音ではない。
けれどその光のリズムが、ミナの記憶の奥をそっと叩いた。
胸の奥が、すうっと冷える。
それは、ミナがまだ起動して間もない頃に聞いた子守唄だった。
保育区に配属される前、調整槽の中で眠っていたミナに、誰かが歌ってくれた歌。顔も名前も覚えていない。覚えているはずがない。初期化前の記憶だからだ。
なのに、ピカはそれを光でなぞっていた。
「……私、その歌、歌ったことないよ」
水晶球は、静かに光っている。
ミナは主任に報告した。
主任は数値を確認し、長い沈黙のあとで言った。
「記憶同調の可能性があります」
「記憶、同調?」
「アトラウェネス群体が、あなたの神経電位パターンを取り込んでいます。表層の行動模倣だけなら観察対象で済みますが、深層記憶に反応しているなら危険です」
「でも、ピカは何も悪いことはしてません」
「ピカ?」
「あ……」
主任は責めるようには見なかった。
ただ、少し悲しそうに目を伏せた。
「名前をつけたのですね」
「……便宜上です」
「補助員37号。私も、消したいわけではありません」
その言い方が意外で、ミナは顔を上げた。
主任は記録板を閉じる。
「けれど、覚える水は危険です。やがて本人より本人らしく振る舞うようになる。そうなれば、誰が生きていて、誰が記録なのか分からなくなります」
「ピカは、ただ覚えてくれただけです」
「それが危険なのです」
主任の声は静かだった。
「朝の挨拶だけが、永遠に続くようになります。言う者はもういないのに、声だけが残る。笑う者はもういないのに、笑い方だけが残る。そういう終わり方を、私たちは何度も見ています」
ミナは黙った。
「ひとつの保育区で済むなら、まだいい。けれど、覚える水が増えれば、オラゾは記憶だけで満ちてしまいます。誰も死なず、誰も生きていない楽園になる」
「それは……」
「終末です。静かな、朝の顔をした終末です」
主任は水晶球を見上げた。
ピカは何も知らないように、淡く光っている。
「当該アトラウェネス群体は、明朝、凍結処理します」
「……消すんですね」
「封じます。消滅ではありません」
「ピカには同じです」
主任は何も言わなかった。
その夜、保育区はいつもより静かだった。
幼体たちは水槽の底で眠り、天井のアトラフラウはほとんど消灯している。通路には非常灯の青だけが滲んでいた。
ミナは保管庫の前に立っていた。
鍵はない。
けれど、補助員用の保守権限ならある。
認証盤に手を置くと、古い扉が低い音を立てて開いた。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
保管庫の中央に、凍結処理前の水晶球が置かれている。
ピカは弱々しく光っていた。
ミナが近づくと、一度だけ明るくなる。
「迎えに来たよ」
水晶球を抱き上げる。
ひんやりとした感触が腕に伝わった。
「裏の池に行こう。あそこなら、少しくらい仲間もいるし、栄養もある。自由って言うには狭いけど、保管庫よりはずっといいよ」
ピカは答えない。
けれど胸元で、柔らかく光った。
通路を走る。
警報はまだ鳴っていない。古い自動扉は開閉が遅く、ミナは何度も足をもつれさせながら、水晶球を落とさないように抱きしめた。
途中、水槽の一つから幼体が顔を出した。
寝坊助だった。
こんな時間に限って起きている。
「しーっ」
ミナは指を唇に当てた。
寝坊助は泡を一つ吐き、また沈んだ。
笑ってはいけない場面なのに、ミナは少し笑ってしまった。
非常口を抜けると、夜の空気が頬を撫でた。
人工池は、暗闇の中で淡く光っている。白い浮草が揺れ、池底のアトラウェネスが星のように瞬いていた。
ミナは岸辺に膝をついた。
「着いたよ、ピカ」
水晶球の封を解除する。
中の水がかすかに揺れた。
「ここなら、きっと大丈夫。誰にも見つからないとは言えないけど……でも、明日の朝、凍らされるよりは」
ミナは水晶球を傾けた。
けれど、ピカは出てこなかった。
水だけが縁を濡らし、光の粒は球の奥に留まっている。
「……どうしたの?」
ピカはゆっくりと光を集めた。
粒が並び、ほどけ、また並ぶ。
最初に現れたのは、保育区の水槽だった。
次に、餌を撒くミナの手。
水を跳ねるよく跳ねる子。
寝坊助。
すぐ噛む子。
水槽の裏に隠された小さな札。
詰まった排水管を叩いて直そうとするミナ。
栄養包に顔をしかめるミナ。
誰もいない部屋で、こっそり歌うミナ。
ガラスに映る自分を見て、少しだけ寂しそうに笑うミナ。
朝ごとに、水槽へ向かって言うミナ。
おはよう。今日もちゃんと生きてるね。
ピカは、覚えていた。
全部。
記録に残らないものばかりを。
「そっか……君も、あそこが好きだったんだ」
