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はじまりの角度

4月初旬。開幕を迎えたイースタン・リーグ。

村瀬浩は、再びファームでの日々に身を置いていた。


一軍のオープン戦で見た“頂”。

その景色は、目標として確かに胸に刻まれた。

だが、だからといって二軍の投手が簡単に打てるわけではなかった。

打席に立てば立つほど、プロの厳しさを痛感する。


「浩、また詰まっとるな……。ヘッドが遅れとる。もう少し前で捉えられんか」


コーチがつぶやくように言う。

言葉にトゲはない。だが、その声の色に、少しずつ焦りが混じり始めていた。

本人もそれは痛いほど自覚していた。


(タイミングも悪ない。構えも崩れてへん。けど……芯を食われへん)


スイングの感触は悪くない。

だが、結果に結びつかない。

ミートの瞬間に“何か”がズレる。

少しの差が、プロでは明確にアウトへと繋がる。


ある夜。寮の自室。

村瀬は、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。


青いリングノート。表紙には「打撃ノート/MH」とだけ記されている。

MH──Murase Hiroshi。

彼が小学生の頃から書き綴ってきた、いわば“未来の野球理論”を書き殴ったノートだった。


ページをめくる。

どこか幼さの残る字で、しかし驚くほど鋭い視点で書かれた打撃理論の断片が並んでいる。


──「回転の始動は、後ろ足の内側から」

──「トップハンドで引っ張るのでなく、押し込みで飛ばす」

──「打球の初速は、打者の“地面の使い方”で決まる」

──「“軌道の重なり”が最重要」──


どれも、未来の名打者たちが実践していた、次世代の打撃メソッド。

この知識をヒントに自分なりに咀嚼し、甲子園の舞台で結果を出してきたのは間違いない。

だが──プロのスピード、プロの投手の球に触れてみて、あらためて痛感していた。


(結局、“理論”だけじゃ通用せえへん)


打席で必要なのは、“身体”で理解することだ。

そのためには、未来の知識を──今の身体、今のタイミング感覚に落とし込む“橋渡し”が必要だった。


そしていま。

丘田監督の「構えが前のめり」「腰が浮いとる」という指摘。

キャンプで繰り返したフォームの意識。

それらが、このノートの言葉とぴたりと重なっていく。


(……これや。この“ズレ”を埋めるために、今までの全部があったんや)


知識と、感覚。

過去と、いま。

“未来の理論”は、ようやく自分の中で「使える技術」になろうとしていた。


次の日の練習。

村瀬は、ティー打撃で構えを変えた。


重心をもう少しだけ下げ、後ろ足で地面を“つかむ”意識。

ステップは小さくし、手打ちにならないよう骨盤からバットを動かす。

上半身は「引っ張る」のではなく、「回転に遅れず乗る」だけ。


1球、2球──打球はまだ荒かった。

だが、10球、20球と繰り返すうちに、明らかに感触が変わっていく。


「浩、スイング……変えたな。芯で捉えとる回数、増えとるぞ」


「はい。ちょっと、自分なりに見直してみたんです」


丘田は、それ以上何も言わなかった。ただ、目を細めた。


試合ではすぐに結果は出なかった。

打率も2割前後で、ヒットと凡打が交互に出るような日々。


だが、村瀬には確かな「手応え」があった。


ある日の試合。

初回、1番打者が倒れ、2番・セカンドで出場した村瀬に打席が回る。

カウント1-1。相手の左腕は、緩急で翻弄する老獪なタイプ。


(タイミングずらしてくるな……待て。目線と体幹の軸、ブレるな)


踏み込まず、我慢。

次の瞬間、緩いカーブが内角に曲がりながら沈んできた。

村瀬は自然とバットを出した。

重心が軸足に残り、手ではなく腰からスイングが始動する。


「カシュッ!」


鈍い音だった。

だが、打球は鋭く二遊間を抜け、センター前へと転がった。


一塁ベース上で、村瀬は小さくガッツポーズを握った。


(やっと……見えてきた)


凡打の中にある、手応えの違い。

芯を食った感触と、押し込んだ打球の伸び。

それらが確かに増えてきていた。


(ここから、や)


数日後のフリーバッティング。

打球はライナーか、やや角度の低いフライが多い。

芯は捉えているのに、フェンス手前で失速する──そんな当たりが続いた。


浩は打席を外れ、バットのグリップを見つめながら呟く。


「……もう少し角度、つけられへんか?」


打球の初速は悪くない。体重も、回転も、ある程度使えてる。

けど、打球に「伸び」が足りない──。


「ただ強く振るんじゃない。角度をつける。

それが、小柄な打者が長打を打つための“もう一枚の鍵”なんや」


昔ノートに書き残したフレーズが、頭の中で蘇った。


部屋に戻ると、トレーニングノートを開いた。

未来の記憶をもとに、幼少期から書き溜めてきた“打撃の断片”たち。


ページの片隅に、小さな文字でこう記されている:


──「Launch Angle(打球角度)25〜35°で、Exit Velo(初速)を95mph以上」

──「ゴロより、ラインドライブか角度のあるフライが最も打点期待値が高い」

──「下半身の回転とヘッドの軌道を“ぶつける”ポイントがバレルゾーン」

──「“引っ張りフライ”を狙え。センター方向ではなく、やや左中間」


「……やっぱり、書いとるやん」


体の正面で捉えすぎてる今の打撃じゃ、角度がつきにくい。

もう少し打点を前に、インパクトの位置を“上げる”意識でスイングしてみよう──。


浩は、新たなページを開いて書き込む。


▼ 打球に角度をつけるための意識

・打点を体のやや前+やや上

・ヘッドを落とさず、レベルよりややアッパー軌道

・スイングの面を、ピッチトンネルと重ねる

・引っ張り気味の角度打ち → 左中間へのフライをイメージ

・回転軸を崩さず、フォロースルーまで振り切る

→ 地面反力+回転効率が“角度×スピード”を生む




翌日の試合。五回、無死一塁。カウント1-1。

内角高めにストレートが来ると読んでいた──。


浩は、トップをやや高めに取り、肘の角度を保ちながら、ボールの下半分を狙ってバットを出す。


(今までより少し前、少し上──ヘッドを返しすぎず、“面”を保て……!)


「カーン!」


打球は強い放物線を描いて、左中間へと伸びていく。

外野手が背走し、ジャンプ──届かない。

ワンバウンドでフェンス直撃のツーベース。


浩はベース上でガッツポーズ。

ベンチではコーチが驚いたように言う。


「おいおい……今の、ほんまにあいつか?」


ただ強く振るだけじゃ、もう通用しない。

打球に“意味のある角度”をつける。


ゴロじゃ超えられへん世界が、上にはある。

フライボール革命──それは、体格に関係なく、小さな打者が「結果」で勝つための、戦い方や。


(……この方向で、間違ってへん)


浩はノートをリュックにしまい、空を見上げた。

夕日が、左中間の空を赤く染めていた。

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