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相棒  作者: 西中凛呉


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相棒

 買い物が終わって、この春に阿南さんが開いた「shizuku」という香の店を訪ねた。

 気持ちばかりの開店祝いをおいて、淡い黄金色のとろりとした煎茶を頂いた。

 産寧坂へ出ると、後ろから店で焚いている香が包むようについてくる。

 今が、人生の一番幸せな時間だと思った。

 

 その時、石段の上から小鳥の囀りような笑い声が聞こえた。

 見上げると、石段のずっと上の方で里緒の横顔が勇の肩の輪郭と向かい合っていた。

 今を盛りの花が、音羽山を包んでいる。

 清美は、右足を一つ上の石段にかけたまま動かなくなった。

 空が白い。

 手に下げた粉山椒の袋が、風で音を立てる。

 やはり、別れた方がいいのだろうか。

 清美は二月に三十九歳になっていた。

 

 産寧坂近くで店を買うのは、勇が言い出したことだった。

 土産物を売り、勇の描いた京都の風景の手ぬぐいや便箋も置く。

 清美は産寧坂で土産屋の店員と旅館の女中を掛け持ちして、三百万円の金を貯めた。 

 すると、勇と里緒ができたのである。


 里緒は、勇のアトリエへモデルに来ていた美大生だった。

 清美も一緒になって可愛がっていたが、いつからか二人は付き合い始めた。

 少女は大人になった。

 二条城の裏の老舗の和菓子屋の一人娘で、色白で丸顔の清楚な美人だった。

 京都美大で日本画を専攻していて、勇と知り合った。

 顔に似合わしい淡い日本画を書く。

 清美が三十九になった年、里緒は二十一だった。

 人気の出始めた画家の妻には、申し分のない娘だった。

 兵庫の大学を卒業した後、教師にしたがる両親を残して京都に出てきた勇を、清美は八年支えてきた。

 だが、十歳年上の清美を田舎の両親は汚いもののように嫌った。

 勇は、里緒と付き合い出してからも清美と別れる気はなった。


 その頃、丁度いい店が売りに出た。

 そして、二人で売家のある山を反対側から石段を上がり、坂を降りてくる途中で言い争いになったのである。

 里緒のことや自分の年齢のことで、清美は頭がいっぱいだった。

 浮気をすること、絵の他に仕事を探す気がないこと、贅沢であること。

 「いい加減にしてほしいわ」

と言った時、いつも弟のような立場を通していた勇が 言い返したのである。

「僕に文句があらへん思うんか。

 ええ加減にしてほしいのんはこっちやわ。

 一月の半分は僕が飯を炊いて待ってるんとちがうか。

 男妾とおんなじやないか」

 頭に血が上った。

 だから、清美が働きに行っている間に女を連れて清水詣でをしているというのか。

 清美は、巾着に入れていつも持ち歩いている、栗を剥いたり蜜柑の尻を引っかけて切れ目を入れたりする時に使う小鋏を、端切れと厚紙で作ったカバーから出した。

 これはやってはいけない事だった。

 「せやったら死んだるわ、あんたも死になはれや」

 勇が清美の腕を抑えたとき、鋏は勇の右腕を刺し、二人の動きに連れて勇の前腕の端から端まで搔っ切った。

 すさまじい血が流れ、肉の割れ目が不思議な果物のように開いた。

 坂の上下で悲鳴が上がった。

 人だかりができ、勇は向こうの坂から上がってきた救急車に乗せられた。

 救急車は土産物屋の並ぶ急な坂を、何度も切り返し切り返しして向きを変えて、もと来た道を引き返して行った。

 勇は、清美の部屋に来なかった。

   

