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境界線で君を待つ  作者: 柏井猫好
4章

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32/57

懐かれまして

「さあ、見てくれ礒狩(さがかり)さん! これがバスケのバイブルだ!」


 期末テストも終わり、じめじめした空気の中、暑苦しい笑い声が教室に木霊する。すでに7月だというのに、一向に梅雨が明ける気配がない。ここ数年は梅雨が明けた途端に厳しい暑さがやってくるので、もうすぐ夏休みだというのに、「酷暑」の二文字が浮かれた気持ちに水を差す。


 朋は顔を引き攣らせながら、目の前に差し出された紙袋を受け取った。中には以前安達が熱弁をふるっていた、国民的バスケットボール漫画が入っていた。


「あ、ありがとうございます……?」

「夏休みに家でじっくり読んでくれ! 今日持ってきたのは半分だから、読み終わったら残りも貸すからな。少年漫画は嫌いじゃないよな?」

「は、はあ。兄貴がいるんで、少年漫画は読みます」

「俺のお勧めは、このシーンで……」

 巨大な体を屈めて、パラパラとページを捲る安達から視線を逸らし、朋は虚無の目で天井を仰いだ。


 一体、どうしてこんなに安達に懐かれたのだろう。特に興味を持たれるような話はしていないはずだ。


 体育祭のリレーの練習で安達と一緒になったのはほんの数回だが、ここ最近では慶を勧誘するついでに何故か朋を呼び出し、バスケットボールの話をしてくる。いつの間にか彼の中で、朋は「バスケ大好き仲間」になっていたらしい。どこをどう解釈したらその結論に至るのか。誠に遺憾である。


「あ~! うち、この漫画の、主人公のライバル好き! めっちゃイケメンですよね!」

 トイレから帰って来たまな美が、ハンカチで手をふきながら安達の手元を覗き込む。思わぬ援軍に、朋はホッと息を漏らした。安達も小柄でかわいい女子とおしゃべりした方が嬉しかろう。ついでに、まな美といい感じにでもなってくれれば一石二鳥だ。


「女子はそういうタイプが好きだよな! 俺の妹もこいつを推してた」

「イケメンと猫は、いくらいてもいいんで!!」

 まな美は爛々と目を輝かせながら、名言とも迷言ともつかないことを言っている。別のキャラクターを指さし、「こっちも捨てがたいんですけどね」と真剣に悩みだした。


(今が逃げるチャンスだな……)


 そっとその場を離れようとすると、すぐさま安達の声に捕まった。

「礒狩さんはどういう男がタイプなんだ?」

「えっ? この漫画の中で誰がいいか、ってことですか?」

「いや、別にこの漫画に限らず、どんなやつに興味があるのかと思って」

「うちも知りたい!」

「えええぇぇぇ……」


 何故そんなどうでもいいことが知りたいのだろう。好きなタイプなんて、そもそも考えたことがない。人に恋愛感情を抱いたことがないので、自分がどういう人に惹かれるのか、見当もつかない。

 困って視線を彷徨わせると、自分の席に座っている慶と目が合った。口がへの字に曲がっている。相当機嫌が悪いらしい。


「ねね、どんな人がいいの?」

 まな美に腕を引かれ、振り返る。仕方なしに呟いた。

「さあ、マジで分からねえ。恋愛に興味ねえし……」

「まあ、慶君ほどのイケメンが毎日隣にいると、その辺の男子がじゃがいもみたいに見えるもんね」

「いや、そんなことねえけど……。じゃがいもってお前、何気に酷いな……」

「じゃがいもか! これは手厳しいな!」

 白い歯を見せながら大声で安達が笑った。


「うちはねぇ、イケメンで、優しくって、力持ちで、うちのこと大好きな人がタイプ!」

「力持ち? マッチョってことか?」

「マッチョは嫌だけど、うちのことお姫様抱っこできるくらいの人がいい!」

 きゃあと恥ずかしそうに顔を両手で覆って悶えている。


 体育祭の時に安達に救護テントまで運ばれた記憶が鮮明に蘇って、恥ずかしさに顔が熱くなる。朋にとっては黒歴史でも、やはりまな美にとっては憧れのシチュエーションのようだ。できることなら、まな美とあの時の記憶を交換したい。

 安達にとっては特別な思い出ではなかったようで、特に「お姫様抱っこ」に対する反応はない。もしかしたら、すでに忘れているのかもしれない。むしろ、忘れていることを願う。


「じゃあ、礒狩さんどんなタイプが苦手なんだ?」

「男女問わず、高圧的な人は苦手です」

 苦手なタイプなら、迷うことはなく即答できる。内情を知りもしないくせに、頭ごなしに決めつけて怒鳴ってくるような人間は苦手である。


「高圧的な人か。なるほどな」

「先輩はどういう人がタイプなんですか?」

 まな美の質問に、安達は少し考えるように左上を見た。

「そうだなあ。思ってることをハッキリ言ってくれる人かな。何も言わなくても察してほしいってタイプは苦手だ」

「ええ~、そうなんですか? でも、うちは彼氏にはある程度察してほしいかも」

「だから何も言われなくても、相手の望みを察して行動できる男はモテるんだろうな。俺は気が利くタイプじゃないから」


 ははは、と笑った安達の視線が、ふと朋の右肩に止まった。あれ、と呟いて、彼の大きな手が朋へと伸ばされる。


 血管の浮いた骨ばった手が視界に入った途端、首の後ろに鳥肌が立った。垣間見えた安達の「男」の部分に身を竦める。 


「すまん、驚かせるつもりはなかったんだが。糸くずが付いてた」

 安達の手が肩に触れたのはほんの一瞬で、摘まんだ糸くずを持ち上げて見せてくる。八の字になった眉毛が大型犬を連想させた。


 ざわざわした胸の内を落ち着けつように数回深呼吸して表情を取り繕う。

「いえ、あたしの方こそ、すみません。取ってくれてありがとうございま」

 言い終わらないうちに、後ろから腕を引かれた。驚いて振り返ると、凍てつくような目をした慶が立っていた。朋を引き寄せると、そっと自分の背後に押しやる。


「……もう午後の授業始まるんで」


 地の底を這うような低い声で言い放つと、慶は朋を引きずるようにして席へと歩きだした。朋は慌てて安達を振り返った。

「えっと、漫画ありがとうございました」

「おう、またな!」

 ひらひら手を振って、安達は廊下へ出て行った。


 席に着くと、慶はそっと朋の腕を離した。長い睫毛が伏せられて薄茶色の瞳が半分隠れているが、そこにははっきりと苛立ちが浮かんでいる。硬く引き結んだ口は、時折ぴくぴく痙攣しているようにも見えた。何が気に障ったのかと問おうとした時、5時間目の担当教師が入ってきたので、諦めた。

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