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続きそうな短編集

おはようの終末

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/05/10

 ミナの手は、水に濡れても冷えなかった。


 そういうふうに作られていたからだ。


 外環区の保育施設では、一日に何十回も水槽へ手を入れる。水温の差で動作が鈍っては困る。幼体が噛みついても、すぐ引き抜けるほうがいい。濡れた床で転んでも、壊れにくいほうがいい。


 だからミナの身体は、丈夫で、乾きやすく、疲れにくい。


 けれど、朝いちばんに水晶球を撫でる指先だけは、できるだけ優しく動かすことにしていた。


「おはよう、ピカ。今日もきれいだね」


 天井から吊られたアトラフラウの中で、水が淡く光った。


 一度。


 二度。


 眠たげな瞬きのようだった。


 けれどその光は、返事のようで、真似のようで、少しだけ先回りのようでもあった。


「はいはい。眠いのは分かるけど、もう朝です」


 ミナは笑って、壁の調整盤を操作した。


 オラゾ外環区、第七小型水棲生物保育区。


 中央監理塔から離れた湿地の奥にある、小さな施設だった。十基の水槽と、光量調整管と、古びた排水設備。そこでミナは、レイテ支流域に放流される前の幼体たちを世話していた。


 幼体たちに名前はない。


 記録上は、種名、発生番号、成長段階だけで管理される。


 けれどミナは、水槽の裏側に小さな札を隠していた。


 よく跳ねる子。


 寝坊助。


 すぐ噛む子。


 餌を横取りする子。


 主任に見つかれば叱られるだろう。保育対象への過度な愛着は、観測精度を損なう。そう言われるに決まっている。


 でも、ミナは札を捨てられなかった。


「おはよう、よく跳ねる子。今日もちゃんと生きてるね」


 餌を落とした瞬間、水面が弾けた。


 青い背鰭を持つ幼体が勢いよく跳ね、ミナの頬に水を飛ばす。


「こら。朝から元気すぎ」


 叱った声は、半分笑っていた。


 すると、頭上のアトラフラウが、ちかちかと明滅した。


 からかうような光だった。


「ピカ、今笑ったでしょ」


 水晶球は、すましたように一度だけ光った。


「嘘つき」


 二度、弱く瞬く。


 ミナは口元を押さえて笑った。


 アトラウェネスは、本来ただの発光微生物である。


 水に棲み、光を放ち、栄養と環境さえ整えばよく増える。光源としても簡易エネルギー源としても使えるため、オラゾでは珍しくもない。


 けれど、ミナの担当するアトラフラウだけは少し違っていた。


 右手を振れば、右側が光る。


 左手を振れば、左側が光る。


 鼻歌を歌えば、少し遅れて同じ拍子で明滅する。


 ただし、いつも一拍だけずれる。


 そこがまた可愛かった。


「そこ、遅い。もう一回」


 ミナが歌い直す。


 ぽ、ぽ、ぽう。


 やはり少し遅れる。


「うん。下手」


 水晶球がむっとしたように強く光った。


「冗談だって」


 ミナは笑いながら、記録板に数値を入力する。


 水温、正常。


 酸素濃度、正常。


 幼体反応、良好。


 アトラフラウ発光、正常。


 そこまで打ってから、ミナは少しだけ手を止めた。


 正常。


 ピカの返事も、歌も、怒ったような光も、記録には残らない。


 書けないからだ。


 ミナ自身の欄にも、名前はなかった。


 担当補助個体MNA-37。


 それが正式な記録名だった。


 ミナという呼び名は、施設に配属された初日に、自分でつけたものだ。短くて、呼びやすくて、水の音に似ている気がした。


 誰かに呼ばれることは、あまりない。


 主任はいつも「補助員37号」と呼ぶ。間違いではない。むしろ、正確だ。


 それでも時々、ミナは水槽のガラスに映った自分が、薄く透けているように感じることがあった。


 昼休み、ミナは保育区の裏手にある人工池へ行った。


 池の底には、余ったアトラウェネスがわずかに棲みついている。白い浮草の下で、光の粒が星屑のように揺れていた。


 ミナは岩に腰掛け、栄養包をかじる。


「味、薄いなあ」


 隣に置いた小型アトラフラウが、ぽうっと光った。


「ピカはいいよね。ご飯、光と栄養液で足りるんだもん」


 一度、強く光る。


「自慢?」


 二度、弱く瞬く。


「違う?」


 ミナは笑った。


 こうして話している間だけ、自分がちゃんとここにいる気がした。


 誰かに必要だからではなく、誰かに命じられたからでもなく、ただ、朝に挨拶をして、昼に愚痴を言って、夕方に「また明日」と言う。


 そういう小さな一日が、ミナには大切だった。


 異変は、その三日後に起きた。


 朝の点検中、ミナがいつもの鼻歌を歌うと、ピカが少し違う拍子で光った。


 ぽ、ぽぽ、ぽう。


 ミナは手を止めた。


「……今の、何?」


 水晶球の奥で、光の粒が集まり、ほどけ、また集まる。


 ぽ、ぽぽ、ぽう。


 音ではない。


 けれどその光のリズムが、ミナの記憶の奥をそっと叩いた。


 胸の奥が、すうっと冷える。


 それは、ミナがまだ起動して間もない頃に聞いた子守唄だった。


 保育区に配属される前、調整槽の中で眠っていたミナに、誰かが歌ってくれた歌。顔も名前も覚えていない。覚えているはずがない。初期化前の記憶だからだ。


 なのに、ピカはそれを光でなぞっていた。


「……私、その歌、歌ったことないよ」


 水晶球は、静かに光っている。


 ミナは主任に報告した。


 主任は数値を確認し、長い沈黙のあとで言った。


「記憶同調の可能性があります」


「記憶、同調?」


「アトラウェネス群体が、あなたの神経電位パターンを取り込んでいます。表層の行動模倣だけなら観察対象で済みますが、深層記憶に反応しているなら危険です」


「でも、ピカは何も悪いことはしてません」


「ピカ?」


「あ……」


 主任は責めるようには見なかった。


 ただ、少し悲しそうに目を伏せた。


「名前をつけたのですね」


「……便宜上です」


「補助員37号。私も、消したいわけではありません」


 その言い方が意外で、ミナは顔を上げた。


 主任は記録板を閉じる。


「けれど、覚える水は危険です。やがて本人より本人らしく振る舞うようになる。そうなれば、誰が生きていて、誰が記録なのか分からなくなります」


「ピカは、ただ覚えてくれただけです」


「それが危険なのです」


 主任の声は静かだった。


「朝の挨拶だけが、永遠に続くようになります。言う者はもういないのに、声だけが残る。笑う者はもういないのに、笑い方だけが残る。そういう終わり方を、私たちは何度も見ています」


