怒り
2学期が始まってから、朋と慶が一緒に登校することはなかった。
学校に着いてからも、ぎこちなく挨拶を交わす程度で積極的に交流しない二人を見て、周囲はざわついた。
「ヘイグランド君とあの子、別れたらしいよ」
「マジで!? チャンスじゃない?」
「え、でも、最初から二人は付き合ってなかったって聞いたけど?」
教室や廊下でひそひそと話す女子生徒たちの声は朋に筒抜けだったが、いちいち反応するのも億劫なので、放置した。
「ねえ、慶君と喧嘩でもしたの?」
昼休み、弁当を食べていると、少し離れた席に座って男友達と一緒にいる慶を横目で見ながら、和枝が小声で訊いてきた。
「いや、喧嘩……っていうか、まあ、ちょっと」
「二人でも喧嘩するんだねえ!」
まな美は目を丸くしていたが、朋の反応から、あまり触れられたくないと気付いたのか、それ以上は追及してこなかった。
しかし、二人の微妙な雰囲気がしばらく続くと、クラス全体が、何となく腫れ物に触るように二人に接してくるようになった。実に居心地の悪い思いをしているが、それは慶も同じだろう。申し訳なく思うが、今は恵瑠と話したことについて、色々考える方を優先したかった。
調べたところ、トラウマやPTSDの可能性がある場合は、精神科か心療内科を受診するのがいいらしい。一部の治療法の中にはトラウマの原因となった出来事を思い出したり、状況を想像したりすることもある、との記載を読んだ朋は、不安と忌避感に苛まれた。
専門家が診断して、必要だと思う治療法を試すことになるのだから、大丈夫なはずだ。それに、朋のケースにその治療法は適さないと判断される可能性もある。不安をぬぐうために、深呼吸して己に言い聞かせる。
それでもやはり、恐怖心が頭をもたげた。
正直、あの日のことを鮮明に思い出してまで、治療に取り組みたいだろうかとも考えた。しかし、そのたびに、慶に言われた言葉を思い出した。
『朋はこれからも、人口の半分いる男に怯えてながら暮らしていくの?』
本当に、その通りだと思う。今の自分は、健全とは言い難い状態なのだろう。
もやもやと悩み続けたある日、学校からひとりで帰る道すがら、視界の端に、あの廃屋があった場所へ続く道が目に入った。過去と向き合うことを考えていたからだろうか、いつもは意識的に避けている道は、やけにその存在を主張してくる。
――あの道をずっと行くと、あの廃屋がある。いや、あった。
不意に足が止まる。
「おいで」と招くように、道沿いに植えらえている木の葉が風に揺れた。
まだ残暑が厳しいというのに、背筋に冷たい汗が流れる。
どくどくと心臓が跳ね、呼吸が浅くなるのに、その道から目を逸らせない。
夏の熱気を残した風が耳朶を霞める。その感覚が、あの男の吐息を思い起こさせる。
弾かれるように道から顔を背け、逃げるようにその場を走り去った。
自宅まで無我夢中で走り、息を切らせながら自分の部屋へ飛び込んで、その場にしゃがみ込んだ。
――あの日、忘れ物を取りに帰らなければ。あの道を通っていなければ。男の話に耳を貸さず、走り去っていれば。もっと力いっぱい抵抗できていたら。
何度も何度も考えて、ハッとした。一体何故、自分に非があったように感じているんだろう。
(あたしは、悪くないはずなのに……)
己の欲望を制御せず、抵抗できない弱者をそのはけ口にしようとしたのも、朋の意志に反して廃屋に引きずり込んだのも、あの男ではないか。責められるべきは、罰せられるべきは加害者であるあのけだもののはずなのに。
何故自分が無力だった己を嘆き、こんなにも怯えて暮らさなくてはいけないのか、心穏やかな未来を諦めなくてはいけないのか――。
そう思った瞬間、怒りで目の前が真っ赤になった。奥歯を強く噛み締め、拳を握る。
あのけだものに、同じ苦しみを与えてやりたい。ずたずたに引き裂いてやりたい。
――殺してやりたい――!!
激情は熱い血潮と共に身体を巡り、思考はどんどん過激になる。
――許せない、許せない、許せない!!
狂おしいほどの怒りは、激流となって心に押し寄せ、原動力となって留まった。
(あたしは、自分を取り戻してみせる。絶対に、絶対に……!)
慶が言ったように、自分から望まなくては、誰も助けてはくれないのだ。解放されたいのなら、朋が自分から、助けを求めなくてはならないのだ。
小学三年生の朋は、今もあの場所で泣いている。そこから連れ出してやれるのは、正義の味方でも、誰でもなく、自分なのだ。そう、強く自分に言い聞かせる。
深い溜息を吐くと、体から力が抜けた。知らない間に頬を濡らしていた涙を拭う。
――卑劣な悪意に、屈しない。必ず前に進んでみせる。
もう自分は、非力なだけの子供ではないのだから。




