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私が作ったドレスが全て妹の手柄になるので、証拠ごと持って家を出ます

作者: 夜凪いずも
掲載日:2026/05/03



「お姉様、その素敵なドレス私にちょうだい」


妹は、完成したばかりのドレスを当然のように手に取った。つい今しがた、私の膝の上で仕上がったばかりのものだった。

深い藍色の生地に、銀糸で蔦を這わせる。葉脈は極細の撚り糸で重ね、光の角度で浮かび上がるように調整した。

花弁には淡い灰青を差し、糸の本数を変えることで、布の上にわずかな起伏を持たせている。

一針ごとに、歪みが出ないよう呼吸を合わせた。強すぎれば布は沈み、弱すぎれば浮く。

ただ正確に、美しく、それだけを積み重ねた一着。



「ねえ、お姉様。いいでしょう?」


腕にドレスを抱えた妹は、返事を待つ気はないらしい。昔からそうだ。髪飾りも、靴も、布地も。私の手にあったものは、気づけばすべて妹のものになっていた。


「⋯⋯少し待って、メリッサ。まだ仕上げが残っているわ」

「大丈夫。仕上げは私がいたしますから」


その無邪気な声音に、責める余地はどこにもない。だから、私は針を置いた。


「わかった」

妹は嬉しそうに微笑むと、そのまま店の表へと向かう。扉の向こうから、すぐに歓声が上がった。


「まあ、なんて素敵な刺繍なの」

「やっぱりメリッサ様の腕は素晴らしいわ」


その言葉が誰に向けられているのかを、訂正する者は誰もいない。店奥の作業場で、私は自分の指先を見つめた。細かな傷がいくつも重なり、絹糸の染料がうっすらと染みついている。

それを誇る理由も、ここにはない。違う針を取り、次の布に静かに落とす。

作業台の上には、刺しかけの一輪の花。これから薄紅を差すはずだった。


「⋯⋯また、こうなっちゃうんだ」


店の表では、妹や客人の笑い声が響いている。軽やかで、柔らかくて、空気を明るくする声。


『噂では王妃様も、貴女の腕をお認めになられているんだとか』

『私もつい先日、友人に広めましたのよ』


場の中心にいるのは、いつもあの子。今日も普段と何も変わらない。なのにどうしてか、指先が、少しだけ落ち着かない。そう思った、そのとき。

扉の鈴が小さく鳴った。客人のものとは、少し違う。


「いらっしゃ——」


誰にも聞こえない声で言いかけて、やめる。次に聞こえてくる声を、知っているからだ。


「アナスタシア、いるんでしょう?」


迷いも遠慮もない呼び方。その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、少し浄化した気がした。そして案の定、店の中央で一度も止まらない。