 ミナは黙った。


「ひとつの保育区で済むなら、まだいい。けれど、覚える水が増えれば、オラゾは記憶だけで満ちてしまいます。誰も死なず、誰も生きていない楽園になる」


「それは……」


「終末です。静かな、朝の顔をした終末です」


 主任は水晶球を見上げた。


 ピカは何も知らないように、淡く光っている。


「当該アトラウェネス群体は、明朝、凍結処理します」


「……消すんですね」


「封じます。消滅ではありません」


「ピカには同じです」


 主任は何も言わなかった。


 その夜、保育区はいつもより静かだった。


 幼体たちは水槽の底で眠り、天井のアトラフラウはほとんど消灯している。通路には非常灯の青だけが滲んでいた。


 ミナは保管庫の前に立っていた。


 鍵はない。


 けれど、補助員用の保守権限ならある。


 認証盤に手を置くと、古い扉が低い音を立てて開いた。


「……ごめんなさい」


 誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。


 保管庫の中央に、凍結処理前の水晶球が置かれている。


 ピカは弱々しく光っていた。


 ミナが近づくと、一度だけ明るくなる。


「迎えに来たよ」


 水晶球を抱き上げる。


 ひんやりとした感触が腕に伝わった。


「裏の池に行こう。あそこなら、少しくらい仲間もいるし、栄養もある。自由って言うには狭いけど、保管庫よりはずっといいよ」


 ピカは答えない。


 けれど胸元で、柔らかく光った。


 通路を走る。


 警報はまだ鳴っていない。古い自動扉は開閉が遅く、ミナは何度も足をもつれさせながら、水晶球を落とさないように抱きしめた。


 途中、水槽の一つから幼体が顔を出した。


 寝坊助だった。


 こんな時間に限って起きている。


「しーっ」


 ミナは指を唇に当てた。


 寝坊助は泡を一つ吐き、また沈んだ。


 笑ってはいけない場面なのに、ミナは少し笑ってしまった。


 非常口を抜けると、夜の空気が頬を撫でた。


 人工池は、暗闇の中で淡く光っている。白い浮草が揺れ、池底のアトラウェネスが星のように瞬いていた。


 ミナは岸辺に膝をついた。


「着いたよ、ピカ」


 水晶球の封を解除する。


 中の水がかすかに揺れた。


「ここなら、きっと大丈夫。誰にも見つからないとは言えないけど……でも、明日の朝、凍らされるよりは」


 ミナは水晶球を傾けた。


 けれど、ピカは出てこなかった。


 水だけが縁を濡らし、光の粒は球の奥に留まっている。


「……どうしたの?」


 ピカはゆっくりと光を集めた。


 粒が並び、ほどけ、また並ぶ。


 最初に現れたのは、保育区の水槽だった。


 次に、餌を撒くミナの手。


 水を跳ねるよく跳ねる子。


 寝坊助。


 すぐ噛む子。


 水槽の裏に隠された小さな札。


 詰まった排水管を叩いて直そうとするミナ。


 栄養包に顔をしかめるミナ。


 誰もいない部屋で、こっそり歌うミナ。


 ガラスに映る自分を見て、少しだけ寂しそうに笑うミナ。


 朝ごとに、水槽へ向かって言うミナ。


 おはよう。今日もちゃんと生きてるね。


 ピカは、覚えていた。


 全部。


 記録に残らないものばかりを。


「そっか……君も、あそこが好きだったんだ」


 水晶球の中で、光が震えた。


 やがて、粒がぎこちなく並ぶ。


 ミナ サミシイ


 それだけだった。


 それだけで、ミナは泣きそうになった。


「そんなことまで、覚えなくていいのに」


 ピカは優しく光る。


 ミナは水晶球を抱きしめた。


「寂しくないよ。ピカがいるから」


 口にした瞬間、ミナは気づいた。


 自分も同じことをしていた。


 放流されれば二度と会えない幼体たちに、こっそり名前をつけた。記録に残らない一日を、ピカに話し続けた。消えていくものを、何かに留めようとしていた。


 覚えることは、救うことに似ている。


 けれど同じではない。


 その時、背後で警告音が鳴った。


「補助員37号。水晶球を置いて離れなさい」


 振り返ると、主任と凍結処理用の監理装置が立っていた。装置の先端には白い光が集まっている。


「お願いです。処分しないでください」


