6話-3 欲と行為のすれ違い
過去編3話くらい伸びそう‥‥‥すいません
感想とか酷評とかよろしくお願いします。
4人乗りの白い乗用車の後部座席では、真紀奈がこんこんと眠っている。時折、寝言らしき声が聞こえた。
俺は助手席に座って、運転をしている守一さんと話をしていた。
「一心くん、今日は楽しかったかい?」
「はい。とても」
考える間も置かずに即答していた。彼女と過ごす時間は、とても楽しかった。
「真紀奈が何か失礼を働いたとかは、ないか。私の自慢の娘だからね!」
守一さんは豪快に笑う。いつも通り、溺愛してしまうほどに娘のことが大好きな守一さんだ。
「そうですね。真紀奈に服も選んでもらって、むしろこっちの方が迷惑かけちゃいましたよ」
「え?真紀奈が、一心くんに?」
ギョッとした顔で彼はこちらを向いてくる。
「今運転中ですから前見てくださいよ!?真紀奈が乗ってるんですから」
「なあに、問題ない問題ない。だいじょうブイ」
今度はピースサインを作った。本当にマイペースな人だ。
「だから手ェ離さないでくださいってば。次のとこ右に曲がるんですよね!?」
眼前には蛇のようなカーブが見えていた。このまま直進すると海へと真っ逆さまだが、守一さんはこちらを見ながら片手でハンドルを操作して軌道をしっかりと曲げる。すごいとは思うが、恐怖心はないのだろうか。
「まあ、こんな具合だ。慣れてるからこれくらいはできるとも」
「万が一とか考えないんですか」
かもしれない運転をしなさいというのはやりすぎだと思うが、事故る可能性くらいは考えておくべきじゃないかなあ。
「考えているさ。考えたうえで行動を取っているのなら、心配はいらないだろう?」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだ。まあ、こういう風に誤解を招くこともあるからオススメはしないけれどね」
「真紀奈にはやらないでおきます」
「うん。そうしてくれると私も助かる」
前を向き直すと、自動車の照明が不健康なほどに明るい色の光を放っていたので、目を瞑ってやり過ごす。繰り返しのこの4日間、音や光に敏感になっている気がする。
「眠いなら寝ていいよ」
「大丈夫です。なんか最近、やけにライトが眩しくて」
「寝不足かい?」
「寝れてはいるんですけど、疲れが全然取れなくて。あ、体調は大丈夫ですよ」
最近、というより戻ってからはそんな感じだ。あの野郎は心労とか言っていたが、まあ間違いじゃない。俺のメンタルはそんなに弱いのかと思うと少しショックになるのだから、やっぱり弱いんだろう。
「何かストレスになることでもあったのかい?真紀奈とケンカとか」
「ないですよ」
喧嘩したことなど、一度しかない。それも一年以上前のことだ。
「だろうなあ。君たちほんとに仲良いし。いやあ、こんないい子が真紀奈に居てくれるんなら私は安心だよ」
そう言って、彼は静かに笑う。対向車線を走るバイクのライトで、その笑顔が照らされる。
返す言葉に困って、何も出てこない。
褒められるのには、あまり慣れていないのだ。上から目線の慰めは散々浴びせられたから、彼の言葉が嘘偽りない物であることはわかる。
だからこそ、この言葉が似合わないようなものに感じてしまう自分が憎い。
これも心労のせいだろうか。おそらく違うだろう。きっと、腐った性根が原因だ。
「本当に、そんな立派に見えますかね」
心労からか、いつもなら留めておけるような言葉が、思わず口をついて出てしまった。
すいません何でもないですとごまかそうとする。
「何でそう思うんだい?」
‥‥‥しかし、もう遅かった。
「聞いてて楽しいものじゃないですよ」
未練がましく話を打ち切って逸らそうとする。それを口にした所で誰の得にもならない。だから、ここで終わらせたほうがいいに決まっているはずだ。
しかし彼は微笑んで、
「そりゃそうだ。だが聞かせて欲しい。一心くん、他ならぬ君のことだしね」
なんで、
「どうしてそんなことを、って顔してるな。娘ほどではないけれど、君とは結構話してきたんだぜ?それくらい分かるさ」
「そんな顔に出てます?」
心でも読まれているのかと思った。
守一さんは頷いて、車線の先を見据える。
「色々と追い詰められているように見えるよ。何かの拍子に泣き出したっておかしくない顔だ」
フロントガラスには、顔面が克明に映る。酷く濃いクマが刻まれている上に、痛みをこらえるように険しく歪んでいた。
「うわ、ひっでえ」
無様ここに極まれり。全く面白くないが、笑えるほどに滑稽だ。
ああ、醜いったらありゃしない。こんな顔を真紀奈に見せていたのか。それも自覚なしに?情けないにもほどがある。
渇いた笑いが出て止まらない。
「まあまあ。手遅れになる前に気付けたんだし問題はないさ」
次はそうならないように気付けば良いじゃないかと続ける彼に、俺は何も答えられない。
「次」。先程までどうということは無かったのに、喉に引っかかる骨のような異物と認識してしまう。やめろ。それを考えるな。
彼女の手を握ってあの時間を乗り越えたら、何事のない日常に戻れる。「次」がやってくる。しかし、俺なんかにそれが出来るのか?