「やっぱり奥ね」


顔を上げると、親友のマリアが立っていた。翡翠色の長い髪をひとつにまとめ、いつも通りの無駄のない姿勢。その姿を見ただけで、理由もなく息が抜けた。


「マリア、今日も来てくれたんだ」

「当たり前でしょ。私は偵察に来てるんだから」


呆れた声で呟くマリアは私の隣に来て、自然に腰を下ろした。作り掛けの刺繍に視線を落とすと、マリアも同じように覗き込んだ。


「表で見てきたわよ、さっきの茶番。どう見てもアナスタシアが作り上げたドレスじゃない」

「いつものことだよ。⋯でも、嬉しいな。マリアにわかってもらえてるなら、それで十分」

「あのねえ。何度も言うけど、貴女ほどの腕を持つ人は他にいないって何度言えばわかるのよ」


マリアは身をかがめ、縫い目を追う。今度は、少しだけゆっくりと。


「まず、糸の撚り。均一すぎるの。撚り戻りがほとんど出てない。普通はね、引いたときに少しだけ緩むものだけど、あなたのはそれがない」


布の上を、視線がなぞる。まだまだ言葉が続くのか、マリアは鑑定士のように言葉を繋いだ。

思わず、小さく息を飲む。そんなふうに言われたことは、今まで一度もなかった。


「そんな細かいところまで見てるの?」

「見るわよ。だって、ここが一番嘘をつかないもの」


その一言は、アナスタシアの胸を締め付けた。針先で触れた布の感触まで思い出されるほどに、輪郭を持って残る。


「あと、この色の重ね方」


マリアの視線がわずかに移る。刺しかけの花の輪郭に沿って、光がゆっくりと流れていた。白地の上に置かれた糸が、角度によって淡く色を変える。


「薄紅の下に、ほんの少しだけ灰色を入れてるでしょ?光が当たったとき、白だけだと少し浮くから」


思わず顔を上げる。近い距離で視線が合い、すぐに逸らすこともできず、そのまま一拍だけ止まった。


「なんでわかるの?」

「わかるわよそんなの。むしろ、なんで隠そうとするの」

「別に、隠してるつもりはなくて」

「じゃあこの作品は完成したらどうするの?」

「店に出そうと思ってる」

「また、あの子の手柄になるんじゃないでしょうね」

「⋯⋯⋯⋯」

「貴女はそれでいいの?」


私が作ったものはすべてメリッサの作品として扱われ、両親もそれを当たり前のことのように受け入れている。

たった一度だけ、父に疑問を問いかけた。だけどそのあと頬を打たれ、あれから何も言えなくなった。だから最初からそういうものだったみたいに、疑うことも、立ち止まることもなかった。それで完成してしまっている。

今さら文句なんて、言えるはずがない。


「でも、昔からそういうものだと思ってたから」


言葉にした瞬間、店の表の笑い声が一段高くなる。吊るされた布がかすかに揺れ、色が変わる。その明るさが、ここには届かない。

そんなアナスタシアの心中を察したように、マリアはそのまま、静かに呟いた。


「アナスタシア、あなたの糸はね。ちゃんと積み重ねた人間の糸よ」


その言葉に、息が止まる。


「誤魔化しじゃ絶対に出ない。だから、分かる人には分かるの」

「⋯⋯ほんとに?」

「だって、私がいるでしょう」


まるでそれが当然であるかのように言われ、どうしようもなく胸の奥が揺れた。


「ありがとう、マリア」

 