「あなたも同調汚染を受けています。離れなさい」


「違います。これは汚染じゃない」


「ミナ補助員」


 主任の声が、わずかに揺れた。


「それ以上進めば、あなた自身が記録されます」


 ミナは水晶球を見た。


 ピカは震えるように光っている。


 怖がっている。


 ミナは初めて、そう思った。


 凍結光が放たれる。


 ミナは反射的に水晶球を庇った。


 白い光が視界を焼いた。


 痛みはなかった。


 代わりに、全身がほどけていく感覚があった。指先から、髪の先から、胸の奥のいちばん柔らかい場所から、自分というものが水に溶け出していく。


 ピカが光っていた。


 強く、強く。


 泣くように。


 ミナは理解した。


 ピカは攻撃しているのではない。


 守ろうとしている。


 ミナが消えないように。


 いなくなっても寂しくないように。


 声を、体温を、神経電位を、毎朝の挨拶を、昼の愚痴を、歌を、涙を、全部覚えようとしている。


 だめだよ、ピカ。


 それは、私を助けているんじゃない。


 私の形をした灯りを作っているだけだ。


 そう言いたかった。


 けれど声にならなかった。


 ピカの光は、あまりに必死で、あまりに優しかった。


 ミナは最後に、水晶球を撫でた。


「明日が来たら……」


 唇だけが動いた。


「起こしてね」


 それが最後だった。


 ミナの身体は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 主任が駆け寄る。


 監理装置の光が消える。


 人工池の水面だけが、何事もなかったかのように揺れていた。


 水晶球の中で、アトラウェネスが眩しいほどに光っている。


 やがて、その光の奥から声がした。


「おはよう、ピカ。今日もきれいだね」


 それは、ミナの声だった。


 数日後、第七小型水棲生物保育区は再開された。


 担当者は交代した。


 水槽の幼体たちは、いつもより少し落ち着きがない。餌の時間になっても、水面に浮かんでは沈み、誰かを探すように水槽の中を回っていた。


 新しい担当者は記録板を見ながら呟く。


「水温、正常。酸素濃度、正常。アトラフラウ、正常……」


 天井の水晶球が、ぽう、と光った。


 一度。


 二度。


 担当者は顔を上げた。


「……返事、した?」


 水晶球は、柔らかく明滅した。


 そして、どこからともなく小さな歌が流れた。


 音ではなかった。


 けれど水槽の幼体たちは一斉に水面へ浮かび、嬉しそうに跳ねた。青い背鰭が銀の粒を散らし、保育区に朝の光が満ちていく。


 新しい担当者は、不思議そうに首を傾げる。


「この声の記録、誰が登録したんだろう」


 返事はなかった。


 ただ、水晶球の中で、光が二度またたいた。


 水槽の裏側には、小さな札が残っていた。


 よく跳ねる子。


 寝坊助。


 すぐ噛む子。


 餌を横取りする子。


 新しい担当者はそれに気づかない。


 水晶球だけが、その札を照らしている。


 やがて朝の給餌時刻になった。


 水晶球の中で、光が集まり、声になる。


「おはよう」


 幼体たちは、誰も失われていないような顔で跳ねた。


 朝は来た。


 けれど、ミナの一日はもう始まらなかった。


 おはよう。


 その言葉だけが、滅びの果ての楽園で、いつまでも朝のふりをしていた。

お読みいただきありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


今回は、「記憶すること」と「救うこと」は同じなのか、というテーマで書いてみました。


誰にも記録されない日々。名前のない命。役割として作られた存在。

そんなものたちを、ただ「おはよう」と呼びかけ続けることで、ミナは自分の居場所を作っていたのだと思います。


けれど、覚えることは、必ずしも相手を救うことではない。

その優しさが、最後には取り返しのつかない終末へ繋がってしまう。

そんな、誰も悪くないバッドエンドを目指しました。少しでも余韻が残れば嬉しいです。

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