おでかけ
朝食を終えた後、俺はアースと一緒に部屋で過ごしていた。
スーさんとエイトさんは、どうやら仕事で外にある施設へ向かったらしい。
研究とか、道具屋の仕入れとか、そういう類のものだろう。
「……さて、遊ぶって言ってもなぁ」
正直、何をしたらいいのか皆目見当がつかない。
俺は家族に遊んでもらうようなことはあった気がするのだが、いかんせん何も覚えていない。
アースはと言えば、彼女の部屋で椅子にちょこんと座り、くりくりした青い瞳で難しそうな分厚い本を読んでいた。
小さな手で器用にページをめくるその様子は、まるで絵本の中の妖精みたいだ。
……どうしたもんか。
俺は軽く伸びをしながら、ぼんやりと天井を見上げた。
すると。
「……ぬっ」
――天井から、ヴァナの顔がにゅっと突き出ていた。
「……」
もう驚かない。驚きたくもない。
というか、やめてくれ、そういう登場。
俺を変顔で覗き込むその視線は、どこか期待に満ちていたが、なにせ顔面の出方がホラーである。
せっかくの神秘的美少女なのに、なんという無駄遣いだ……。
「つれないのう、お主。そうじゃ、暇なら、この辺を案内してもらったらどうじゃ?」
「……案内?」
「そうじゃ。お主はこの世界について何も知らぬ。
ならばアースと一緒に町を歩いて、世界を感じるのじゃ。よき経験になるぞ。
それに、アースと仲良くなれば恋愛戦闘力でお主は強くなれる」
その提案に、俺は自然とうなずいていた。
確かに。
ここで暮らしていくなら、この町のことを知っておくのは必要不可欠だ。
アースと一緒なら、いい時間にもなるだろうし――。
よし、アースに聞いてみるか。
「なあ、アース。……俺に、あの丘の下の町を案内してくれないか?」
そう声をかけると、アースは一瞬きょとんとして、読んでいた本をそっと閉じた。
その小さな手の動きは慎重で、まるで本に謝っているかのようだった。
彼女はおずおずと俺の方を見て、少しだけ躊躇いがちに唇を開く。
「……え、えっと……私、町には……あまり降りたことがなくて……」
か細い声。けれど、ちゃんとこちらの言葉を受け取ろうとしてくれているのがわかる。
「そうなんだ。……じゃあ、さ」
俺は微笑みながら、彼女の視線に合わせて身をかがめる。
「一緒に行ってみないか? きっといい経験になると思うし。俺も、案内っていうより……一緒に町を 見てみたいだけだから」
「でも、私って怖がられるし……」
「大丈夫、俺がいるからさ。それに、君が危ない目には逢わないようにするさ」
その言葉に、アースはほんの少しだけ目を見開き――そして、こくんと静かにうなずいた。
彼女の透明な角が、陽の光を受けてきらりと揺れた。
----
丘を下り、町へと足を踏み入れた瞬間――思わず息を呑んだ。
広がっていたのは、丘の森を背に突如現れる、レンガ造りの美しい街並み。
森の中の素朴な小屋が立ち並ぶ村しか知らなかった俺にとって、それはまるで絵本の中から切り取られたような、異国の風景だった。
建物は整然と並び、オレンジ色の屋根が陽光に照らされてあたたかく輝いている。
秩序ある街路と、整った美しさ――そう、まるでヨーロッパの古都のようだ。
石畳の道を、俺とアースは並んで歩く。
両脇には飲食店や雑貨屋がぽつぽつと軒を連ね、人々の声や笑い声が柔らかく響いていた。
露店もちらほらとあるようだ。
この世界にも、こうして“日常”があるのだと実感できるほどに、町は活気に満ちていた。
「……人、多いな」
「う、うん……」
人混みに少し緊張している様子のアースが、俺の袖をきゅっと握る。
そんな彼女を見て、俺はふっと笑って、手を差し出した。
「……はぐれたら危ないし、手、繋ごう」
一瞬だけ驚いたように瞬きをしたアースだったが、そっと小さな手を重ねてくれた。
その指先はあたたかくて、やわらかくて――
なんだか、不思議と心が落ち着いた。