いいや違う。疑うな。出来ると思い込め。そうでなくては戻ってきた意味がない。それを考えたところで何になるというのだ。大丈夫だ、大丈夫。見えているのは「成功した結果」でそこに至る為の方法も知っている。だから、そうだ。決して失敗などしない筈で真紀奈を救うことが
「そんな顔して、どうしたんだ」
守一さんの声で我に返る。顔を向けると、彼からは笑みが消えていた。真剣な目で、こちらを見ている。
「いや、あの。なんでも」
「今にも吐きそうな顔をしておいて何もないわけがないだろう」
後部座席で眠る真紀奈を起こさないようにか、彼は静かに言う。しかし、その語調は穏やかではなかった。
「どうせ言っても分かっちゃくれない、とでも思ってるだろ?」
「別に、そんなことはーーー」
否定しかけて、止める。同じニュアンスのことを彼に言おうとしたことに変わりはない。
「いや、別にそれは良いんだよ。君の悩みは他の誰にも共有できやしないんだ」
車が急停止して、身体が傾く。前を見ると、車のライトがずらっと並んでいた。
「そう、ですか?」
「そうだよ。だが、口に出せば少しはマシになるかもしれない。私の経験でしかないけどね」
無理に話さなくても良いと、停まった車の中で彼は言う。選択肢のない二択ではなく、心からの言葉なのは分かる。
「‥‥‥」
喋って楽になりたい気持ちは確かにあるのだ。しかし、どうしても「聴いてほしい」と言う気になれずに黙り込んでしまう。
ああ、分かっている。こんなこと、砂の城より無価値なプライドを守るための行動だなんて知っている。そして、守る価値のないものだと解りきっているのだ。
では、そこまで分かっていてもなお行動に移せないのは何故か。
笑ってしまうような話だが、自分にもさっぱり分からない。何も分からないのだ。何にも劣る自尊心の無価値さは自明だというのに、何故かそれを捨て去れない自分の浅ましさが悍しい。
「まあそんなこともあるさ。家に着くまで、目を瞑っていなさい。寝言ならいくらでも聞いておくから」
「‥‥‥すみません。寝ときます」
優しげなトーンの彼の言葉に安らぎを覚えるな。
こんな下らない事を彼らに打ち明けるなど、許してはならない。
唇を噛んで、まぶたを閉じる。
意識が沈みきる直前、『おやすみ』と言われた気がした。
◇
葦元真紀奈をどう思っているか?
そう訊かれたのならば、『大切な人で、尊敬している』と答えるだろう。
彼女は、優しさを持った強い人間だ。それを見た時に、俺はなんとかコイツの役に立ちたいと願って、手伝いをすることにしたのだ。
そんな彼女が理不尽に死ぬのを許してははならないと思ったから、こうして繰り返しに身を投じている。
葦元真紀奈を崇拝しているか?
そう問われたのならば、『それはない』とノータイムで否定するだろう。
始点はむしろ見下しじみた哀れみだった。だからこそ、彼女のダメなところ、ーーー例えば思い込みが強い所とか、逆に尊敬してしまうレベルで諦めが悪すぎる所とか(絶対賭け事とかさせちゃダメなやつだ)があることを知っている。だから、今の感情が盲信になることは決してないと思う。
では、彼女にどんな感情を向けて、接しているのか。
それはもちろんーーーーー
「なんだよこりゃあ‥‥‥」
何やらセリフが聞こえてくる。なんだこれは。
そもそも、車で寝ているはずではなかったのか?