 この家へ引っ越しの準備に来始めた頃、少年は小学校へ入学したばかりだった。

 他の子は下校時には母親が迎えに行って、ランドセルを持って、つないだ手を振りながら帰ってくるのに、少年はいつも一人だった。

 シャツの裾がズボンから出て、大きなランドセルを背負い、白けた青のレッスンバッグを引き摺りながら歩く姿は、裕福な家庭の子には見えない。

 だが、祖母の古風な教育のせいで、彼は鷹揚な性格の子どもであった。

 とびっきり明るい人懐っこい笑顔で

「こんにちわぁ」

と向こうから、あいさつをしてくる。

 憎めないという点では、他の子から群を抜いていた。

「ぼく、帰ってるんか」

と声を掛けると、ほやほやと笑いながら近寄ってくる。

 ズボンの中にシャツを入れ直してやって

「ほな、道草せんと真っすぐお帰りや。

 お母ちゃんが心配するからな」

と言って、ランドセルの背中をぽんぽんと叩く。

 少年には、まだ清美の話がよく理解できない。


 そのうち、ほとんど毎日、そうしてズボンを直してやるようになった。

 学校の話を聞いてやって「庭にある四十センチ以上もある赤い石の名前」とか「物干し竿を括ってある紐の端がほつれている理由」とか、陽翔の質問に答えてやる。

 三時半には彼が通るので、清美の生活はいつかそれを中心に回っていた。

 友人も迎えもない彼の、帰宅時間は正確だった。

「おかあちゃん、いーひん」

「昨日もおとうちゃん、いーひんかった」

という陽翔の話は、いつも清美に哀れを催させた。

 陽翔の母が去った理由は姑が難しいからだと言う噂である。

 だが、祖母は普通の老婆である。

 息子が生まれたのも孫ができたのも遅いらしく、近頃よくいる若い祖母ではなかった。


 五月のある日、彼は後ろ手に何かを隠して庭に入ってきた。

 清美の前に立って

「おばちゃん、目ぇ、つぶってみ」

と言う。

 清美の手をほにゃほにゃと触って何かを握らせると

「もう、目ぇあけてもええわ」

と言った。

「細いもんどすなぁ。

 怖いなあ、なんかけったいなもんちゃうの」

と、清美が言うと

「大丈夫、大丈夫、すごくええもんやから」

と言う。

 目を開けると、割り箸の先に赤い折り紙のカーネーションを貼ったものだった。

「ああ、学校で母の日に作ったんだな」

と思ったら、胸が詰まった。


 二年生になると、陽翔はすっかり男の子らしくなった。

「おばちゃん、何歳」

「んっ、四十四歳」

「ほなら、陽翔は七歳。

 せやから、男子の結婚年齢は十八やから

 18-7=25

 44+25=69

 六十九歳になったら、おばちゃん、プロポーズするから待っとってね」

 言っていることがわからなくて、しばらく考えた。

 陽翔は十八歳になったら、私にプロポーズしてくれるらしい。

 六十九歳になった自分が陽翔と並んでウエディングドレスを来ている姿を想像して、おかしくて鼻がひくひくした。

 あまり楽しくて、引き算でなく足し算をしていることに気が付かなかった。

「結婚したら、ほんなら、ぼくが毎日お風呂、いれたる」

