ラヴィスは婚約者が気に食わない
ラヴィスには幼い頃からの婚約者がいる。この国の第一王子であり、王太子でもあるクログレルがラヴィスの婚約者だ。
クログレルがラヴィスと婚約したのは、ラヴィスが公爵家の娘であり、他に選択肢がなかったからである。否応なしに結ばれた婚約であるため、二人の仲はお世辞にも良いとは言えないものだった。
ラヴィスとクログレルが現在通っている王立学園では、平民から王族まで幅広い学生が学んでいる。三ヶ月前この王立学園に、アリエナという男爵令嬢が転入してきた。
アリエナは小柄で大変可愛らしい見た目をしていた。それこそ男性が思わず目で追ってしまう程に。例にもれずクログレルも、いつの間にかアリエナに目を奪われるようになっていた。
いくら仲が良くないといえども、婚約者が他の女に目を奪われるのは、全くもって面白くない。
王太子相手に盾突く気にはなれずに、ラヴィスはアリエナを王立学園から追い出そうと考えた。追い出す方法は簡単だ。アリエナに嫌がらせをして、王立学園にいたくないと思わせれば良い。
ラヴィスは同じ派閥に属する令嬢達に、協力を求めることにした。まず声をかけたのは、親友と言っても過言ではない令嬢だったのだが……。
「アリエナ……。あの子はちょっと……止めておいた方が……」
逃げ腰での何とも歯切れの悪い物言いだった。
その後もラヴィスが他の令嬢に同じ話をしても、丁寧なお断りの言葉ばかりが返って来た。こう断られてばかりでは仕方がない。ラヴィスは協力してくれる人がいないのなら、自らの手を汚すしかないと悟った。
それから三週間後、王宮ではラヴィスとクログレルによる定例のお茶会が開かれていた。月一回開かれるお茶会は、二人が婚約して以降欠かされたことはない。それでも二人の仲は全く縮まらないのだから、効果の程は考え物だ。
王宮の庭園内に設けられた席で、ラヴィスとクログレルは丸テーブルを挟んで向かい合って座っていた。この場を借りて、ラヴィスはどうしてもクログレルに言いたいことがあった。
「アリエナ男爵令嬢のことでお話がございます」
「そうか、君も気付いてしまったか」
クログレルが重々しく言い、ラヴィスはつられて重々しく頷いた。続けてラヴィスは本題に入ろうとしたが、それより先にクログレルが口を開いた。
「彼女はとてもミステリアスだろう?」
「ミステリアスどころか、ホラーに片足突っ込んでいますわ!」
本気で言っているのかと、ラヴィスは思わず、王太子相手に勢いよく突っ込んでいた。今まで一度もやったことがないことだったが、突っ込まずにはいられなかった。
我に返ったラヴィスは、冷静さを欠いていたことを小さな咳払いで誤魔化した。心を落ち着けるために紅茶を一口飲んでから、ラヴィスはこの三週間の出来事を思い返した。
ラヴィスが最初に思いついた嫌がらせは、アリエナの教科書を隠してしまうことだった。ラヴィスとアリエナは同じクラスであり、アリエナが教室にいない隙を狙えば良いだけなので、嫌がらせ初心者のラヴィスでも実行しやすい嫌がらせだ。
ラヴィスが狙ったのは外国語の教科書。外国語の授業では、よく指名されて教科書を読まされるので、アリエナは困るに決まっている、はずだった。
外国語の授業開始前、ラヴィスがアリエナの様子を観察していると、アリエナは自分の教科書が無いことに気が付いたようだった。だが、慌てる様子はまるで無い。隣の人に教科書を見せてもらうように頼むこともなく、悠然と構えている。何か思っていたのと違わないかと、ラヴィスは思った。
授業が始まり少しして、教師がアリエナに教科書を読むように促した。思った通りになったと、ラヴィスは心の中でほくそ笑んでいた。
この授業の教師は意地が悪いことで有名だ。教科書が無いこと分かったうえで、アリエナを指名している。ラヴィスが外国語の教科書を隠したのは、これが理由でもあった。
