頂への一打席
3月初旬。春季キャンプを終えた村瀬浩は、すぐに実戦の場へと向かった。
教育リーグ──プロ1年目の若手や調整中の選手たちが、実戦を通じて技術を磨く舞台。レベルは一軍より落ちるとはいえ、高校とはまるで別世界だった。球速、回転、キレ、緩急……すべてが「生きた球」だった。
初戦。初めて対戦したプロ投手の直球は、140km台とは思えないほど手元で伸びてきた。フォームに無駄がなく、リリースの瞬間から打者の手元まで、一瞬でボールが届く。
(こんな球を芯で捉え続けなきゃ、プロじゃ食っていけへんのか……)
振っても、打球は詰まり気味。あるいは、わずかなズレで凡打。鋭い打球が飛ぶのは、ほんの数回。甲子園で豪快に放ったホームランの感覚とは、あまりに遠い。
「浩、構えがちょっとだけ前のめりになっとる。腰が浮いとるで。芯を捉えられへんのは、それが原因かもな」
ベンチ裏。試合後、丘田彰布監督が低い声で声をかける。
「フォーム、力入りすぎてるで。キャンプでのスイングの意識、そのまま試合でも出せるようになったら、打球の質、変わるはずや」
村瀬は黙ってうなずき、グラブを握りしめた。
少しずつ、自分の中で答えを探し始めた。キャンプで言われた基本を実戦でどう活かすか。ボールの軌道をどう見るか。芯を外せば凡打、かすれば空振り──だが、芯に当たれば、打球は今までとは明らかに違った。
ある日の試合。右腕から放たれた高めの速球に、村瀬のスイングがかみ合った。
「カーンッ!」
木製バット特有の芯を喰った快音がグラウンドに響いた。打球はライナーで左中間を割り、二塁打。
ベンチの丘田が、小さくうなずいていた。
(やっと……ひとつ)
一歩ずつだった。だが、確実に村瀬はプロの感覚に近づいていた。
そんなある日。丘田から、試合後に突然呼び止められた。
「浩、明日の一軍のオープン戦、行ってこい。一打席だけ、チャンスもらえそうや」
「え……!」
「いきなり通用せえとは言わん。けどな、いずれ超えなあかん壁や。最高峰の球、肌で感じてこい」
その目には、静かな信頼があった。
翌日──
舞台は相模スターズとのオープン戦。相手は、昨年の日本シリーズ覇者。9回裏、ジャガーズの攻撃。点差はついていたが、観客席はまだ熱気に満ちていた。
「代打、村瀬浩!」
場内アナウンスが響いた瞬間、球場がざわついた。
(……あれが、“大魔人”……)
マウンド上には、相模スターズの守護神・笹木主浩が立っていた。
190cm、100kg超の巨躯。
それだけで十分異様だが、笹木主浩には空間そのものを支配するような異質さがあった。
マウンドに立つだけで、空気が変わる。
打席に立てば、その圧に全身が晒され、息すらうまく吸えなかった。
セットポジションから、ゆっくりと足を上げたかと思えば──
初球、内角いっぱいの速球。
「……ッ!」
スイングが遅れ、見送るしかなかった。
(えぐ……これが154キロ? 伸びが……まるで浮き上がるようや)
2球目。
軌道はストレートのように見えた──が、バットを振りにいった瞬間、急激に沈んだ。
(フォークか……!)
読み違えた。村瀬のスイングは完全に外され、空を切った。
「ブォン……!」
空気を裂く鈍い音。力の入ったスイングは、何も捉えないまま通り過ぎた。
3球目。
(ストレートか、またフォークか……)
笹木の投球フォームはまったく崩れない。手元から放たれた球は、またもや直球のように見えた。
村瀬は、思い切って振った。
だが──ボールは再び沈んだ。
空振り三振。
村瀬はバットを握ったまま、しばらく立ち尽くした。
(……完全に読まれてた。あれが、今の現役最強クラスか)
それでも、不思議と心は沈まなかった。むしろ、胸の奥がじわりと熱くなる。
(絶対に、あの球を打てるようになったる)
村瀬はゆっくりとベンチへ戻る。
その姿を、一軍ベンチの隅から乃村克也監督がじっと見つめていた。
表情は変えずとも、ほんの一瞬だけ──その眉間が、わずかに緩んだ。
(……よし。ちゃんと感じとる。なら、あいつは伸びる)
試合終了後、村瀬はスタンドに腰かけたまま、しばらくグラウンドを見つめていた。
笹木主浩のストレート、フォーク、そのすべてが鮮明に頭に残っていた。
プロで生きていく。そのために、何が足りないのか。そのヒントは、あの3球にすべて詰まっていた。
そして翌日──
村瀬浩は再び、ファームでの戦いに身を投じる。
だがその胸には、“プロの頂点”とのたった一度の対決が、確かな目標として刻み込まれていた。