 六十九歳のお婆ちゃんが七歳の少年に風呂に入れてもらってる姿は、想像しただけで愉快だ。

 青年になった彼を、清美は想像もできない。

 それからも、彼はよく結婚を口にした。

 幼い彼の口説き文句は、いつも「毎日風呂に入れたる」だった。


 ある春の肌寒い朝、店に来た油取り紙の卸業者が、今朝「帆船」の産寧坂店の裏口で野犬が子を産んでいた、と言う。

 見に行くと、兄弟の中にひと際体が大きくて尻の大きな犬がいた。

 茶黒の雄犬だった

 清美は、一月後に貰いに来る約束をして帰った。

 太郎は最初の印象通り、おっとりしていてあまり吠えない犬だった。

 番にはならないが、肩を寄せるように隣りあった両隣の家から苦情が出ることはない。

 小さい時に貰ってきたので、犬小屋で寝させるのがかわいそうで、ビニールの袋を割いて敷いて上に新聞紙を広げトイレにした。

 畳の上で雑種の犬を飼い始めたというので、近所で変わり者だと噂になった。

 結局、雨が降ったり風が吹いたりで可愛そうで外に出せず、十二キロになった茶黒の雑種は今も座敷で飼っていた。


 陽翔は、三年生になって野球を始めた。

 野球を始めて、以前のように学校の帰りに家へ寄ることはなくなった。

 コーチの仕事で水曜日が休みなので、必ず顔を見せる。

 他には学校の休みの日に、清美が店が暇で裏で用事をしている時や庭で洗濯物を干している時に、赤のままを摘んで持ってきたり太郎と遊んだりしていく。

 清美には、遅くにできた子どもの様な気がした。


 癌の宣告を受けたのは、太郎が来て五年目だった。

 店は順調に回り、何とかやっていけそうな気がし始めた時だった。

 開店の準備をしていた頃に、心労のため五キロほど体重が落ちて、いっぺんに年をとったような気がしていた。

 それからは食が細くなったが、初めての平穏な生活は楽しかった。

 自分の店を持って、犬を飼い、散歩に行き、買い物をして帰って食事を作った。


 そんなある夜、清美は黄色い水を吐いた。

 子どもの頃から腹は弱かったから驚かなかったが、それからもたびたび黄水を吐いた。

 そこで主治医に診てもらったら、市立病院へ行くように言われた。

 生まれて初めて胃カメラを飲んだ。

 初めての経験をする年だなと思った。

 医師に

「採取した組織を調べるからね、二週間後にいらっしゃい、受付で予約をしてね」

と言われた。

 二週間目は確定申告で行けずに、次の週の火曜日に結果を聞きに行った。


 茫洋とした悲しみはあったが、惜しいものは何もなかった。

 飼い犬として平穏な生活を送っている太郎を別にすればである。

 デパートや公園をぶらぶら歩いて、宵の薄闇の中に家が沈んでから帰宅した。

 座敷を歩いている太郎が寄る辺なく見えた。

 今日も太郎は玄関まで出迎え、清美の行く所に尾を振って付いて回った。


 今週も、水曜日に陽翔は庭に来た。

 歴史的いがぐり頭の野球少年は、六年生になった。

 身長は清美と変わらない。

 清美は時々

「おばちゃん、待っといてな、僕がプロポーズするから、って言うたの覚えてる」

と聞きたい衝動にかられたが、陽翔は覚えていないと言うだろう。

 