「教科書が無いようだが?」
底意地悪い教師に半笑いで聞かれても、アリエナの顔色は変わらなかった。
「確かに教科書はありませんが、何も問題はありません」
続けてアリエナは、淀みなく教科書の内容を暗唱しだした。一言一句間違いなく。より正確に言うならば、途中にある誤字を正確に指摘したうえで一言一句間違いなく。
教室内の全員が呆気に取られたのは、言うまでもない。その中でも一番呆気にとられていたのは、ラヴィスだ。その後の授業は全く頭に入ってこずに終わった。
授業が終わってから、ラヴィスは頭を抱えた。アリエナを困らせるはずが、全く困らせられなかった。というか、困るとか困らないとか、そういう問題ではなかった。なにあれ、意味が分からない。
教科書の件は失敗だ。切り替えていくしかないと、ラヴィスは新たな嫌がらせを考え始めた。
次にラヴィスが実行したのは、アリエナを空き教室に閉じ込めてしまうことだった。
ある日の昼休み、ラヴィスは送り主が分からないように手紙を書き、アリエナを空き教室に呼び出した。アリエナが呼び出された空き教室に入ったところを見計らい、ラヴィスはすぐにドアを閉めた。
ラヴィスはアリエナの警戒心の無さをあざ笑いながら、手早くドアに幾重にも鍵をかけた。ドアの向こうのアリエナは、慌てず騒がず大人しくしている。
アリエナを閉じ込める密室は簡単に完成した。アリエナはこのまま授業には出られず、誰にも気付いてもらえなければ王立学園から帰ることも出来ない。良い仕事をしたと、歩き去るラヴィスの口元には笑みが浮かんでいた。
教室に戻ったラヴィスは、なぜか強烈な違和感を覚えた。違和感の原因を探して教室内を見渡せば、アリエナの席に誰かがいる。誰かというか、アリエナ本人がそこにはいた。
ラヴィスの驚きを無視して、何事もなく授業は始まる。もちろんラヴィスは授業どころではなかった。
その日の放課後、ラヴィスはアリエナを閉じ込めたはずの空き教室を訪れた。きっちり閉まっている空き教室のドアを目の当たりにして、ラヴィスはしばらく天井を見上げていた。天井に小さな染みを見つけたところで、ふと妙案が浮かんだ。
もしかしたら、アリエナは窓から部屋の外に出たのかもしれない。窓から出たのなら、アリエナは校舎の外壁を足場無しに高速でよじ登ったことになるのだが、それについて今は考えないでおく。
ラヴィスは急いで鍵を開けて、空き教室の中へと入った。空き教室の中は、以前ラヴィスが確認した時と何も変わっていない。そう、何も。部屋の窓は中からしっかり施錠されていた。
「今日の夕焼けは美しいわね」
ラヴィスは腕を組み窓の外を見て、しばらく黄昏た。
ラヴィスはこの他にもアリエナに嫌がらせを繰り返したが、ことごとく失敗に終わった。薄々何かがおかしいとは気付き始めている。だが、負けを認めたくないラヴィスは、引くに引けなくもなっていた。
なりふり構わなくなったラヴィスは、アリエナを階段から突き落とすことに決めた。王立学園の校舎中央には吹き抜けがあり、そこには大階段もある。突き落とすなら、ここ以外にはありえない。
さすがにここまですれば、アリエナとて何かしらの被害を受けるだろう。無傷で済むはずがないとラヴィスは思っていた。
タイミングをうかがうこと数日、ラヴィスはアリエナが大階段を降りようとしているところに遭遇した。周りに目撃者は誰もいない。
今がチャンスだと、ラヴィスはアリエナの背中を勢いよく押そうとした。足音を消して背後から忍び寄り、アリエナの背中に触れようとした瞬間、アリエナは突然一歩横に移動した。たかが一歩、されど一歩だ。ラヴィスが押そうとした場所に、アリエナの背中はもう無い。アリエナは実に無駄のない必要最小限の動きで、ラヴィスを避けた形になっていた。