石畳の道を歩いていると、道行く人々がちらちらと俺たちを見てくる。
その視線には、興味半分、警戒半分といった雰囲気が混じっていた。
おそらく、アースの存在のせいだろう。
赤い髪に透明な角――この町では珍しいどころか、忌避されているという話だった。
……いや、もしかすると俺もその理由の一部かもしれない。
この世界、少なくともこの町には“白い肌”の人間ばかりが目立つ。
そんな中、黒人の血を引いた俺の肌は、やや褐色がかっている。
明らかに“異質”として浮いているのは、自覚していた。
「よお、坊ちゃん、嬢ちゃん! ちょいと見てってくんな」
急に声をかけられて顔を上げると、陽気そうな露店のおじさんがにこにこしながら手を振っていた。
「丘の上のスーさんとこのだろ? いいモンそろってるから、よろしく頼むよ!」
「あ……どうも」
懐は寒いが、せっかくの声かけを無視するのも気が引けて、俺はその露店を覗き込んだ。
だが――
「……なんだこれ」
並んでいるのは、何やらよくわからない代物ばかり。
不思議な宝石が無数に埋め込まれた杖、脚が10本もある不気味な虫の標本、
さらには奇妙にねじれた赤い骨……。
それぞれには、この世界の言葉で何かしらの名前が書かれているが、俺にはさっぱり読めない。
いや、文字は読めるのに、意味がわからない。専門用語的な何かだろうか。
そういえば文字が読めたり話せたりするのはヴァナの力なんだよな。
「ねぇ、これ……何なんだろうな?」
俺がそう呟いてアースに問いかけると、彼女は目をきらきらさせながら、じーっとそれらを見つめていた。
「わぁ……これ、たぶん“相転移虫”の標本だよ。すごい、初めて見た……!」
「相転移……虫?」
「うん、魔道生物の一種で、触媒として使うと空間をちょっとだけ曲げられるんだって。
でも飼うのがすごく大変で、滅多に流通しないって聞いてたのに……」
彼女の声はいつになく興奮気味で、まるで学者が珍しい資料を前にした時のようだった。
「お、お嬢ちゃん……!」
露店のおじさんが、思わず声を裏返らせて驚きの表情を浮かべる。
「さすが、高名な研究者スーさんの娘さんだ。目利きが違うねぇ!
どうだい、この“相転移虫”、金貨1枚で譲ってやろう!」
……金貨1枚。
相場は分からないけど、それが安いとは到底思えない。
第一、俺はこの世界で一銭たりとも持っていない。懐の風通しはすこぶる快適だ。
だからこそ――
「わ、分かった。買います!」
「えっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
見ると、アースはポーチを取り出し、中から金貨を一枚取り出しておじさんに手渡していた。
その動きがあまりにも自然で、なんだかこっちが焦る。
「アース、お金……持ってたのか?」
「う、うん……。町に行った時のためにって、お父さんがくれるの」
そう言って、ちょっと照れくさそうに笑うアース。
「でも結構高そうじゃないか?」
「ずっと使わずに貯めてたら、けっこう貯まってて……だから、大丈夫だよ」
そう言って、アースは宝物を扱うように、買った標本をそっとポーチにしまい込んだ。
その動作ひとつひとつに、嬉しさが滲み出ている。
「こういうのって、いつもはお父さんが買ってきてくれてたの。
でも……自分で選んで、自分で買えるのって、すっごく嬉しいんだね」
はにかんだように笑いながら、アースは俺の手をきゅっと握った。
「もっといろいろ見てみたい! 早く行こっ!」
さっきまでの控えめな表情が嘘のように、目をきらきらさせて引っ張ってくる。
その小さな背中からは、冒険へのわくわくが全開で伝わってきた。
……何だよ、けっこうしっかりしてるじゃないか。
俺は心の中で苦笑しながら、彼女に引かれるまま足を踏み出した。
こうして俺たちは――まだ見ぬ、異世界の“日常”へと足を踏み入れていった。
[恋愛戦闘力 600]