 ランドセル姿も、もう危なげがない。

「野球、どうやの」

と縁側から声をかけると

「うん」と言いながら、入ってきた。

「蝶佐町の野球チームから中学校に行った奴は、皆強うて試合に出てる。

 みんなが、蝶佐町の野球チームに入りたがる。

 公園の横のグラウンドは狭いけん、あんまり団員は増やせへんけど、こいつは強いなと思ったら僕がコーチに言うたってる」

とよく分からないが、自慢しているのだなと思うような話をした。

「ふうん、すごいねんな」

と、理解していないことが分からないように言う。

「いや、俺よりすごい奴はいっぱいおる。百キロ近い奴もおるからな。

 祥太は九秒切るしな、五十mやで」

と、これまた話が分からない。

「おばちゃんは、野球せんの。おもろいで」

と言う。

 する訳ないだろうと思うが、自分の話を打ち切って話を振ったのは大人になったからだ。

 話をしながら、陽翔は軒下の石臼を見ていた。

「目高おるやろ、貰うてん。

 青い方の鉢には、子どもがおんねん、ぎょうさん」

「ふうん、子どもおるん。あいつら瞬間移動するやろ」

 大人びた口ぶりだが、目は石臼に釘付けである。


 清美は、何気なく 

「なあ、陽翔ちゃん。

 太郎のこと、見てもらえへんかな。

 おばちゃん、ここでいられへんようになるかもしれへんの」

と言った。

 陽翔は、ぼっとしたような顔で清美を見た。

「そしたらおばちゃん、陽翔ちゃんに宝の石あげるわ。

 願い事が叶うのんやけど、おばちゃんはなんにもお願いしてへんから、まだパワーが残ってるわ。

 野球選手にでもなれるわ」

「わかった」

 陽翔は、賢そうにちらと清美を見た。

「ほんまか。ほならおばあちゃんに聞いてな」

「わかった」

 陽翔は門を出ると、塀の向こうを真顔で通り過ぎた。


「近所に泥棒が入ってんから、婆ちゃんが犬飼おうか言うとる。

 太郎みたいに賢いといいんやけどな」

と太郎を撫でながら陽翔が言ったのは、少し前である。

 他の犬を飼うのが気が進まない様子だった。

 陽翔と太郎は兄弟みたいである。

 告知を受けた時、清美の胸をよぎったのは気の弱い太郎の始末であった。

 その時、陽翔の話を思い出したのである。


 次の朝

「婆ちゃんが飼うてもええ言うとるよ」

と、陽翔が庭から叫んだ。

 これまで、午前中に家に来たことは一度もないのに、真面目に受け止めてくれたのだなと思った。

 

 いつもは野球のない水曜日の四時過ぎに、清美が洗濯物を入れに店から帰る時間を見計らって、そこらでうろうろしている。

 それが、今日は学校へ行く前に来たのである。

 庭の朝日の中に立つランドセルの背がすらりと高い。

「ほんとお、嬉しいわあ」

 清美は言いながら、廊下へ出た。

「ほんだらまた貰いに来るけん。言うけん」

 もう姿はなかった。


 太郎と遊んでいる陽翔に、サイダーを入れてやった。

 廊下で並んで飲んでいる時、

「なあ、陽翔ちゃん。目高の子お、見に来てくれへんか。

 時々、小さいのが生まれてんねん。

 ここにおったら餌も水ものうて干からびてまうさかい、川へ放したってくれへんか。  

 陽翔ちゃんとこで飼わんでええから」

と、清美はまた言った。

「うん、わかった」

 太郎の時のように、陽翔はまたすぐに答えた。

 陽翔は顔をあげると

「おばちゃん、お嫁に行くんか」

と言った。

 陽翔の問いに、清美は噴き出した。

「ほやなあ、ほなら、ええんやけどなあ」


 店は、産寧坂近くの坂の途中にある典型的なウナギの寝床の京町家である。

 抹茶ソフトなどを売っていたお茶屋のお婆さんが施設へ入った後の店を、中古で購入した。

 店の奥の住居の玄関は、反対側の道に面している。

 夕方には、学校帰りの子どもがたくさん通る。

 その日は、野球の練習があるはずなのにやってきた陽翔が

「おばちゃん、俺、太郎の散歩に行ってもいい」

と庭から叫んだ。

「いいよ、あんまり引っ張らへんけど、体が大きいから気ぃつけてな」

と言って送り出した。

 陽翔は、太郎を愛している。

 清美は感謝の気持でいっぱいだった。

 母から貰った十八金の指輪や、宝石店に務めていた友人に勧められて厄年にローンを組んで買ったオパールの指輪は、陽翔に譲るつもりだった。

 清美には、太郎と陽翔より他になかった。

 

