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あの日に帰る朝

朝、目が覚めた瞬間から、重たい雲に心まで押しつぶされそうだった。

窓の外は薄曇り。雨は降っていないのに、空気はじっとりと湿っていて、肌にまとわりつくような不快感が抜けない。


シャツを着る手が自然と遅くなる。

気乗りしない。別に嫌なことがあるわけじゃない。ただ、何もしたくないだけ。

こんな天気の日は、仕事も人付き合いも、全部スキップして布団に潜り込んでいたくなる。


玄関のドアを開けた瞬間、むわっとした生温かい空気が顔を包んだ。

一歩踏み出すたびに、湿ったアスファルトの匂いが鼻にまとわりつく。

傘を持たずに出てきたが、遠くの空にはすでに薄い雨雲がたまっていて、いつ降り出してもおかしくない。


歩道の端に咲く紫陽花が、やけに鮮やかだ。

水分をたっぷり含んだ花びらが、どこか無防備に咲き乱れている。

それを見ても特に感動はなく、ただ「咲いてるな」とぼんやり思うだけだった。


足元を見ながら、重たい足取りで駅へ向かう。誰もが無言で歩き、すれ違う人の表情も曇天のように冴えない。

どこか虚ろな表情をしたスーツ姿の中年が、スマホ片手に足早に歩いていく。


俺もその一人だ。

何年も、いや、何十年も同じような朝を繰り返してきたような気がする。

イヤホンを耳に差し込んでみるが、流れてくる曲さえも今日は妙に遠く感じる。



会社のデスクは整理整頓されている。

PCを立ち上がれば、未読メールがズラリと並ぶ。

それを眺めながらコーヒーを啜るのが日課だった。

やりがいのない仕事じゃない。

だけど、心が動かされることは、もうずいぶん昔からなくなっていた。


たまに思い出す。

あの頃の、自分。


小学2年生の夏。

祖父に連れられ、初めて行った甲子園。

炎天下のスタンドで飲んだ、かちわり氷の冷たさ。

泥だらけのユニフォームで全力疾走する高校球児たちを見て、子供の自分はただただ「カッコいい」と思った。


野球がやりたかった。

でも、塾に行けと言われた。

「野球はプロでも一握りしか食っていけない」と、母は言った。

「勉強ができるなら、勉強しろ」と、父は言った。


それが正解だったのだと思う。

関西ではそこそこ名前の通った大学の附属中学に入り、そこから高校、大学とエスカレーターで進学。

世は就職氷河期と呼ばれる厳しい時代であったが、なんとか中堅の金融機関に就職ができた。

大きな失敗もなく、堅実に、真面目に、歩いてきたつもりだ。

だが、ふとした瞬間、胸の奥が痛む。

“こんなはずじゃなかった”――そんな声が、ずっと心のどこかで囁いていた。


気づけば四十代半ば。

家庭はない。昇進の見込みも薄い。

健康診断では血圧を指摘され、夜はアルコールでごまかす日々。


「やり直せるなら俺は……」


そんな夢みたいなことを、ふと思った夜だった。



その朝は、何かが違っていた。


目を覚ますといつも見慣れた白いクロスの天井ではなく、何かが違っていた。


(昔、寝ていた二段ベッドの天井はこんな感じだったなぁ……)


息が止まった。


小さな手。細い腕。視界に映るのは、幼かったはずの自分の姿。


「……マジかよ」


まるでテレビドラマのような光景だった。

だが、夢ではなかった。指をつねれば痛いし、朝食の匂いがちゃんとした。


もう一度、人生をやり直せるのか?

この手で野球を掴み取れるのか?

プロ野球選手を、目指せるのか?


心臓の鼓動が止まらない。


この時から、俺の“二度目の人生”が始まった。

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