「え、」
疑念を抱く。瞳を開いた。
瞬間。
ーーー暗闇に放り出されていた。いつのまにか、気付いたらとしか言いようがないタイミングで。
「ええ?、?」
同時に、その闇の中を突っ切って落下しているのを知覚する。
「うおおおおおおおお!?」
墜落死をなんとか避けようとして、バタバタと腕を振り回す。すると、不思議なことに、ふわりとした感覚が身体を包む。逆立ちを失敗して倒れる寸前のように、重力が上に引っ張られていた。
「どうなってんだこれ‥‥‥」
困惑を堪えられず呟く。いつのまにか腕振りはやめてしまっていたが、止めても浮遊は続いていた。
なんなんだ、これは。常識が壊れてしまっているじゃないか。
すると、疑念に答えるように上から耳障りな声が響いた。
「やあ。居心地はどうかね」
「何でいるんだよお前。というか、俺は車の中で寝ようとした筈じゃあ???」
男は大仰に笑いながら、どこからか答える。
「そう、ここは君の夢の中だ。少しお邪魔しているよ」
「お邪魔しているも何も、俺の場所ならまずはツラ見せろよお前」
「口調は乱暴なのに、案外細かいことを気にするのだな。まあ、失礼を働いたのなら悪かった」
その声とともに、男の姿が浮き上がる。目の前のパーカー姿のそいつは、いつもと同じように赤いハードカバーの本を手にしていた。
暗闇の中なのに何故かはっきりと見えている。あり得ないだろこれ。
「君の夢の中だから、君の思う通りにできるのだよ。ここは君の箱庭だ」
「俺の思い通りになる世界だっていうのなら心を読むなよ。
ああ、なるほど?つまり俺が光あれって言ったら照明つくのかここ」
役者じみた感じで首を横に振る。何にも分かってないとでも言いたげだ。とっくに分かっていることだが非常にウザくてムカつくなコイツ。
そもそも、俺の場所に我が物顔でいるコイツが気に入らない。人の家に土足で上がっている奴を見ている気分だ。
「‥‥‥」
「どうした?早くやりたまえ」
男は、この闇の中でもふわふわと浮いている。地に足をつけていられないのだろうか?
あっ、そうだ。
「ほら、言えばーーー」
「底に落ちろ」
「叶うだろおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉォォォォォォォォ‥‥‥」
さっきまで余裕しゃくしゃくだった男は、情けない叫び声を上げて、闇の果てまで落ちていく。マジで落ちやがった。
遠ざかっていく悲鳴を聞いてなんとなく爽快な気分になりながら、子供大から豆粒、豆粒から塵並みへと、小さくなっていく男の姿を見ていた。
やがて目視できない大きさになった頃、どすんという重い音が遥か下から響き渡る。どうやら本当に底まで落ちたらしい。長い距離を墜落したが、アレは生きているのだろうか。
「まあ、死んではねえだろうな」
「ふう、さすがに死ぬと思ったよ。そんな見つめてどうした?君が願わなければ何も出てこないぞ」
‥‥‥何故隣にいるのかとかどうやって浮いてきたのかとか色々訊きたいところだが、突っ込むのはやめよう。それ以前に質問したいことがあるのだ。
「一つ二ついいか」
「なんだね」
「ここはどこだ?」
「君の夢の中だ」
聞いてなかったのかね、と言いたげな口調で話す。さっきよりも声が平坦だが、まさか怒っているのだろうか。
「まあ、いいか。
次。俺の夢の中なら、なんでお前はここに入ってこれるんだ?」
「ふむ。理由は二つだ。長々とした説明は後に置いて、端的に言おう。
一つは、私が夢を夢だと知覚しているから。
もう一つは、全ての人間は夢を通じて繋がっているから。質問は?」
「二つ目は何か聞いたことあるからまあいいとして、一つ目はどういうことだ?」
「君の思い通りになると言ったが、正しく言うのならば、今の君や私のような『夢が虚構の産物である』と認識できている者が、夢の中を自由に創り変えることができるのだ。