針を持ち直し、再度布に落とす。指先に、さっきの言葉が残っている。引く強さ、沈む深さ、止める位置すべてを確かめるように。

でも今度は、迷いじゃない。確かめるみたいに。ゆっくりと針を進める。同じはずの一針が、ほんの少しだけ違って見えた。




昼の光が、店の奥まで差し込んでいた。


硝子越しの白い光は強く、吊るされた布地の色をわずかに飛ばしている。淡い色ほど輪郭を失い、逆に刺繍の凹凸だけが浮き上がる時間帯だった。


アナスタシアは、その変化を横目で捉えながら、作業部屋で一人針を進めていた。


糸を引く。布がわずかに沈む。戻りきる前で、止める。

同じ動作の繰り返しだが、今日は、その一つ一つを確かめるように指が動いていた。


『わかる人には、分かる』

不意に昨日の声がよぎり、その言葉はまるで自分の御守りのような気がして、少し笑みが溢れた。



「⋯⋯あら?」


店内に響く、かすかな声。小さく、けれど無視できない引っかかり。針先は止めず、顔は上げないまま耳だけを傾けた。


「どうかなさいましたか?」

妹の声は変わらない。やわらかく、よく通る響き。


「⋯こちらのドレスですが」


客人の方が言葉を選んでいる。すぐには続かない。アナスタシアの指が、わずかに強く糸を引いていると、否定でも、肯定でもない曖昧な言葉が流れてきた。


「少し、印象が違う気がして」

「新しい意匠ですの。軽やかに仕上げておりますから、そう感じられるのかもしれません。それに、手作業の仕事ですもの、多少の個体差はございます」

「⋯⋯ええ、そうね」


中央で広げられているのは、深い藍色のドレスだった。昨日、最後の仕上げが出来ないまま、自分の手から離れていったもの。

客人は頷いたものの、その指は布の上に残ったままだった。撫でるでもなく、押すでもなく。ただ、確かめるように置かれている。


それは欠けたものではなく、余計に足された一手の痕跡だった。

アナスタシアは静かに息を落とす。あのとき、最後に触れていたのは、自分ではない。

すると、控えめなノックが、一度。返事を待たずに、扉が開く。


「お姉様」


柔らかな呼び方。けれど、わずかに間が短い。メリッサはそのまま作業台の前まで来ると、視線を落とした。


未完成の花。糸の流れ。針の位置。ゆっくりと、順番に見渡していく。

評価するでもなく、ただ確認するように。


「次のドレスも順調でいらっしゃいますね」

「⋯ええ」

「先ほどのことですが、余計なことはお考えにならないでください」


メリッサはゆっくりと瞬きをする。


「⋯でもあれは!貴女が、最後の仕上げを──」

「人聞きが悪いですわ。先程の客人は、お姉様が縫い上げた刺繍に違和感を抱いておられたのですよ?わたくしに責任転嫁しないでください」

「そんなっ⋯⋯」

「ほんっとにイライラさせる人ですわね。何も出来ない身で人に擦りつけようとするなんて。心底軽蔑いたしますわ、お姉様のこと」


ねっとりと、肌に絡みつくような笑みを浮かべる妹を前に、アナスタシアは鼻の奥に鈍い痛みが滲み、喉の奥が狭まっていくのを感じた。


「まあ、お姉様は一人部屋に篭って手を動かばいいのです。余計な手出しや、お考えは不要でございます。どうせ、表に出るのはわたくしですもの」


誇るでもなく、ただ、当然の事実のように。それが一番、胸に刺さる。

メリッサは、その沈黙を確認するように、最後にもう一度だけ微笑んだ。さらに一歩、踏み込む。


「お姉様のお仕事は、本当に素晴らしいと思っておりますわ。わたくし一人では、到底無理ですもの。だから今のままずっと、裏方でいてくださいませ」


今度は、命令を願いに見せる妹に、アナスタシアは口を結んだまま動かなかった。沈黙を見て、メリッサは満足そうに目を細めた。


「ご理解いただけて、安心いたしました」


理解の有無は関係ない。メリッサはそのまま踵を返し、迷いのない足取りで、扉へ向かう。


その音だけが、やけに長く残った。



あの日から、数日が経った。時間は進んでいるはずなのに、あの時の言葉だけが、抜けないまま胸の奥に残っている。


『お姉様は一人部屋に篭って手を動かばいいのです』


優しく整えられた声だったのに、その中身は冷たく思い出される。気づけば、何をしていてもそこに引っかかる。布を見ても、針を持っても、ほんの少しだけ呼吸が遅れる。

私は、邪魔なのだろうか。

せめて、誰かの役に立っているつもりでいたのに、実際には、最初から必要とされていなかったのではないか。

そんな考えだけが、静かに残っていく。


店内には、遅い午後のぬくもりが静かに滞っていた。

高窓から落ちる光は白ではなく、どこか淡い蜂蜜色を帯びて、布の上をゆっくりと滑っていく。


刺繍の糸は、きらめくというより、息を潜めて光を抱くように鈍く反す。近づけば見える細部が、少し離れるだけで溶けてしまう、そんな距離の揺らぎが、空間を静かに満たしていた。



