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端切れドールのメリ

 なんの前触れもなく、その女性はふっと現れた。

そしてそのことに、だれより当人が驚いている。戸惑ったまなざしで恋人を見つめ、不思議がっている。

恋人だった男性は、その出現を予感していたのか、驚きを跳び越え、恐れおののいている。


 女性は、静かに問いかける。その姿がなんとも美しい。輝くブロンドの髪、愛らしい目鼻立ち。アイボリーホワイトのシャツブラウスはシルクの光沢を放ち、完璧な蜂の胴を引き立てている。


 恋人だった男性が、なにか答えた。なんと言ったのか、わたしにはわからない。音声がごく小さく絞ってある上に、唇を読もうにも、ふたりは外国語で話しているので皆目わからない。それなのに、日本語の字幕スーパーは出ない。わたしはただ、ふたりの仕草と表情を追って、微かな変化を読み取るしかない。


 それでも、きょうの映画のこの場面に、わたしは魅了された。終わったばかりなのに、すぐにまた見たくなった。ブロンドの彼女が恋人に、なんと問いかけたのか知りたかった。


 なんとなくわかったような気はするけど、本当にそうだったのか確かめたい。始めからじゃなくても、ラストの十分間だけでいい、あの場面をもう一度観たい。ほんの少し、戻してほしいと切に願う。


 けれども珠恵さんはテレビ画面をチラと見たきり、デスクワークに余念がなく、ちっとも気づいてくれない。忙しい珠恵さんのランチタイムは毎日不規則で、予測不能だった。

だからDVDの再生は六時間おき一日四回、自動的に始まるようセットされてあった。中身は決まって少し古めの外国映画だ。

 ついさっき、正午から始まった映画のラスト十分間をもう一度観たくて、わたしは待つ。珠恵さんのデスクワークが終わるときを、じっと待っている。

 

 わたしはなにもすることがない。というか、できることがなにもないのだ。ときどき部屋の中を歩きまわる。開かない小さな窓から外の景色を眺める。見える景色の大部分は、一階にあるエルマートの電飾看板だ。


 けれども今日は歩道の隅の花壇に、開き始めたアジサイの花が見えた。青紫と白のコントラストが陽ざしに映えて美しい。もっと大きく育って、わたしがいる三階の開かない窓の近くで咲いてほしいと、もう一度切に願う。


 ここは旧商店街の末端が、市道に突き当たる交差点だった。寂れかけた街並みの果てだけど、朝夕と昼時はそこそこ大勢の人とクルマが行き交い、エルマートにも立ち寄ってゆく。


 わたしがいる三階の開かない小さな窓から歩道を見下ろしていると、店に出入りする人々を数えることもできた。でも、立ち止まってわたしがいる三階の開かない小さな窓を見上げた人は、いまのところ一人もいなかった。


 ヒマつぶしのために、長テーブルの上に置かれた珠恵さんの裁縫道具や、作りかけの人形たちに見入ったりもする。けれど、わたしはどれひとつも手に取ることはできない。


 開かない小さな窓と向き合う壁に取り付けられた、古めの外国映画ばかりを映し出す大きなテレビが、いまのわたしの世界、そのほとんど全てだった。だからって、不平を言うつもりはない。十六歳になるまで住んだ家に、こんな大きなテレビはなかった。だから、どちらかと言えばわるくないのだ。


 わたしの家だった団地のリビングには、たくさんのモノがあって少なくない家族がいた。そんな場所にさほど大きくないテレビが置かれ、一日中点けっぱなしで大きすぎる音声を放っていた。


 その音声に負けまいとするように、怒鳴り合う家族の話し声がやかましかった。しょうがないと半分諦めつつ、うるさくて堪らなかった。いつかはもっと静かな家に住みたい。わたしは密かに願っていた。


 そうしたらわたしはいま、ここにいる。静かすぎるくらい静かなこの部屋に、ひとりでいる破目になった。これってなにかの報いだろうか。いけない子だったわたしを懲らしめようと、どこかのだれかの意思が働き、こうなったのか。


 一体わたしのなにが、そんなにいけなかったのだろう。考え始めると、どうしようもなく悲しくなってしまう。だからもう、そのことを考えるのはやめにした。


 ときどきは団地のリビングと、そこにあった古い箱型のテレビを思い出す。でも、それだけのことだ。もう一度帰りたいと願うほど、そこが懐かしい場所だったとは言えない。なぜかと問われたら、答えに詰まる。


