プロローグ
俺は自分を落ち着かせようと、深く息を吸って吐き出した。
その瞬間、風に乗って流れてきた、鼻腔にこびりつく濃厚な匂いが胸を満たす。
土と植物、硝煙、焼けた肉、血とはらわた、そして死体の垂れ流す糞尿――それらが入り混じった、戦場の匂いだった。
腕と脚を負傷し、出血もひどい。だが、この強烈な臭気がかえって気つけ薬になった。
計画されていた作戦は失敗だった。
暫定境界線を支配するための、火の嵐作戦と呼ばれたそれは、完全に破綻した。
俺たち奇襲部隊の動きは完全に読まれており、敵の待ち伏せに遭った。
火の中に飛び込んだ虫のように、俺たちは潰され、殺され、焼かれた。
村の中で、友や家族を殺すことで覚悟を示し、「選抜」された仲間の子どもたち――同じ飯を食った連中は、たぶん全滅しただろう。
だが正直、俺は彼らを仲間だとは思っていなかった。どうでもいい話だ。
元々、俺には友はいないし、家族も「選抜」する前に殺されていた。
消去法でエン族の部隊に入っただけ。一族とか同胞とか、そんなものに興味はない。
ましてやこのアフリカの内陸部で起きた大戦の行く末などどうでも良かった。
なぜ人々が戦っているか何て分からない。
ただ生き延びるために、戦ってきたにすぎない。
戦って、ただ無感情に人を殺してきただけだ。
少し前まで、そう思っていた。俺を庇って死んだ仲間が現れるまでは。
なぜ彼は俺を庇ったのだろう。
彼は庇われた俺を見て、驚いたような顔をして死んでいった。
なぜ彼は驚いたような顔をしていたんだろう。
その理由が分かるまで、俺は死ねない気がする。
「まだ生き残りがいるはずだ!探して捕まえろ!」
そう思案する時間はあまりないようで、脚を負傷し、まともに動けない俺を、敵が追ってきている。
考える前に動かないと死ぬ。
何とか生き残るために、痛む足で態勢を低くし草木に隠れながら移動する。
しばらくすると、大きな木が目の前に現れた。
それは、とても大きく、根本には空洞がある。
人一人が余裕に入れる空洞だ。
俺はここに隠れてやり過ごすことを決意した。今は体を休め、失血を止めることが重要だからだ。
黒い静寂が鎮座する穴の中にゆっくりと体を滑り込ませる。
地面から1mは落差があるその穴は、予想以上に奥行きがあるようだ。
敵に見つからないよう、慎重に暗闇の中を奥へと進む。
一歩、また一歩。奥へと、さらに奥へと。いや、やけに長くないか?
どこまで続いているのか見当もつかない闇は、突如、まばゆい光に塗り替えられた。
同時に、体がふわりと浮かぶような強烈な浮遊感が俺を包み込む――。
----
気が付くと、俺は苔が繁茂する場所に寝そべっていた。
洞穴に穴でもあって落ちてしまったのだろうか。
上を見上げれば、天井の隙間から微かな光が差し込んでいて、それが苔の緑を淡く照らしていた。
――綺麗だ。
ふと、視界の奥で、ひときわ明るく輝くものが目に入る。
それは、緑色の小さな双葉。まるで自らが光を放っているかのように、静かにそこに芽吹いていた。
俺はその幻想的な光景に、ただぼんやりと目を奪われた。
……なんだか、頭がふわふわする。
まるで引き寄せられるように、俺は手足を使ってその双葉へと這い寄っていった。
そして、そっと触れる――。
その瞬間。
ぱぁっと、周囲が緑色の光で満ちた。
光はやわらかく、あたたかく、まるで優しい何かに包まれるような感覚だった。
体が、心が、すっと軽くなっていく。
そうだ、俺はずっとこんな場所に居たかったんだ。それを思い出す。
そして、空間の中心でひときわ強く光がきらめいた。
そこに、どこか異世界めいた複雑な図形が浮かび上がり――
俺の意識は、ゆっくりと、光の中へと沈んでいった。