 もともと貧血でやせ型だったが、不快感と嘔吐のせいでほとんど食物が取れない。

 疲労感はひどかった。

 店は先月末に閉めていた。

 売りに出すにしても掃除くらいはしておかなくてはと思うが、もう後始末はできそうになかった。

 不動産屋に買い手を探してもらったが、清美にはもう一人で生活していくだけの体力がなかった。

 そこで

「店舗のクリーニングの段取りも、自分ではできそうにないので買い取ってもらえませんか」

と、不動産屋に頼んでみた。

 「この場所の店舗付き住宅なら買ってもよい」と言って、希望していた売り出し価格より一割ほど安い価格を提示してきた。

 良い場所の店を選んだものだと嬉しかった。


 自覚症状のないままステージ4まで症状が進んだのに、抗がん剤の投与が始まってから一気に体力が落ちた。

 朝起きても、台所へ行って湯を沸かす気力がない。

 店を売ってまとまった金が手に入ることは、望外の喜びだった。

 その金で、看取りをしてくれる施設へ入所できる。

 余命の少ない事よりも、目先の生活に対処できることのほうがずっとうれしかった。

 清美は、自分は幸福な人間だと思った。


 治療を受けている病院は、かかりつけの個人病院から紹介してもらった市立病院だった。

 治療後の長期入院はできない。

 療養型病棟を併設している病院を紹介してもらえないかと頼むと、二週間ほどして滋賀の病院を紹介してくれた。

 ふらつきがひどくて公共交通機関では無理なので、店の前までタクシーに来てもらって見に行った。

 初めからそこに決めるつもりだったが、山の上に建っている白亜の病棟を見た時は嬉しかった。

 病院はまだできたばかりで、大食堂から琵琶湖が見えた。

 申し分ない。

 最期をこんな幸福そうな清潔で明るい場所で送れることは、素晴らしいと思った。

 紹介状を渡すと、院長は清美の主治医の医学部の後輩だと自己紹介をした。

 身寄りがいない清美に、元気なうちに施設に入って慣れておいたほうが体調を崩した時にも平静でいられるだろう、と言ってくれた。

 最期まで看てくれて、担当の弁護士がいるので事後の始末まで頼めるという。

 その場で、仮契約して帰った。

 これからしなければならない事は多かったが、これが終われば死ねる安らかさがあった。 


 入所は六月の初めに決まった。

 陽翔は、動くのが大儀な清美の代わりに太郎の散歩に行き、買い物に行ってくれた。

 中学校に入って忙しいはずだった。

「まあ、こわいこと。

 あんな女のとこに、かいらしい男の子が行って」

と、近所の人が噂をした。

 陽翔の祖母が、近所付き合いのない人でよかった。

 「プロポーズされた仲やねんからな」

 清美は陽翔を見ながら、一人おかしかった。


 空虚な一生ではない。

 血縁ない清美の晩年を、こうして支えてくれる者がある。

 開け放した座敷から体に力を入れて頭をあげると、貰われていった時のために外で飼うようになった太郎が、お座りをして清美を見ている。

 「大丈夫ですか」というような顔である。 

 時々丸まって腹を噛んでいることがあるが、清美の視線に気づくと、緊張した面持ちで犬座姿勢に戻る。

 始めて外へ出した夜も、時々鎖を引いて歩く音がしたが、一晩中鳴かなかった。

 これなら陽翔の家へ行っても、すぐに馴染めそうだった。

  