 父さんと母さん、兄たちと弟たち。広くもない団地の家にそれだけの家族がひしめいていたのだ、もともとわたしの居場所なんて、そこにはないも同然だった。


 いまとなっては、あまりにも遠すぎる場所になった。帰れるなんて思えない。帰りたいと願ってみても全然ムリ。そんな気がしている。

そうして、わかったのだ。

 わたしが帰れる場所なんて、もうどこにもない。


『お願いだから、メリちゃんはここにいてね』


 珠恵さんがそう言ってくれたとき、わたしの居場所はここになった。ずいぶん昔のことのような気がするけど、数えてみたらたったの十三年と、数か月前のことだった。


『ああ、どうしよう、メリちゃん。ごめんね、ゆるしてね…』


 珠恵さんは息絶えたばかりのわたしの身体を抱きしめ、必死に揺すったり撫で擦ったりを繰り返し、呼び戻そうとしてくれた。悲痛なあの声が、いまも耳に残っている。わたしの身はとうの昔に、無に帰したはずなのに。固く抱きしめられた感触が、背中や二の腕や頬にくっきりと残って、一向に消え去らないのだ。


 だからわたしはいまも、珠恵さんの言いつけに従っている。どんなに寂しくても、退屈で堪らなくてもここにいる。開かない小さな窓がひとつあるきりの、三階の部屋。

わたしはここから出られない。


 珠恵さんが生み出す可愛らしい人形たちの衣装は、あり合わせの端切れで作られた。あり合わせの端切れ。それは、着られなくなってしまった珠恵さんの昔の洋服のことだ。


 なぜって珠恵さんの胸囲と胴囲と腹囲には、年々等しく着々とお肉が積み重なっている。一昨年より去年、去年よりも今年と、お肉の層は年輪を重ねるにつれて厚みを増している。着られなくなった洋服の供給が途絶えるおそれは、まずないのだ。


 人形たちのチャーミングな顔と胴体を作るためには、端切れのほかに真綿とシルク生地が必要だった。まっさらで汚れのない、ふわふわの真綿とシルク生地。それだけは節約せずに、珠恵さんはネット通販で新品を取り寄せた。いまもテーブルの上には、新しく届いたばかりの真綿とシルク生地がふわりと鎮座していた。


 珠恵さんの指先は、そこだけ別の生き物のように、素早くなめらかに動いた。適量つまみ取った真綿を掌で丸め、ベージュ色のシルク生地でくるりと包み込む。細い縫い針を刺しては引き、ひたすら繰り返して真綿とシルク生地を馴染ませる。


 針先がステップを踏むように踊り、進むにつれてシルク生地と真綿の玉は、人の顔らしさを備えてゆく。何度も見た工程だけど、やっぱり見事なその手際に、わたしはすっかり見惚れてしまう。


 珠恵さんの手が止まり、真綿の玉と針をテーブルに置いた。ペットボトルのキャップをひねり、ミルクティーをひとくち飲んだ。それからポンっと音立てて、甘納豆パンの袋を開く。控えめにひとくち齧り取ると、ゆっくり咀嚼を始めた。


 珠恵さんのランチは毎日同じ、ミルクティーと甘納豆パンだ。散らからないし手も汚れないのがいいと、問わず語りにつぶやいたけど、わたしの見たところ、珠恵さんは甘納豆パンがかなり好きなのだった。


 でも。

 わたしは甘納豆パンが嫌いだった。初対面の珠恵さんがそれを差し出してくれたとき、きっぱりと断った。

 キライだから要りません。ミルクティーも同じだった。ただのミルクのほうが好きと、正直に告げた。


 あらま。

 珠恵さんは目を丸くした。メリちゃんて、ずいぶんとキッパリしてる人なのね。驚き呆れたような口調だった。嫌われてしまったかなと、そのときは思った。たかが甘納豆パンとミルクティーだ。食べるつもりがなくても貰っておけばよかったかと、小さな悔いが心に残った。


 でもね。

 珠恵さんはにっこり微笑んでつぶやいた。あの子はきっとメリちゃんのそういうところが好きなのね、自分とは全然違ってキッパリしてるところが。


 キッパリしているわたしと違うあの子って、エルくんのことだ。家がエルマートだからエルくんと、子どもの頃からみんなにそう呼ばれてきたらしい。エルくんには、何かにつけてキッパリしないところがたしかにあった。それでも、珠恵さんにとってはだれより可愛い、大事なひとり息子だった。