「本日はようこそお越しくださいました」


光を背に受ける場所で、客人の一人一人にメリッサは声を掛けて回っていた。顔の輪郭がやわらかく際立ち、まつ毛の影が頬に細く落ちる。


背筋は無理なく伸び、指先の角度まで整っている。作られたものではなく、最初からそうであったかのような自然さ。

微笑みは浅く、崩れない。見る者が安心する分だけ、きちんと距離を残す。


「こちらの新作ですが」


客人に商品の説明をしている途中、扉の向こうから入ってきた男がわずかに遅れて立ち止まっていた。


整えられた服装に、靴音がほんの少しだけ硬いまま残っている。

メリッサの表情が、ほんのわずかに変わった。



「まあ、お久しぶりですわ」


メリッサの声が少しだけ弾み、ゆっくりと歩み寄る。

男がこの店を訪れるのは、今日が初めてではなかった。むしろ以前は、もっと頻繁に足を運んでいた。


きっかけは仕立てられる衣装ではなく、目の前にいる“彼女”そのものだった。

しかしその縁は、自然な流れのようにもう一人へと繋がっていく。マリアとも顔を合わせるようになり、気づけば二人は恋人同士として隣に立つ関係になっていた。


そして今。その間に空白だけが落ちたまま、男は久しぶりにこの店へと戻ってきていた。埋まらない時間を確かめるように、店内に立っている。


「彼女にプレゼントを送りたくてね」

「まあ、そうでしたのね」


メリッサは小さく笑う。まるで、その空白すら想定していたかのように。

光を受けた横顔が、わずかに柔らかくなる。けれど、その柔らかさは崩れない。


「もうお会いできないかと思っておりましたので」


軽い冗談のように。男の肩の力が、ほんの少し抜ける。


「とてもうれしいですわ」


重ねるように、短く。その一言で、空気が変わる。

戻ってきた場所として受け入れられる感覚に、男の表情がわずかに緩む。

それを見て、メリッサは半歩だけ距離を詰める。自然に、当然のように。


「ですが少しだけ、お時間をいただいても?」


店の音が、一瞬だけ遠くなる。布の擦れる音も、針の気配も、薄くなる。

男は迷うことなく頷いた。


「ええ、もちろん」

「ありがとうございます」


妹の声はやわらかいまま。そのまま、当然のように横へ並んだ。



「最近、マリア様がよくこちらにいらっしゃるのですが」


メリッサの声は、あくまで穏やかだった。責める響きはない。ただ、事実を静かに置くような調子。

男が小さく頷く。


「ああ、マリアはアナスタシア嬢と昔から親しい間柄だそうだ。また来ていたんだな」


奥の部屋で、その声ははっきり届いていた。

今日も偵察だと言い切り、心配して作業場に来ていたマリアの手が、ほんのわずかに止まった。



「熱心に来ていただけるのは有難いのですが、少しだけ、お仕事の手が止まってしまうことがございまして」


困った、という形の微笑み。責めていない。けれど、線は引いている。


「悪気がある方ではないのは、よく存じておりますわ。お姉様の一番の親友ですし」


そこで一度、間を置く。空気を整えるように。


「以前からわたくしの方でお声掛けさせているんですが、どうにも聞き入れてくださらないんです」