少し気取った言い方をするのであれば、『夢の中で夢から醒めた』者がこの空間で創造者たる神として存在できる、ということだよ」
なるほど。
それっぽい説明で何となく解った。
なんだかめちゃくちゃでオカルトじみた理由だが、まあ、コイツの存在自体がよくわからないからそんなものなのだろう。
「自由にできるって、どれくらいだ?」
「どの程度でも。例えばこの空間を豪奢な大広間にもできるし、夕焼けに染まった荒野にだってできる。君が念じれば拳銃でも何でも出せるし、先ほど私にしたように、動作を強制することも可能だ」
「マジで何でも有りじゃねえか。夢だけど」
「夢とは空想の塊であり、思考や感情の倉庫であり、万人が意識的・無意識的に創造したモノ達の墓場であるからね。それを使えば何でもできる」
素晴らしい空間だろう?と問いかけてくる男にまったく同意できなくて、俺は首を横に振った。
「何故?」
「決まってる。何でもできるって言ったって所詮は夢だろ?何をしたところで無意味じゃねえか」
「存外ロマンのない男だな。夢であることを自覚しているのならば、この内部の時間経過も思い通りだというのに」
「居たいだけ居られて、起きようと思った時に起きられるって訳か」
「そうだ。この中の時間の流れは外界にフィードバックされない。世界の方が『常識的な睡眠時間』に辻褄を合わせてくれるのだよ」
「何ともまあ都合のいい話だな」
まあ、それが本当ならば割と使えるかもしれない。でも、結局夢は夢だ。ここで真紀奈を助けるビジョンをいくら描いたところで、現実で上手くいくとは限らない。
「‥‥‥まあいいや、次。さっきから聞こえる俺の声らしき物は何だ?」
『真紀奈は、俺の大切な人だ』
今も真っ黒な空間に響き渡っている、これは何だ。
「これらは、これから君がモノにしなければならない物だ。‥‥‥何だその怪訝な顔は。
理由が必要か?まあいい。
運命という処刑台に乗せられたあの少女を、君が救うために必要な行為だからだ」
男は、俺を指差す。
胸元あたりを、その尖った指先で、射抜くように。
「何でだよ」
どういうことなのか訳が分からない。そんな修行じみた行為が、なぜ真紀奈を救うために必要なのだ。
時間の無駄だろう、と突き返そうとするが、男の左掌に阻まれた。
そのままの体勢でハードカバーの本に目を向けて、彼は口を開く。なんて失礼な奴だろう。
「そうやって言うことは解っていたが、まさかここまで鈍感だとは思いたくなかった。
普通の青年よ。
君は、自分自身が限界を迎えていることに気づいていないのか?」
「限界?」
熱の冷めた口調で彼は続ける。
「精神的な限界だ、肉体的にも影響が出ている訳だが。今日の異変二つがその表れだろう。そこについては君も自覚しているはずだから言葉を尽くす必要はないな?」
確かに心労が祟って倒れたり疲れが顔に出たりはした。
「でも、別に不調ってだけで
「それが限界という訳ではない、とはならない。君は良く理解している筈だ」
‥‥‥ああ、解っている。自覚はある。
彼女のXデーが近くなる度に、恐怖に押し潰されそうだ。強がりで騙しているのだってハリボテより惨めなのは分かってる。
「‥‥‥でも、それでもやらなくちゃ」
「不可能だ」
斬って捨てるその声は、怖気がするほどに冷酷だ。
「最初に言っただろう?君は運命と戦わなければならない。
つまり、世界を敵に回すような物だ。満身創痍で立ち向かおうなど甘い」
さらに、彼はこう続ける。
「確かに君の執着は強い。しかし、それのみで葦元真紀奈を救える訳がない。
愛だの何だのといった想いなど、世界からすればちっぽけだ。最後にソレのみが勝つ確率はゼロだ。この世界はそんな感情や夢想などは抜きにして廻っているのだからな」
世界に愛は無い。
絶対的な真理だとでも言うように、穏やかな顔で彼はそれを口にする。
ガキである自分にはまだ分からないことだが、それは正しいのだろうと思わせるような男の確信がそこにはあった。
