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境界線で君を待つ  作者: 柏井猫好
5章

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あたしのいる場所

『いきなりごめん。話したいことがあるんだけど』


 帰りの電車の中で、慶にメッセージを送った。既読が付くまで、そわそわして、何度もスマホを確認してしまう。

 落ち着かない様子の朋を見て、和枝とまな美はニヤニヤしていたが、特に何も言ってこなかった。揶揄われたら素直になれなかったと思うので、ありがたい。


 最寄り駅で二人と別れ、自転車置き場に向かっていると、鞄の中でスマホが震えた。慌てて引っ張りだすと、慶から返信がきていた。


『わかった。家に来る? 俺がそっち行く?』


 朋が帰宅途中であることを伝えると、自宅前で落ち合って、そのまま近所の公園に行くことになった。

 自転車で走行しながらも、様々な考えが頭の中を駆け巡る。


 こんな中途半端な気持ちをぶつけて、いいのだろうか。慶が望むような関係は、多分、今の自分では与えてあげることができない。それでいいのだろうか。辛くても、自由にしてあげることが、慶のためではないのか。


 ――いや、違う。


 朋の気持ちを聞いた上で、どうしたいか決めるのは慶だ。その決断は慶のものであり、慶が責任を負う。朋が慶に代わって決断したり、責任を負うことではない。

 朋にできるのは、今の自分の正直な気持ちと状況、そして、今後どうありたいかを説明すること。

 お互いの気持ちを確認したうえで、どこまで歩み寄れるか話し合うことはできる。けれど、どちらか一方に犠牲を強いたりしてはならない。


 ――もう、境界線は越えない。



 家に到着すると、慶はすでに、ヘイグランド家の門の前に立っていた。自転車の音にこちらを振り返り、朋を見つけると、軽く手を振った。


「わり、待たせた」

「いや、今出てきたところ」

「そ、そっか。んじゃ、まあ、行こうぜ」


 久しぶりに挨拶以外の言葉を交わすので、妙に緊張してしまう。ぎくしゃくしながら自転車を礒狩家の門の中へ駐め、歩き出した。慶の顔を見ることができない。

 少し先の幹線道路の騒音がかき消されるほど、心音が煩い。二人とも無言で歩いて、家の近くの公園に来た。 


 どちらからともなく、ブランコに腰掛ける。

 沈黙が気まずい。どう話を切り出したものかと考えて、まずは当たり障りのない話題を口にする。


「あー……、今日、何してたんだ?」

「……安達先輩の家に連れていかれた……」

「えっ!? お前たちいつの間にそんなに仲良くなったんだ!?」


 新学期が始まってからも、安達は相変わらず慶に会いに来てはいたが、休日に会う仲だとは思わなかった。天変地異の前触れだろうか。おまけに、あれだけ覚えようとしなかった先輩の名前も口にしている。


「……最近、やたらと構ってくるんだ、あの人」

「そうなのか……」

「本当はバスケやろうって誘われたんだけど、断ったら、何故か家に行くことに……」

「そりゃ……、濃厚な一日だったな」

「ん」


 俯きがちな慶の横顔は、心なしかげっそりしているように見える。

 再び、二人の間に沈黙が訪れる。

(がんばれあたし、勇気を出せ)