「そうか、それはすまかったな。仕事の邪魔にならないように、俺からも話しておくよ」


その言葉が落ちたあと、メリッサの視線が、男に向かった。


「⋯でも、嬉しいですわ。またこうしてお会いできるなんて。夢のようです」


声の温度が少しだけ上がる。ただの、ひとりの女性の声。

視線が自然に上目へ流れ、わずかに首を傾ける。距離が、さりげなく近づくと、男が一瞬だけ言葉を失う。



「マリア様にお心が向いてしまって、わたくし少し寂しかったの」

男は少し照れたように視線を逸らす。そんな仕草を見逃さず、メリッサは小さくほくそ笑んだ。

満足しているわけではない。けれど、確実に手の中に戻ってきた感覚だけはそこにあった。



「それで、今日は何をお探し?」


店を訪れた理由を今更思い出したように、男は慌てて店内を見渡した。

吊るされたドレス。光を受けて揺れる布。細かく重ねられた刺繍の陰影。

しばらくそれを眺めてから、軽く息を吐いた。


「こういうのって最初はすごいと思ったんだけど、慣れるとどれも同じに見えてくるんだよな」


視線が、吊るされた布をなぞる。


「ほら、模様も似てるし。正直、違いを説明されても覚えきれないっていうか」


悪意はない。ただ、理解できないものをあまりにも軽い言葉で並べてしまう。


「細かいのはすごいんだろうけどさ、見てると目が疲れるんだよ」


奥の部屋で、マリアが青ざめた顔で硬直していた。男は気づかずに続ける。


「それにこういうのって、結局誰がやっても同じに見えない?ほら、専門家じゃないと分からない世界ってやつ」


そして極め付けに


「俺には無理だよ、こういうの。正直、才能とかじゃなくて根気の世界なんだろうな」

「ええ。とても時間のかかるお仕事ですわ」

「まあここは雰囲気もいいし、値段も手頃だから来るけどね」


一つの作品ではなく、空間として消費される言葉。

奥の部屋で、マリアの呼吸が浅くなる。


ぽたり、と。マリアの涙が、刺繍の上に流れ落ちた。



「⋯⋯違うのに」


声はもう震えていた。けれど止まらない。


「どうして⋯?どうしてっ、そんなふうに言えるの」


息を吸う間もなく、言葉があふれる。


「アナスタシアが、一人で、どれだけの時間をかけて作り上げた作品だと思ってるの」


視線が布の上をなぞる。その一針一針を追うように。


「⋯毎日、同じ姿勢で、手を止めないで⋯⋯積み上げてるものなのに」


怒りと悔しさが混ざって、言葉が形を失いながら溢れていく。


「それを、なんでそんな軽い言葉でまとめるの」


一度、呼吸が乱れる。それでも止まらない。


「分からないとか、同じに見えるとか⋯そんなの、見てないのと同じじゃない」


布を握る指が震える。


「なんで私だけが知ってるの」


その言葉は、叫びに近かった。視線がアナスタシアへ向く。涙で視界が滲んだまま、それでも離さない。


「こんなに一人で頑張ってるのに、認めてもらえるどころか、誰もそんなの知らないで。それでも一人何も言わずに努力してるのに。それを、どうして⋯⋯そんなふうにっ、言われなきゃいけないの」