ただならぬ勢いをつけていたラヴィスは、標的を失ったことで大きくバランスを崩した。このままでは大階段を転がり落ちてしまう。ラヴィスは大怪我を覚悟した。ところが。
「お怪我はありませんか?」
ラヴィスはいつのまにか片腕を腰に回されて、アリエナに支えられていた。ラヴィスを心配するアリエナからは、余裕さえ感じられる。危なげなくラヴィスを立たせたアリエナは、ラヴィスに気を付けるように笑顔で伝えてからその場を後にした。
可愛らしい見た目に反してスマートすぎる行動。アリエナのあまりのギャップに、ラヴィスはちょっときゅんとした。きゅんとしてから、いや違うと正気に戻った。
この階段の件がお茶会前日の出来事であり、この日ラヴィスの心は完全に折れた。
アリエナに対する嫌がらせは諦めるしかなかったが、クログレルがアリエナに目を奪われ続ける現状を放っておきたくはない。だからクログレルにアリエナについて訴えようとしたのだが、まさかのミステリアス発言である。しかもボケとかではなく、素でミステリアスと言ったらしい。
自分の婚約者がまさかこんな人間だったのかと心のどこかで思いつつ、ラヴィスはアリエナに嫌がらせしていたことを、さすがに堂々と白状はできなかった。何と言えば良いかとラヴィスが口籠っていると。
「その様子だと、君と彼女の間で何かあったようだな。言いにくいことなら無理に言わなくてもいいさ」
クログレルが空気の読める男だったことに、ラヴィスは心から感謝した。
「はい、色々とありましたわ。彼女は王国の希望とも脅威ともなりうる存在でございますわね」
ラヴィスはミステリアスで済ませて良いとは思えないのだが、ミステリアスで済まされていることを鑑みるに、現状アリエナに危険性は全くないらしい。
アリエナの常識外れぶりを知ってしまった今となっては、クログレルがついつい目で追ってしまうのも頷ける。ラヴィスが声をかけた令嬢達の微妙な反応にも、納得するばかりだった。というか、なぜこの異常な存在を、ラヴィスは今まで気にも留めていなかったのか。
「君と彼女は同じクラスで、僕よりも接点がある。良ければなのだが、何かあったら僕に教えてもらえないだろうか?」
「分かりましたわ」
ラヴィスは二つ返事で了承した。あり得ない光景を目撃したら、きっと誰かに話を聞いてもらいたくなるだろう。クログレルの提案は、ラヴィスにとって願ったり叶ったりだった。
この日を境にラヴィスとクログレルの間では、定例のお茶会以外にもお茶会が開かれるようになった。どこかぎこちなかった二人の会話は、アリエナという共通の話題ができ、ラヴィスにとって苦痛ではなくなっていった。
二人は次第にアリエナのこと以外も話すようになり、お茶会でのラヴィスの笑顔は格段に増えていた。クログレルとのお茶会の前日は、なかなか寝付けなくなるほどの心境の変化だった。
また更なる進展もあった。二人きりで初めてのデートに行ったのだ。アリエナがよく通っている店に試しに行ってみようというものだったが、ラヴィスは純粋にデートを楽しんだ。
こうしてラヴィスは今まで知ろうともしてこなかったクログレルのことを、色々と知った。ラヴィスとの関係がこのままでは駄目だとずっと思っていたことを。眉間にしわが寄っていることが多くても、思慮深く優しさに溢れていることを。カマキリに対して異常な敵意を抱いていることを。真面目な顔をして、時々天然ボケなことを言うことを。硬派な見た目に反して、以外と甘党なことも。
今のラヴィスは間違いなくクログレルに恋している。あんなにどうでも良かったのが嘘のように、ラヴィスの周囲の令嬢達はラヴィスから惚気話ばかり聞かされるようになった。
そういうわけで、ラヴィスはきっかけをくれたアリエナに感謝している。だが、アリエナと深く関わり合いになりたいかと問われれば、答えはもちろん否である。