 あれから後も、珠恵さんはわたしがいるこの部屋でミルクティーと甘納豆パンのランチを食べた。この十三年と数か月、ほぼ毎日そうしてきた。

わたしはもうとっくに、食べ物を必要としない存在になった。だから、気を遣わなくてもいいのに。そう思ったら珠恵さんはひとり言のようにつぶやいた。


『だからってメリちゃんの好きなたまごサンドかなんかを、目の前で私だけむしゃむしゃ食べるなんてこと、できやしないでしょ』


 せっせと甘納豆パンを咀嚼する珠恵さんの目は、黄色いディレクターズチェアに向いている。それは珠恵さんがわたしのために、ネット通販で買ってくれたものだ。うんと明るくて可愛らしい色がいいわね。そう言って選んでくれた黄色いディレクターズチェアは、わたしの居場所として小さな窓のそばに置かれてあった。


 わたしはいまも、そこに座っている。珠恵さんは黄色い座面のほんの微かなたわみを見つめて、確かめるようにささやいた。


「ねえメリちゃん、そこにいるよね?」


〈いるよ。いつもとおんなじ。わたしはここにすわっている〉


 わたしの声が聴こえたのか、珠恵さんは納得したように三回ほど頷き、再び手もとに目を落とした。その間も両手は休みなく動き続け、新しい端切れドールの姿を仕上げてゆく。ブロンドの髪を模した金色の糸。アイボリーホワイトの端切れは、立ち襟のシャツブラウスの形になってゆく。


 今度の端切れドールは紛れもなく、あの映画の中の女優の姿を写している。けれどもどことなく、あの映画のひとよりメルヘンチックな可愛らしさが感じられた。


〈さっきの映画に出てた女優みたい。だけど、なんかちがうね〉


「そうよ、もっと可愛いでしょ?だって、この子はメリちゃんだもの。あの女優みたいな服を着せてあげたの、似合ってるよね?」


 満足そうにつぶやきながら珠恵さんは、出来立ての真新しい端切れドールをテーブルに並べた。数えきれないほど大勢の端切れドールたちが並んだ、列の末尾に。


 お姫様ふうだったりアイドルっぽかったり、色とりどりの衣装をつけた数多のドールたち。一体として、同じ衣装を着けた子はいない。同様に一体として、顔に造作のある子もいない。わずかに顔らしい輪郭と凹凸が、見て取れるだけだ。


 これらの端切れドールたちは全部わたしだと、珠恵さんは言った。ああそうなんだ。わたしは思う。実感はないままに、ドールたちの行列の先端に目を向ける。そして、見つけ出した。


 少し色褪せてくすんだ紺色のブレザー。赤色が消えかかったチェックのマフラーとスカート。伸ばしかけていた黒い髪。これこそが本当のわたし、端切れのコスプレを着せられる前のわたしの姿だ。すっかり古ぼけてしまったけど、まだこうして無事に残っていた。そのことに、なんだかホッとする。そして、やっぱりなんかうれしい。


 きょうの珠恵さんは、どこか様子が違っていた。いつもならせかせかと忙しそうにミルクティーを飲み干し、一時間より短く休憩を切り上げ、行ってしまうのに。きょうはやけにペースダウンして、その上落ち着かない様子なのだ。


 ミルクティーはまだ、ボトルに半分近くも残っている。珠恵さんはそれを、ときどき思い出したように口にするが、ちっとも美味しそうではなかった。ぼんやりとして心ここにあらずの様子は、いつもの珠恵さんらしくないこと甚だしい。少し気になったけど、わたしはまず自分のリクエストをささやきかけた。


〈あのね。さっきの映画をもう一度観たいの、いますぐに〉


 すると、わたしの声が聴こえたはずなのに、珠恵さんの手は素早く動いてデッキからDVDを取り出した。わたしの願いとは真逆に、ディスクをケースに収めてパチンと音高く閉じた。まるで、もう開かないと宣言したようだ。


〈やだ、仕舞っちゃったの〉

 落胆するわたしに言い聞かせるように、珠恵さんは語り始めた。


「最後の場面に出て来た、死んだ彼女が言ったこと、知りたいんでしょ『どうして殺したの?』って訊いたのよ。だけど訊かれた彼氏はびびってしまって、ちゃんと答えてないわ。言えなかったのか言いたくなかったのか、まあ、両方なんでしょうね。


 男なんて、大概そんなもんなのよ。何回観ても字幕を読んでも同じ、マシな答えなんかどこにもないの。ごめんね、メリちゃん。持ってくるビデオを間違えちゃったわ、てっきりコメディだと思ったのよ」



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