マリアの呼吸だけが荒く響く。怒りではなく、悔しさが崩れていく音だった。


「⋯⋯貴女の刺繍は、こんなに軽く扱われていいものじゃないのにっ⋯」



マリアの涙が溢れ落ちた瞬間、アナスタシアの中で、何かが途切れた。


マリアは、今までどれだけ辛い思いをしても、私の前では泣かなかった。マリアの母君が亡くなった時でさえ、気丈に振る舞っていた。

そんな彼女が、私のために涙を流してる。


それまで必死に繋ぎ止めていた糸が、指の中で静かに離れていくような感覚だった。

言葉は出ない。ただ、呼吸だけが一度浅くなる。


マリアの肩が震えている。涙は止まらないまま、布の上に落ち続けている。

なにか言葉をかけなきゃいけないのに、この怒りが止められない。

いや、止める理由が、どこかにもないのだと理解した。


——ああ、私はとうとうキレてしまったのだ。そう理解するまでに時間はかからなかった。


「絶対に許さない」


その声は、もう迷っていなかった。





その夜、屋敷の食堂には妙な緊張が漂っていた。


アナスタシアに呼び出された家族は揃っているのに、誰も食事の席に安心して腰を下ろしていない。

長いテーブルの上だけが、やけに整っていて、その整い方がかえって居心地の悪さを強調していた。


アナスタシアは扉の前で一度だけ立ち止まり、そのまま中へ入る。座る気配はない。


視線が集まるより先に、父が低く言った。


「また面倒を起こしたそうだな」


その一言は問いではなく、ほとんど決めつけだった。食堂の空気がわずかに沈む。


母や妹は表情を変えないまま、静かにアナスタシアを見つめている。


アナスタシアは視線を落とさず、そのまま言い放った。



「仕立屋の件です」

「それがなんだ?お前は昔からグチグチと」


父の呆れ果てた声に、昼間の光景が過ぎる。

マリアの涙を見て「もう無理だ」と、強く感じた。


アナスタシアは静かに呟く。


「この店は、本日限りで畳みます」

「畳むですって?貴女は何を言っているの?」


まだ動かない。ただ視線だけが鋭くなる。


「何を寝ぼけたことを言っているんだ貴様は!理由をなんだ!?」

その言葉で、場が“詰問”に変わる。


アナスタシアは少しだけ息を吸い、ようやく核心をつく。


「マリアが、泣きました」


一瞬、誰も意味を飲み込めないまま、父の眉が動く。


「それが一体何だというんだ!」

「私の前で」


そこで初めて、空気の質が変わる。

母の表情が曇り、メリッサの指先が止まる。

アナスタシアは言葉を選ばない。


「私の努力を軽く扱われていると、マリアが泣きました」


沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは父だった。



「だから畳むだと?たったそれだけのことで?ふざけたことを抜かすな!」


アナスタシアはそこで初めて、ほんのわずかに目を細める。


「たった、それだけのことですって?」


アナスタシアは瞬きをひとつ落とした。その瞳から温度がすっと引いていくのを、誰もが感じ取れるほどに。

言葉を返す代わりに、静かに息だけを吐いた。



「それだけ?なんて、軽いお言葉で済ませるんですか?」


少しずつ、言葉が熱を持ちはじめる。


「私はずっと一人で作品を作り上げて来ました。一針、一針。誰にも見えない所で、家族の誰一人認めてくれない暗闇の中でずっと。


それを今まで、何だと思っていたんですか?」


空気が、重く沈む。母が何か言おうとして、言葉を飲み込む。

メリッサの表情から、初めて余裕が消える。


アナスタシアはそこで、ようやくはっきりと怒りを出した。



「“たったそれだけ”だとおっしゃるなら一度、貴方達が作ってみればいい」


静かな声のまま、鋭さだけが増す。


「一針でもいい。ここに揃っている三人で、醜い作品を作り上げればよろしいのでは?」



空気が完全に固まる。父の顔が強張る。それでもアナスタシアは止まらない。



「人の手の重さを、何一つ知らない無知な貴方達とは」


一度、言葉が途切れる。その沈黙がいちばん危ない。

次の瞬間、声が跳ねるように上がった。


「これ以上、ここにいられません!」


食堂の空気が完全に割れる。椅子の脚がわずかに鳴り、息を飲む音がする。

アナスタシアは止まらない。


「軽いとおっしゃるなら、どうぞ好きにすればいい。でも私はもう、その“軽さ”の中にはいられません。

いいえ、ここにいる限り、私の手はもう生きられません」


食堂には、灯りは確かにともっているのに、その明るさは人の顔をきちんと照らさない。むしろ影のほうが濃く落ちて、そこにいる全員の輪郭を遠ざけていた。


アナスタシアはただ一人、立っていた。

その姿勢は崩れず、揺れもない。言葉にするより先に、「もう戻らない」という意志だけがその場に置かれている。


それを見て、父がようやく口を開く。


「⋯⋯お前は、何を考えているんだ。一族を破滅に追いやるつもりか!?」


怒りというより、現実を受け入れようとしない拒絶の響きに近い。

アナスタシアはすぐには答えない。

わずかに視線を落とし、呼吸だけを整えるように間を置く。

そして、真っ直ぐ呟いた。


「私は、この家を出ます」


その一言で、空気がかすかに揺れた。


母の指先がそのまま動きを失い、メリッサの視線だけが微かに揺れた。父は一歩遅れて、その意味を探るように眉間に皺を寄せる。



「遅かれ早かれ、この仕立屋は続きません。これ以上の醜態を晒す前に、最後の情けをかけているのにまだ気づきませんか?」


言葉は淡々としているのに、空気だけがじわじわと重く沈んでいく。

メリッサの指先が、テーブルの縁を押さえるように動いた。

その小さな動きだけが、かろうじて感情の揺れを示している。


「そんな身勝手な話を聞き入れられるか!貴様はまさに疫病神そのものだ!」


父は怒りを抑えきれず、テーブルの上に並べられていた食器を投げ捨てる。

それでもアナスタシアは動じず、ただ、父を真正面から見返す。

そして静かに言った。


「気に入らない事があればすぐ手が出るその癖は、昔から何一つ変わっていないんですね。それに、私が家を出るのは決定事項です。何を言われても変わりません。では、清算をお願いします」