「‥‥‥だけど、」
「そう、そんな感情を杖にして立ち、彼女を救わないことには始まらない。君は彼女を手離したくないからな。
その為には、君には自身の本音と向き合う工程が必要なのだよ」
「だから、何で」
まだ分からないのか、というような呆れ顔がムカつくが、教えてほしいと頼むしかないだろう。
「君が彼女の手を握るのは心ではなく肉体だが、今の君の精神は崩落していて、その体に影響を与えてしまっている。これでは当日に葦元真紀奈を救うことなどできはしない。
だから、君の精神を建て直す必要があるという事だ。至極単純な話だろう?」
アスリートが最大のパフォーマンスを発揮する為にメンタルトレーニング行うなものか、と納得する。
しかし、ガタついてボロボロの精神を復旧させるために自分と向き合うとはどういう話だろうか。
「その程度は君自身で考えたまえ。実際にやっている内に分かるだろうから言う価値もない」
「サラッと心を読むなよ。‥‥‥で、どうすれば良いんだ。いくら『自分と向き合たい』って願ったところで、できそうもないと思うんだが」
「まあ、そこは私がサポートしよう。深呼吸したまえ」
言われるがままに、すー、はー、とやってみる。
「心は落ち着いたか?」
「ああ、まーーー
「『欲の階層まで落ちるがいい』」
男がそう言い放つと、身体に重圧がのしかかって、一瞬にして彼が遥か真上に移動したかに見えた。
いや違う。これはまさか、
「はははははは。さっきのお返しだ」
「うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!?」
情けない叫び声を上げながら墜落していた。腕を振り回すが、さっきみたいな浮力は全く生まれない。
何かしらの強い力に逆らえず、落ちる。
落ちてゆく。
紐なしバンジーというのはこんな気分なのだろうか。
死にそうな気分のまま、どこまでも落下していく。
いっそ気絶できたらいいのに、気分はどこまでも鮮明で、最悪だ。
「ああああえええええええいええあうううううううううおおうおおえあえあァァァァ!!??!??」
こんなに地面が恋しくなるようなことはもう二度と起こらないでくれ。
そんなことを、どこまでも落ちながら願っていた。
◇
ドスン。
そんな間の抜けた音がして、到着したのだと気付く。
かなりの速度で地と追突したのに痛みすら感じないのが都合良すぎる気もするが、現実とは違うのだから気にしてもしょうがない。
「確か、『欲の階層』とか言ってたな」
そこは暗闇ではなかったが、気分を沈めてしまう曇天のように薄暗く、そして近くには何もない。少しするとその薄暗さは一面を覆う霧のせいだと分かったが、それでも何もないということに変わりはない。
『欲の階層』だなんて御大層な名前を冠しているくせに、どこまでも殺風景だ。
このつまらない風景が俺の欲の現れだというのか?だとするならば、
「全くーーー「無欲すぎて嫌になる、とでも言うつもりだろ」
全てを嘲笑うような、煮えも冷めもしない声が、背後から聞こえた。違和感を覚えてしまうほど、聴き慣れた声だった。
背後を振り返る。
その主は、俺と瓜二つどころか、俺と全てが同じだった。
黒い髪。センスのせの字もない服。鬱々としただるそうな表情。中肉中背の身体。
「ああ、」
「説明要らずだろ?無駄にお勉強ができるせいで理解は早いな」
カンに触る低い声が、嫌でもソレの正体を自覚させてくる。しかし、認めたくないのは何故だ。
「違うな。俺はお前じゃない」
「ああ?」
「いや、全部間違っている訳じゃない。だが半分、赤点だ。やれば覚えられるお勉強しか取り柄のないお前には我慢できないだろ?」
「いいから早く言え。勿体ぶるんじゃねえよ」
「短期なのは嫌われるぜ。
確かに俺はお前だけど、厳密にはそうじゃない。俺はお前がいつもひた隠しにしている本心、欲望の根源ってところだ」
「本心?」
