もうひとつのプロの現実
7月下旬。
オールスターが終わり、後半戦が再開されるタイミングだった。
ファームの全体練習後、丘田監督から呼ばれた村瀬浩は、思わず聞き返した。
「……一軍、ですか?」
「あぁ。帯同や。すぐに試合に出すって話ではないが……お前にはそろそろ“上”を見てきてもらいたい」
丘田はいつものように、淡々と語った。
「浩、お前が持ってる打撃の理論……ワシには全部は分からんが、結果としてそれを自分のモノにしつつあるんは事実や。ただな、理論だけで戦えるほど甘い世界でもない」
監督の目が鋭くなった。
「後半戦は遠征続きのロードや。暑さも疲労もピークになる。そんな中で選手たちがどんなコンディションで、どんな準備をして、どんな戦い方をしてるのか。“技術”以外のプロの現実を、自分の目で見てこい」
村瀬は、静かにうなずいた。
(今の自分が、どこまで通用するのか──)
わずか数か月前まで高校生だった少年が、いまプロの一軍と同じ空間に立つ。
胸の奥が、じわりと熱を帯びていた。
一軍に合流して最初に驚かされたのは、輪田の守備だった。
同じセカンドというポジション。構え、反応、足の運び、そして送球まで、一連の動作がまるで流れる水のように滑らかだった。
「守備って、もっと“間”があるもんやと思ってたけど……あの人、全部“先回り”で処理してる……」
さらに代打の矢木。
準備運動すら一切見せず、唐突に名前を呼ばれても、打席では“初球から勝負”の姿勢で打ち返す。
その集中力の鋭さ。ゾーンの入り方。
そして新城。
打撃でも走塁でも、守備でも常に全力。仲間を鼓舞し、記者の前では冗談交じりに笑いを取り、スタンドには手を振る。
(一軍って……技術ももちろんやけど、“立ち居振る舞い”からして違う)
浩は毎日、圧倒されながらもメモを取り、ノートに書き込んだ。
疲労が蓄積されていくなかでも、選手たちは“全部やる”。やらない理由を探さない。
「二軍では通用してたはずの技術が、一軍じゃ届かん……」
数試合、代打や代走でチャンスをもらった。
が、打席ではタイミングが合わず、力んで凡打。走塁でも牽制に釘付けにされた。
「くそっ……」
ある日の試合後。
ベンチ裏でバットを握ったままうずくまっている浩のもとへ、新城がやってきた。
「浩、顔。怖いぞ」
「……すみません。自分、チャンスもらってるのに……結果出せてなくて」
「いや、違う違う。野球の話ちゃう」
新城は少し口を尖らせて言った。
「お前さ、ファンの顔、見てるか?」
「……ファン、ですか?」
「あぁ。スタンドにおるやろ。あそこにサインボール持って手振ってる子ども、今日もずっとお前見てたぞ。……なのにお前、ずっとムスッとしてうつむいてたやろ」
浩は、返す言葉がなかった。
「俺らがプロとして野球でメシ食えてんのはな、実力ももちろんや。でもな、それを観に来てくれるファンがいるからなんよ」
新城の声には、真剣さがにじんでいた。
「応援ってのは、プレーに対してだけやない。笑顔でサインくれた、ちょっとだけ手を振ってくれた、テレビで楽しそうにベンチおった──そういう積み重ねや」
「今、お前は“期待のルーキー”として見られとる。注目されとるうちに、ちゃんとその目に応えろ。……顰めっ面ばっかしてたら、サインももらいにくいわ」
沈黙の中で、浩はようやく言葉を見つけた。
「……自分、たぶん、必死すぎて、見えてませんでした」
「そんだけ真面目にやっとるのは知っとる。けどな──プロの“総合力”は、グラウンドの外までや」
新城はそれだけ言うと、ひょいと笑って立ち去っていった。
浩はしばらく、その背中を黙って見つめていた。
その夜、ホテルのベッドの上で、浩はノートを開いた。
「打撃理論」ではない、新しいページ。
──「ファンに“観られている”という自覚」
──「記録より記憶。プレー以外でも、伝わるものがある」
──「笑顔でグラウンドに立つ。それもプロの仕事」
高校の頃、テレビで見て憧れたプロの世界。
一度目の人生で届かなかった場所に、いま自分は立っている。
(……楽しもう)
浩は、ゆっくりとペンを置いた。
「新城さん、野球やってメシ食えるって、幸せっすね」
次の日。練習後のベンチで何気なく口にすると、新城はおどけたように肩をすくめた。
「せやろ? お前も“幸せそうな顔”せぇよ、もっと」
夕陽が、スタンドを黄金色に染めていた。