その言葉と同時に、一冊の帳簿がテーブルに置かれた。乾いた音が、やけに広く響く。


誰もすぐにはそれを見ない。まるで触れてはいけないもののように、一瞬だけ視線が避けられる。けれど逃げることはできない。


父の手がゆっくりと帳簿へ伸びる。ページがめくられる音だけが、静かな室内に落ちる。


そこに並んでいるのは、曖昧な数字ではない。積み重ねられてきた年月そのものが、逃げ場のない形で突きつけられていた。


「これは⋯⋯」


母の声が、かすかに揺れる。アナスタシアはそれに反応せず、ただ淡々と続ける。


「これまでの売上と、その内訳です。今ここで、すべて精算してください」


その瞬間、メリッサの表情が崩れた。


「⋯そんな、そんなつもりじゃ⋯⋯」


言葉が形にならないまま、崩れていく。

父は帳簿から目を離さない。怒りよりも先に、現実としての重さがそこにあった。


やがて、低く声が落ちる。


「⋯⋯お前は本気で、これを持って出るつもりなのか」

「ええ。脅しではありませんお父様」


その言葉が落ちたあと、食堂の空気は一段と静かになった。

父の手が、帳簿の上で止まる。ページをめくる音だけが、やけに遠く感じられる。


⋯⋯暫くして、低い声が落ちた。


「⋯⋯明確な金額を提示しろ」


命令でも、怒鳴りでもない。現実に折れかけた人間の、最後の抵抗の形だった。


アナスタシアはただ淡々と視線を下げる。


「すでに計算済みです」


その一言で、妹の肩がわずかに揺れた。


「違う⋯⋯なんでこんなことに!?お姉様が勝手に⋯」


今まで整っていた声の形が、完全に崩れ始める。言いかけていた言葉が、途切れる。

助けを求めるように父を見るが、父は帳簿から目を離さない。

そこにある数字は、感情では覆せない形をしていた。



「仕立屋の利益と、委託分、未払い分すべてです」


淡々とした声が、逆に逃げ道を塞いでいく。

メリッサの呼吸が乱れる。


「そんなの、払えるわけないじゃない⋯!」

「あぁ、そうだった。仕立屋の表に立つのは、あなただったわね」


その一言で、空気が静かに変わる。


「評判を受けるのも、称賛を受けるのも全部、あなたの仕事として扱われてきたのよね。それなのに、責任の場面だけは」


静かに、皮肉の温度を含めて続ける。


「“そんなつもりじゃなかった”で、済むと思っていたの?」


その言葉で、メリッサの顔から血の気が引いた。


「⋯違う、私は⋯⋯!」


必死に言葉を探す。けれど、どれも繋がらない。アナスタシアはそこで初めて、ほんのわずかに視線を傾ける。


「違うのなら、なぜ、今ここで言葉を返せないの?自分の言葉には責任を持った方がよろしいんじゃなくて?」


父は何も言わず、母も動けない。メリッサだけが、初めて逃げ場のない場所に立たされている。

アナスタシアはそれを見て、最後に一言だけ言い放つ。


「本当の役立たずは、どっちだったのかしらね?」




「⋯⋯出ていけ」


それは誰か一人に向けられた言葉ではなかった。救いでも、拒絶でもない。ただこの場そのものへの結論だった。


アナスタシアは、わずかに目を細める。そこに揺れはない。勝ち誇りも、未練もない。ただ、終わりを受け入れる静けさだけがあった。


そして静かに一礼する。


「承知いたしました」



扉へ向かう足音だけが、食堂の静けさを一つずつ切り分けていく。

そして最後にその音も消え、沈黙の中を、アナスタシアは確かに歩いていた。


廊下へ出た瞬間、背中に貼りついていた空気が、ふっと剥がれ落ちた。

胸の奥に残っていた息苦しさが、ゆっくりと消えていく。

足取りは自然と軽くなっていた。


急いでいるわけでも、振り返るわけでもない。ただ、もうそこに縛られていない身体の動き。


窓から差し込む夜の光が、床に淡く落ちている。

その上を踏むたび、音が軽くなる。



(⋯やっと終わった)


言葉にしないまま、アナスタシアはそのまま歩き続ける。

まるで、長く縛っていた糸が切れたあとに残る、静かな解放のように。


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ざまぁよりもどう考えてもざまぁになる前(本番前)の話ですよね。続きが無ければざまぁになってないと思いますね。続きを希望します。
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