そんなことを言われても、あまりピンとこない。本心を隠して生きている訳ではないだろう。
「聞き返されても困る。俺は『お前』が産んだんだから認知くらいしてくれ」
「お前の母親になったつもりはねえ」
「こっちだって生まれたくて生まれた訳じゃない。お前が本心に向き合わないせいで俺は生まれちまったんだから、責任くらい取ってくれ」
そんなことを言われても、俺は目の前のコイツを産んだ覚えはないし、そもそも本心を隠して生きてきた訳がない。困っているのはこっちだ。
そう言い返すと、ソレは「分かってないようだな」とため息を吐いて、俺に近づいてくる。
「なんだよ?」
「俺を見ろ」
テメエのツラなんて見たくもねえがこの目できっちり見ているだろう。
「俺の声を聴け」
さっきから聴きたくもない声を聴いている。
「違え。違うんだよ。分からないか?俺が言っているのは、本心から目を逸らさず欲望をひた隠しにするなって事だ」
「だから意味が分からねえ。お前が鏑木一心ならだったら分かるだろ?俺は俺のやりたいようにやって生きてきただろうが」
やりたいから親の言うことも聞かず勉強をして、夢を汚したくなかったから誰に止められようが真紀奈の手助けをしてきて、そして今は誰に望まれるでもなく彼女を救おうとしている。そこに抑えていた衝動も欲望もあろうはずがないじゃないか。
ソレはいくらかの間頷いたあと目を見開いて、「違う」と否定した。
「俺が言っているのはそこじゃない」
「だったら本当に分からん。俺は何を隠しているって言うんだ?」
それさえ違うとなると、本心の何を誤魔化しているのか本当に分からない。
いいや。
隠している物など、実際はあるのだろうか。あのクソ胡散臭い男が嘘をついていないとは限らないだろう。
「気に入らないことにそれは無いから諦めろ。あの男は嘘をついてはいないんだ」
「なんで心を‥‥‥って、ついて『は』?」
「ああ。アイツは、あの舞台演劇の役者モドキの大仰な口調の裏に何か隠している。それに薄々勘付いているはずだ」
「まあ、それは」
普通に考えてあの男は怪しすぎる。喋り方も、話の内容も、出で立ちも、存在も、何もかもが胡散臭さの塊だ。今は乗っかるしかないが、それは分かっている。
「そこを忘れるなよ。真紀奈を救いたいなら、アレを信頼することはしちゃいけない。お前、だいぶアレに心を開いていただろ」
「いやそれは‥‥‥」
ない、とは言い切れない。実際、この世界でやり直ししている鏑木一心を知っているのはあの男だけだ。正直に言えば、アレが出てくる度に少し安堵していた。
「この状況もそうだが、あの野郎はお前に都合の良い事をしている。適切なタイミングで、便利なモノを提供してくれている。
じゃあ、何の目的で?アレが口にするような『足掻く様を見たい』なんてのが本当とは思えないだろ」
「そりゃそうだが。というか、その口振りだとお前はアレの目的を知っているみたいじゃないか」
「知ってるよ。だけど話せない」
「なんで」
「俺もOjbechだから‥‥‥って、ダメか」
ふと、電話の回線に接続不良が起こってしまったときのように、目の前のヤツの声が一瞬ブレる。
俺と同じ顔をしたソレは心底不機嫌そうな顔をして、小声で何やら悪態をついていた。鏡の中の虚像が勝手な行動をするのを見ているようで、こちらまで気分が悪くなる。「やめてくれ」と言うと、やめてくれた。割と素直なヤツだ。
「悪い。‥‥‥アレの話をするとどうしてもこうなるから、本来の路線に戻るぞ。お前だって早く戻りたいだろ」
「ああ。自分と対面するとか地獄以外の何物でもないからな」
無力な自分と同じ姿の誰かが目の前にいるなんて極大のストレッサーでしかない。消せるなら今すぐにでも抹消したいのだ。
ソレは、薄ら寒いヘラヘラ笑いを顔に貼り付けて言う。
「じゃあ、そうだな。俺は今からお前に三つ質問する。俺の満足する答えを出せたらそれで終わり」
「出せなかったら?」
「帰れない」