水晶球の中で、光が震えた。
やがて、粒がぎこちなく並ぶ。
ミナ サミシイ
それだけだった。
それだけで、ミナは泣きそうになった。
「そんなことまで、覚えなくていいのに」
ピカは優しく光る。
ミナは水晶球を抱きしめた。
「寂しくないよ。ピカがいるから」
口にした瞬間、ミナは気づいた。
自分も同じことをしていた。
放流されれば二度と会えない幼体たちに、こっそり名前をつけた。記録に残らない一日を、ピカに話し続けた。消えていくものを、何かに留めようとしていた。
覚えることは、救うことに似ている。
けれど同じではない。
その時、背後で警告音が鳴った。
「補助員37号。水晶球を置いて離れなさい」
振り返ると、主任と凍結処理用の監理装置が立っていた。装置の先端には白い光が集まっている。
「お願いです。処分しないでください」
「あなたも同調汚染を受けています。離れなさい」
「違います。これは汚染じゃない」
「ミナ補助員」
主任の声が、わずかに揺れた。
「それ以上進めば、あなた自身が記録されます」
ミナは水晶球を見た。
ピカは震えるように光っている。
怖がっている。
ミナは初めて、そう思った。
凍結光が放たれる。
ミナは反射的に水晶球を庇った。
白い光が視界を焼いた。
痛みはなかった。
代わりに、全身がほどけていく感覚があった。指先から、髪の先から、胸の奥のいちばん柔らかい場所から、自分というものが水に溶け出していく。
ピカが光っていた。
強く、強く。
泣くように。
ミナは理解した。
ピカは攻撃しているのではない。
守ろうとしている。
ミナが消えないように。
いなくなっても寂しくないように。
声を、体温を、神経電位を、毎朝の挨拶を、昼の愚痴を、歌を、涙を、全部覚えようとしている。
だめだよ、ピカ。
それは、私を助けているんじゃない。
私の形をした灯りを作っているだけだ。
そう言いたかった。
けれど声にならなかった。
ピカの光は、あまりに必死で、あまりに優しかった。
ミナは最後に、水晶球を撫でた。
「明日が来たら……」
唇だけが動いた。
「起こしてね」
それが最後だった。
ミナの身体は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
主任が駆け寄る。
監理装置の光が消える。
人工池の水面だけが、何事もなかったかのように揺れていた。
水晶球の中で、アトラウェネスが眩しいほどに光っている。
やがて、その光の奥から声がした。
「おはよう、ピカ。今日もきれいだね」
それは、ミナの声だった。
数日後、第七小型水棲生物保育区は再開された。
担当者は交代した。
水槽の幼体たちは、いつもより少し落ち着きがない。餌の時間になっても、水面に浮かんでは沈み、誰かを探すように水槽の中を回っていた。
新しい担当者は記録板を見ながら呟く。
「水温、正常。酸素濃度、正常。アトラフラウ、正常……」
天井の水晶球が、ぽう、と光った。
一度。
二度。
担当者は顔を上げた。
「……返事、した?」
水晶球は、柔らかく明滅した。
そして、どこからともなく小さな歌が流れた。
音ではなかった。
けれど水槽の幼体たちは一斉に水面へ浮かび、嬉しそうに跳ねた。青い背鰭が銀の粒を散らし、保育区に朝の光が満ちていく。
新しい担当者は、不思議そうに首を傾げる。
「この声の記録、誰が登録したんだろう」
返事はなかった。
ただ、水晶球の中で、光が二度またたいた。
水槽の裏側には、小さな札が残っていた。
よく跳ねる子。
寝坊助。
すぐ噛む子。
餌を横取りする子。
新しい担当者はそれに気づかない。
水晶球だけが、その札を照らしている。
やがて朝の給餌時刻になった。
水晶球の中で、光が集まり、声になる。
「おはよう」
幼体たちは、誰も失われていないような顔で跳ねた。
朝は来た。
けれど、ミナの一日はもう始まらなかった。
おはよう。
その言葉だけが、滅びの果ての楽園で、いつまでも朝のふりをしていた。
お読みいただきありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。
今回は、「記憶すること」と「救うこと」は同じなのか、というテーマで書いてみました。
誰にも記録されない日々。名前のない命。役割として作られた存在。
そんなものたちを、ただ「おはよう」と呼びかけ続けることで、ミナは自分の居場所を作っていたのだと思います。
けれど、覚えることは、必ずしも相手を救うことではない。
その優しさが、最後には取り返しのつかない終末へ繋がってしまう。
そんな、誰も悪くないバッドエンドを目指しました。少しでも余韻が残れば嬉しいです。




