風を撃つ者
季節がまた一歩、秋へと進んでいた。
シーズン最終カードの舞台は、東京ドーム。
武蔵タイタンズの本拠地であり、球界の盟主が構える“聖域”のような場所だ。
初戦。結果はまたしても4打数無安打。
(やっぱり……簡単に変わるもんやない)
村瀬浩は試合後のロッカーで、濡れた髪をタオルで拭きながら天井を見上げた。
もどかしさと、焦りと、自分への怒りが混ざった感情が、喉の奥に詰まっていた。
そんなとき、ふと浮かんだのは――新城の声だった。
「打てるかどうかやない。打つ“つもり”で立て」
(……振れ)
ノートにも、そう書いたじゃないか。
「今、ここで、振る」って。
何を迷ってる。
2戦目。村瀬は、打席に入った瞬間から迷いを捨てた。
狙うのは、甘く入った球。初球からでも振る。
結果、3打数2安打。
詰まりながらも振り切ったスイングがヒットを呼んだ。久々に塁上で手を叩くと、新城がニヤリと笑って親指を立てていた。
(……ようやく、“自分”を取り戻した)
気負わず、過信せず、ただ前を見て振る。
シーズン最終戦。スタンドには、どこか“終わり”の空気が漂っていた。
すでに優勝争いの行方は決し、順位も確定していた。だがこの日、満員に膨れ上がったスタンドには、不思議な熱が漂っていた。
タイタンズの黄金ルーキー・植原浩二が20勝をかけて登板するとあって、最終戦ながら異様な注目が集まっていたのだ。
「最後まで、勝ちにいく。それがプロや」
乃村監督の言葉が、ベンチで静かに響いた。
村瀬浩は、その試合に“2番・セカンド”で名を連ねていた。背中に背負った「22」が、白く輝いて見える。
あと1試合。けれど、村瀬にとっては、すべてのはじまり。
東京ドームの空気を、胸いっぱいに吸い込む。
(この風を……撃ち抜いてやる)
そして、静かにバットを握りしめた。
相手先発は、怪物ルーキー──植原浩二。150キロを超えるストレートに、落差のあるフォーク、そして驚異的な制球力。今季19勝。新人ながら投手四冠をほぼ手中にした球界の寵児だ。
未来では、日米で100勝100セーブ100ホールドを達成する伝説の男。
(やるしかない)
初回、1番打者が三球三振。
球場が静まり返る。
2番村瀬の第1打席、内野ゴロ。
3番も空振り三振。
あっという間に3者凡退。
4回裏。村瀬の第2打席。
カウント2-2。外角低め、150キロのフォーシーム。
振り抜いた打球は、一二塁間を破った。
(よし……!)
会心ではない。だが“振った”ことが結果を呼んだ。ベンチで迎える輪田の表情が、どこか誇らしげだった。
7回裏、第3打席。
今度は内角高めのストレートに反応。振り切った打球は、ライナーで左中間を抜けた。
ツーベース。
スタンドがどよめく。
(植原から……2本目)
この男から複数安打。それだけで、何かが起きそうな予感がした。
迎えた9回表。
0-0の同点、無死走者なし。
東京ドームの天井が、静かに村瀬を包んでいた。
先頭打者・村瀬浩。
打席に立つその背に、無数の視線が突き刺さる。
(決めろ)
ベンチから飛んだ輪田の声が、背中を押した。
バッテリーは、慎重に入るだろう。初球は様子見――そう考えるのが定石だ。
だが、村瀬は迷いなく決めていた。
初球から、振る。
セットポジションに入った植原。
静けさを切り裂くように、右腕が振り下ろされる。
内角寄り――150キロを超えるフォーシーム。
強い回転がかかった白球が、胸元をかすめるコースへ。
――振った。
体が反応した。
いや、魂が先に、バットを走らせた。
乾いた音が、ドーム全体に響き渡った。
打球は、グングンと角度をつけて、舞い上がる。
左翼の外野手が、一歩、二歩、三歩……そして立ち尽くした。
ボールは、赤い軌道を描いて、スタンドへ吸い込まれていった。
一閃。沈黙を裂く一撃。
ドームが、爆発した。
「うおおおおおお!!」
地鳴りのような歓声。
スタンドが揺れる。
手が叩かれ、旗が振られ、誰もが立ち上がって叫んでいる。
村瀬は、ただ無言で走っていた。
感情が、胸の奥からあふれ出す。
顔が熱い。目の奥が、焼けるようだった。
一塁、二塁、三塁、ホーム――
ベースを踏むたびに、心の中で何かが確かに変わっていく。
(やったんだ……)
気がつくと、頬には涙が伝っていた。
ベンチ前、真っ先に輪田が飛び出してくる。
「……やったな、浩!」
言葉は短くても、その手の強さにすべてが込められていた。
次々と駆け寄る仲間たち。
肩を叩かれ、拳をぶつけ、ヘルメットを外されて頭をぐしゃぐしゃにされる。
「最高や!」「マジで持ってるな!」「痺れたぞ22番!」
その中で、村瀬はようやく声を出した。
「……ありがとうございます」
震えていた。
でも、その震えは、恐れじゃない。歓喜だ。
「プロで戦っている」という実感が、ようやく血肉になった。
そして、マウンドに立ったのは関西ジャガーズのエース・矢吹。
最後の9回裏、相手打線を三者三振。
“風を撃ち抜いた男”の一発が、試合を決めた。
1対0。完封勝利。
植原の快進撃に土がついた瞬間だった。
敵将も、植原も、言葉を失っていた。
翌日のスポーツ紙には、こうあった。
「風穴をあけた一打」
「東京ドームを揺らした22番」
「植原に土をつけた男・村瀬浩」
わずか1本のホームラン。
だがそれは、シーズンの終わりに吹いた、風向きを変える一打だった。
村瀬浩の名前が、初めて“主語”として語られた日だった。
試合後、誰もいないベンチ裏の廊下。
村瀬は、自販機で買った缶コーヒーを片手に、バッグからノートを取り出した。
ノートには、未来の名投手たち、伝説の記録、打撃理論、トレーニングメニューがびっしり詰まっている。
だが今、その余白に、そっと書き足す。
「プロで生きるって、こういうことなんだな」
書いた文字を指先でなぞる。
心のどこかで、ようやく“今の人生”を受け入れられた気がした。
そして、ページをゆっくりと閉じる。
未来は、まだ白紙のまま。
けれどその白紙に、今日、確かな“線”が描かれた。
風を撃った。
自分のバットで、目の前の世界に風穴を開けた。
その一歩は、まぎれもなくここから始まったのだった。