 気持ちを落ち着かせようと深呼吸すると、慶がぽつりと呟いた。


「朋は、今日、何してたの?」

「え? ああ、あたしは、和枝とまな美とお台場まで買い物に行ってた」

「そう……。楽しかった?」

「楽しかったよ。夜景が、すごく綺麗で」

「うん」

「――めちゃくちゃ、慶に会いたくなった」


 あれほど躊躇っていた言葉が、いとも簡単に滑り落ちた。目線を足元に落としていたので見えなかったが、慶がこちらを向く気配がした。


「俺に……?」

 慶の声は、戸惑いと歓喜の色が濃い。

 目線を落としたまま、朋は頷いた。

「綺麗な夜景を見た時、慶がいないのは、寂しかった」

「うん……」

「……避けてたのはあたしなのに、ずっと、寂しかったよ、慶」

「うん、俺も、寂しかった……」


 少し冷えた夜風が前髪を揺らす。穏やかな慶の声に、鼻の奥がつんとした。

「ごめん、ごめんな。待たせて、ごめん」

 じわりと視界が歪んで、声が震える。


 慶が立ち上がる気配がして、数秒後、視界いっぱいに慶の身体が映った。

 ぽろぽろと溢れ出てくる涙を、慶の大きくて骨ばった指が拭ってくれる。怖いなんて、微塵も思わなかった。


「……ごめん、急に触れて。嫌だった?」

 見上げると、慶の大きな手は、不安そう胸元のシャツを握っていた。朋は首を振る。

「お前の手、硬いけど、温かくて安心する」

「そう……?」


 鼻を啜ると、慶のほのかな匂いが鼻孔をくすぐった。

「うん、慶の匂いも、ほっとするし……」


 慶は面食らったように目を瞬いた。その反応に顔が熱くなる。

 どうも、言わなくていいことを言ってしまったらしい。思わず顔を背けた。


「わ、悪い。ちょっと変態っぽかったな。今の、なしで」

「大丈夫。嬉しい」

「へ?」

「……何でもない。続けて?」


 朋は立ち上がって、慶の手を引いた。ベンチへ誘うと、並んで腰を下ろす。

 じっと見上げる慶の双眸には、期待と不安をごちゃ混ぜにしたものが浮かんでいた。


「あたしな、昔から、自分が女だって言われても、しっくりこなくて、女らしくしろって言われると、違和感しかなくてさ。でも、色んな人から話を聞いて、分ったんだ。あたし、自分の性別は、男でも女でもないと思う」


 慶の顔には何の表情も浮かんでいない。ただ、続きを促すように無言で頷いた。

「慶は、あたしの事が好きだと言ってくれたけど、あたしが女でなくてもいいのか? こんな中途半端なあたしだけど、それでもいいのか?」


 慶は言葉を探すように、しばらく目を伏せていたが、目線を上げると、真摯な眼差しで朋の瞳を覗き込んだ。


「俺は、朋が朋であれば、それでいい」

「慶……」


 知らずに強張っていた肩の力が抜けた。

 以前から、慶は「朋は朋らしくいればいい」と言ってくれていたのだ。だからこそ、慶に自分の性自認を打ち明けても、拒絶しないでくれるという信頼と確信があった。

 胸いっぱいに、温かいものが溢れていく。


 ――ああ、やはり、慶がいい。

 これから先も、共に歩んでいくのは、慶以外に考えられない。


「……流石に、性転換して、髭面のゴリゴリマッチョになられたら戸惑うと思うけど」

「自分が男だとも思ってないから、今のところ、性転換する予定はねえよ」

「分かった。今までの朋と変わらないなら、俺の気持ちも変わらないよ」

「そうか……」

「……それが、今日話したかったこと?」

「……それもあるんだけど、ここからが本題だな」


 朋は体ごと、慶へ向き直った。膝同士が触れ合うが、そのまま言葉を続ける。

「あたし、これからも、お前といたいんだよ。慶と一緒にいると安心するし、毎日の何気ないことも、特別な日の思い出も、慶と分かち合いたい。他の誰でもない、慶がいいんだ。でも、この感情を何て呼べばいいか、自分でも正直、分からない」


 自分から、慶の手に触れた。そっと力を込めて握ると、彼は一瞬、ピクリと反応したが、おずおずと朋の手を握り返してくれる。

 緊張で、握り込んだ手が震える。慶の表情を見るのが怖くて、俯きがちになり、紡ぐ言葉は早口になった。


「それに、あたしは未だに、キ、キスとか、それ以上のことに対して、嫌悪感がある。トラウマを克服してからでないと、あたしに性欲自体、あるかわからない。慶の気持ちを知ってて言うのは、すごく卑怯なのかもしれないけど、それでも構わないって、慶が本当に思えるんだったら――」


 意を決して、慶の薄茶色の瞳を覗き込んだ。


「――あたしと、これからも、一緒にいてくれないか?」


 大きく見開かれた慶の目はしかし、すぐに柔らかく細められた。

「言ったでしょ? 何も変わらない。俺は、今までも、これからも、朋が好きだって。俺は、朋と一緒にいたい」

「あたしも、慶といたいよ」


 慶は幸せを噛み締めるように表情を綻ばせ、朋に握られていない方の腕を広げて、ねだるように首を傾げた。

「ハグしたい。……嫌?」

 掠れた声が耳をくすぐった。

「――嫌じゃないよ」


 そっと背中に手を添えられ、慶の広い胸に顔を押し付ける形で抱き寄せられた。

 ドクドクと響くのは、慶の鼓動なのか、それとも、自分のものなのか。

 息を吸い込むと、嗅ぎ慣れた慶の匂いがした。包まれるような安心感に、全身から力が抜ける。


 ――ああ、ここが、自分のいる場所だ。


 大きな背中に両腕を回して、抱きついた。


「だだいま、慶」

「おかえり、朋」

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