その一球のために
【9回裏・2死ランナーなし】
スコアは、1-1。
甲子園全体が、静まり返っていた。
いや、正確には、そう"感じた"のだろう。
2アウト、誰も塁にいない――だが、誰もが知っていた。この男に回ったということが、何を意味するのかを。
バッターボックスに立つ、上方第一の3番・村瀬浩。
マウンドには、絶対的エース・松永大輔。
誰もが息を潜め、この一球を見守っていた。
最後の直球に、全てを込めてくる。
「かかってこい」
村瀬の目が、わずかに細まる。
身体は静かに構えたまま、心だけが燃えていた。
(立ち上がりの重心、切り返しのタイミング、手首の角度。)
(ストレートの軌道が、少しだけ沈んでる。あいつは――フォークと同じ軌道で入れてくる)
初球――ストレート。155km。
わかっていた。だからバットは出さない。
ボール1。
二球目、フォーク。
落ちる。だが振らない。見切る。
カウント2-0。
マウンドの松永が、舌打ちをするようにグラブを持ち直す。
誰より知っていたのだ。この打者が、ただの「打者」じゃないことを。
三球目。
アウトロー、真っすぐ。
力で捻じ伏せにくる――それでも、村瀬の眼は狂わない。
(ここや)
バットが、鋭く最短距離で出た。
肩の開きは最後まで殺し、インパクトの瞬間にだけ爆発させる。
芯で、完璧に捉えた。
バットとボールが、甲子園の空で火花を散らした。
「いけぇぇぇぇぇっ!!!」
打球は、一直線にバックスクリーンへ――
伸びる。
伸びる。
そして――突き刺さった。
バックスクリーン直撃。ホームラン。
甲子園が、地鳴りのように揺れた。
上方第一、サヨナラ勝ち。
世代最強の投手・松永大輔を打ち砕いた一撃は、誰にも打てなかった球を、誰にもできなかった方法で撃ち抜いたものだった。
村瀬は、ゆっくりとダイヤモンドを回る。
胸の奥で、何かが静かに燃え尽きる音がした。
拳は握らず、帽子も取らない。
ただ淡々と、ホームベースを踏みしめた。