 京都市の起業講座へ行っていたころ、謡を習ったことがある。

 同じ講座を受けている内科医が

「発声と身のこなしは謡と剣道に限ると言って、幼いころから習わされました」

といって、ハンドメイドのアクセサリーの店を開く美智さんと言う主婦と清美を謡の稽古に誘った。

「長く離れていましたが、この年になってまた始めました。

 女の子は仕舞だと言って、姉は謡と仕舞を習わせられましたよ」

と言って、老医師は微笑んだ。

 天下の産寧坂で店を開くのだからと意気込んで、謡曲講座に入ることにした。

 美智さんと二人で仕舞も習おうと話していたが、そのままになった。

 その頃は、よく観世会館へ能を見に行った。

 船弁慶は、派手でよく上演される演目である。

 清美は、源平の合戦に強く惹かれた。

 東寺の参道に、源氏の笹竜胆の白旗と平家の揚羽蝶紋の赤旗をセットにして売っている土産物屋があって、買って帰って姿見の前に飾っていた。

 赤旗と白旗を置いた姿見の前で、風呂からあがって化粧している清美を、勇が描いたことがあった。

 市立図書館で借りて平家物語の原文を読んだが、あまり文脈がつかめなかった。

 しかし、文章の勢いには圧倒された。

 壇ノ浦合戦で、最期だと見て取った平知盛は「見るべきほどの事は見つ」と言い残して入水する。

 その時、清美は「見るべきほどの事は見つ」とはどういう意味だろうと思った。

 「死んでも悔いがないほど、価値のあるものを見た」と言うのに、残して逝けるものとは何なのだろう。

 太郎の貌を見ていると、最期まで見てやれなかった済まなさでいっぱいになる。

 しかし、その目と目が遇う時、清美は「見るべきほどの事は見つ」と思った。

 今生の中で、自分に寄り添ってくれるものに会えた。

 犬は人間と目が合うと、幸せホルモンのオキシトシンが分泌される動物であるという。

 太郎が来てから、清美は眠りが深くなった。

 太郎と目が会うと、孤独が消えた。

 愛されている、という思いを初めて存分に感じられたのである。

 太郎は中型の雑種犬なので、近所の公園へ行っても可愛いとも言われなければお八つを貰えることもない。

 子どもには、いるだけで怖がられる。

 清美はいつも哀れに思った。 

 もっちりとした太郎の短毛の背中を感じながら背中合わせで眠る夜は、世の中に「back to back」で拳銃を構えている気分であった。

 清美にとって、生まれて初めての安らかな夜だった。

 太郎は、清美の今生の相棒である。

 その気持ちは陽翔に対しても同じで、お婆さんが亡くなった時には自分が学費や結婚に必要な面倒は見てやろうと考えていた。

 清美は、陽翔からも十分な物をもらったと思うからである。

 

 裏の坂道で車が止まる。

 タクシーが来たのだろう。

 さっき、陽翔と祖母が来て太郎を連れて行った。

 まだ角を曲がったばかりの頃なのに、細い雨が静かに降り始めていた。

 濡れるだろうな、と思った。

 老婆を支えるようにして歩いていく陽翔に連れられて、歩き出した太郎の茶色い大きな尻が目に残っていた。

 自分の残す少々の財産が、少年と老婆の生活にどれほどの足しになるだろう。

 太郎の大きな体に、充分な食べ物は与えられるだろうか。

 

 施設は西を山が覆っているので、夏は夜など肌寒いくらい涼しいという。 

 冬はボイラーを使ったセントラルヒーティングだというので、合服だけを持っていくことにした。

 ただ一人付き合った勇の好みもあったが、店に出るので和服が多かった。

 和服は今日着ていく一枚きりで、明日からは洋服にしようと思う。

 荷物は、楽にタクシーに乗った。


 軒の目高の子に心が残る。

 今朝も一匹卵から孵っていたが、後は陽翔に任せることにした。

 住宅の玄関の鍵を閉めて、茶封筒に入れてポストに入れた。

 四時に不動産屋が取りに来る。


 タクシーが走り出した。

 雨脚が強くなる。

 商店街の角の靴屋のところで、清美は乗っていたタクシーの後部座席のヘッドレストに両手を掛けて振り返った。

 文房具屋の横の細道を入ったところに、陽翔と老婆の暮らしている二階建てのアパートはあった。

 一階の右端が老婆と陽翔の部屋である。

 太郎は吠えないし、噛むこともないから、入り口の前の空き地で静かにいるだろう。

 嫌われることはない犬である。

 太郎のひょうきんな顔を思い出す。

 清美はヘッドレストに頭をつけて泣いた。

 太郎と別れた自分が哀れだった。


 盆祭りが近いというのに、今年は雨が多いので裏山の緑がかぶさるようで美しい。

 清美の白い顔は、窓にある今日の緑に映えて一層白い。

 二人の看護師は幅の細い白い布団を両側から持って、軽々と棺に納めた。

 地下の霊安室に運ばれて、朝になるのを待つ。

 九時に、裏山に向いた搬出専用の地下出口を出た。

 停まっていた葬儀社の車から高齢の黒いスーツ姿の男がおりる。

 後ろのドアを開け、レールのついた搬送台を引き出して、看護師が棺を積み込む。

 男は

「それではお預かりいたします」

と、丁重に頭を下げた。


 店の山から付いてきたようなホトトギスが、一声鳴いた。

 




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