あっけらかんと、「当然だろ?」とでも言うようにソレは笑う。
「はあ!?」
冗談じゃないと思う間も無く、ソレはこちらの気なんて無視するように言葉を続ける。
「驚かれても困るし俺のせいじゃない。それにお前は早く帰りたいんだろ?だからさっさと始めるぞ。
‥‥‥まず一つ目。
お前はなぜ葦元真紀奈を、アイツを手伝った?」
放たれた質問は、拍子抜けするほど陳腐な物だった。思わず脱力してしまうほどだ。
なぜ彼女の手助けをしたか?そんなの決まってる。
「真紀奈の夢が綺麗だと思ったからだ。荒唐無稽でバカみたいに純粋なアイツの夢を汚させたくないと思ったから。お前なら分かるだろ?」
当然なことを答えると、ソレは何故か首を傾げる。
「しょうがない、別に良い。次行くぞ。
今、お前はどうしてあの子を救おうとしている?」
「アイツの夢を邪魔する物を取り除きたい。真紀奈の役に立ちたいからだ。わざわざ言わせるようなことかよ」
「‥‥‥」
次は苦虫を噛み潰したような顔をして、「しょうがない」とソレは頷く。
「何なんだよ。お前は何が気に入らねえんだ」
「だからさっき言っただろうが。お前が自分の行為の根源にある欲を見失ってるから見ててイライラするんだよ。お前のせいだ」
見ててイライラするのは同感だ。だから、 「俺は俺が嫌いだろうが。そんなの諦めちまえ」と突き放す。そもそもの話、鏑木一心は自分が嫌いだからそこは仕方ないだろう。
俺が返した言葉を反芻するように、ソレは下を向き顎に手をやっていたが、しばらくするとこちらに向き直って、そして口を開く。
「それも嘘だろうがこの愚鈍。お前は自分の浅ましさに耐えられなくて行為として自己嫌悪しているだけじゃねえか。まあ、これは俺の管轄外だけどな」
ソレの突き刺すようなフレーズに生理的嫌悪を感じて、「何を言っているんだか分からねえ」とほとんど反射的に返す。
「‥‥‥にしてもよぉ、この空間の霧も晴れちゃくれないなんてかわいそうだなお前。我ながら滑稽で泣きそうだ」
「晴れようが晴れまいが知らねえ。意味はないだろ」
「その言葉が嘘だって自覚してるくせに俺に言わせるつもりかよヘタレ。
『欲の階層』なんて御大層なお名前を付けてはいるが、俺も含めてお前の欲望を写す鏡みたいな場所だ。ここが霧に包まれているってことは、つまりお前が『何をしたい』とか『何のために○○をしたい』とかが見えていないってことなんだよ」
お前がいくら反発してもそれが絶対だから諦めろとソレは続ける。しかし納得できない。そもそも欲望を隠した覚えがない。
「だから、見えてるだろうが。真紀奈の為、そして俺の為だ。‥‥‥お前と喋っているとアレよりも気分が悪い。早く最後の質問に移れよ」
急かすが、同時に少し気がかりだった。
内にいるコイツは、どんな難問を繰り出してくるのだろう。納得する答えを出せなかったら、この空間から出られない。
また、あの男は『勝手に辻褄が合う』と言っていたが、それを信じきるのは危険だ。
仮に男が正しかったとしても、この薄暗い空間にいるのは気分が悪い。そもそもの話、真紀奈が居ない場所なんて考えられない。
そして。
幾分もあったような、一瞬の間の後。
ソレは口を開く。
「最後の質問。
お前は、葦元真紀奈のことをどう思っている?どんな感情を向けて彼女と過ごしていたんだ?」
「‥‥‥はっ」
思わず気が抜けて笑ってしまう。
真剣な顔にさせて、訊くことはそれか。俺の中にいるくせに質問が簡単すぎる。
当然、そんなのは決まっているだろう。
「俺は、彼女を大切な人間だと、一番の友人だと思っている。自分の中にある尊敬と信頼を、葦元真紀奈という人間に向けている」
一息で答える。
何よりも単純な答えなのに、夢の中だというのに、喉が渇いてたまらない。息切れさえ起こしそうだ。
でも言ってやった。俺の中にいる者なら、この嘘偽りない答えに異論などないはずだ。
しかし、目の前のソレは。
俺と同じ姿をしたソレは、横に首を振る。
「‥‥‥は?」
「尊敬と信頼?トモダチ?我ながら自覚がないって怖いねえ。
‥‥‥あのなぁ。お前が抱いているのはそんなマトモな感情じゃねえんだよ」
狼狽する俺の自信を打ち砕き嘲笑するように、ヘラヘラ笑いのまま、ソレは言葉を紡ぐ。
俺にとって、劇薬のような一言を。
「まだ分からないか?鏑木一心は彼女にそんなモノを向けちゃいない。友人とは聞こえがいいが心の底ではそんなことを思っているはずもない。
鏑木一心は、葦元真紀奈への崇拝や依存と嫉妬しか持っていないんだよ。お前も解っている筈だ」
笑顔とは裏腹に、声は冷め切っていた。
温度が、ソレの発言の正しさを理屈抜きに納得させようとしてくる。だけど、ここで折れたらダメだ。
「違う。俺はそんなモノを持ってない。仮に持っていたとしてもーーー、いや、嫉妬の類は多少は持っていたけど。
そんなものは絶対に向けないし、そもそもの話、崇拝の類だったらアイツなんて呼び方はしないだろうが」
怒りに胸の内が燃え上がるのを感じながら、あくまでも冷静に答える。納得させるのであれば、ヒートアップしたら負けだ。
「言葉遣いなんて詭弁にもならない。つーかそんなモノで決まるかよ?腹痛くてトイレに閉じこもるときに『畏み畏み申す』なんて神頼みしないだろ」
「それでも、俺が真紀奈を崇めている証拠にはならない」
「そうだな。だけど、鏑木一心は、彼女に嫉妬し依存し、それらを嫌悪して知らず知らずのうちに崇拝の炉に焚べていたんだよ」
「だから証拠を出せって言ってるだろうが。俺が崇拝していたなんて事実はない」
そう。こんなものは荒唐無稽の妄想と同じ戯れ言でしかない。嫉妬は確かにあったけれども、依存も崇拝もしちゃいない。そんなものがあってたまるか。
「まあ、これだけじゃ納得しないのはわかってた。今から至極真っ当な証拠を出してやるよ」
ソレは何処からか出した椅子に脚を組んで座っていたが、出所を訊く意味はない。そんなものは今何の意味もない。
「何出されても納得なんてしねえだろうが」
「ははっ!俺はお前のお気持ちなんか知ったこっちゃないんだ。今からやるのは、お前が隠蔽している欲の根元を見せつけるだけだ。そこにお前の意思なんか介在しない。
ほら、準備はできたかよ」
そんな呼びかけは無視する。するまでもないし、俺の心を読めるなら言っても無駄だ。
どうせ凪いだ心で終わるのだから。「本当アホだなコイツ」と聞こえた気がしたが知ったことではない。
何秒か後、同じ姿のソレが何やら呟くと、霧の中から映写機らしき物が出現し、空中に重力を無視してスクリーンが貼り付けられていた。
「映像なのか」
「頑ななお前にも分かりやすいようにな」
映写機らしき何かの角度を弄り終えたソレは、意地悪く笑った。
「お前も人のこと言えねえだろ。俺の中にいたなら納得させるなんて無理だって分かるだろ」
真紀奈を崇拝対象として見ていたなんて論の方が筋が通らない。俺は彼女をそんな目で見たことは一度たりともない。
しかし、ソレは心を読んでいたように鼻で笑い、椅子に座る。
こちらも自分で椅子を出して、座る。
「開演の時間だ。鏑木一心の虚飾に塗れた記録のな」
映写機らしき物が発する光は、スクリーンとの間にかかる霧をはっきりと映す。あまりに強いその光線は、スクリーンの向こうすら透かしているようだった。
「‥‥‥ん」
薄いスクリーンの奥に何か影が見えた、気がした。しかし、瞬きの間にさらに濃い霧で消えてしまった。
「何か見えたか?」
「いや、」
「‥‥‥チッ。まあ良いか、始まるぜ」
露骨に嫌そうな顔をしながら、ソレが白い幕に手をかざす。同時、スクリーンに無骨な数字が灯る。
9‥‥‥、
8‥‥‥、
7‥‥‥、
6‥‥‥、
ーーー「しっかり見ろよ。これはお前の要らない見栄を取っ払った全てだ」とソレは言った。
5‥‥‥、
4‥‥‥、
3‥‥‥、
2‥‥‥、
‥‥‥1。
ーーーそして、上映が始まった。