6話-2 過去_未来は未だ見えず
遅れて申し訳ないです。
一心の過去パートはあと1、2回で終わらせます。
もし良ければ、感想よろしくお願いします。
平日だというのに何故かいた守一さんにショッピングモールまで送ってもらった。
「なんでいたのあの人‥‥‥?」
「仕事の出先で通るからってさ」
ちょっと寒いねー、と手を擦る真紀奈。
ありがたいこと極まりないが、職務怠慢とかそういうのにならないのだろうか。
「いいんじゃない?」
なら仕方ねえか、と一つ伸びをする。
かれこれ1時間くらいは助手席で寝てたから体が凝って仕方がない。
「守一さんが迎えにくるのはいつだっけ」
「夜の7時くらいって言ってた。まだ時間は全然あるね」
去年誕生日に真紀奈から貰った腕時計を確認する。刀身をモチーフにしている短針は、ぴったり3を指していた。
「最初はどこ行くんだ?靴屋?」
「うん、そうしよっかな。靴買い行こうか。鏑木くん、はぐれないでよ」
「だからお前は俺のオカンかよ。まあいいや」
差し出された左手をぎゅっと掴んで、彼女にリードされながら、巨大な箱の中へと向かっていく。
「鏑木くんは何か買ったりする?」
「金は持ってきているけどどうするかな。‥‥‥どうしよう」
真紀奈の後ろにくっついて行くだけなのは良いが、前を歩く彼女はそういったことを気にするタチだ。誰に対しても。
「いったん私と分かれて回る?そうしたら何か見つかるかも」
「いや‥‥‥」
しかし、別行動の最中でコイツの身に何かあったら辛くて耐えられない。そんなことが起こってしまったら発狂してしまう。なので俺は俺のために真紀奈と行動を共にしたい。
「どうしたの?」
真紀奈は、こちらの顔を覗き込むようにして下から見上げてくる。
「どうしたもんかなぁ‥‥‥」
そんな風に考えていると彼女は「あ、」と手を打って、
「じゃあ、私が鏑木くんの買うものを決めるのは?」
「いいなそれ」
自分の金の使い道を決められるのは新鮮だし面白いと思う。
真紀奈以外だったら確実に断ってるが。
「なんなの、鏑木くんお金に頓着ないの?」
「いや、真紀奈だからだよ。他のやつだったら怖くて金の行き先なんか預けられん」
「またそういうこと言うー。鏑木くんって私のこと信用しすぎだよね。もしかしたらすごい値段するもの買わせたりするかもしれないのに」
「別にお前だったら良いが」
そんなことする訳がないと信じているから心配はないが、もしもされたとしても喜んで受け入れよう。
「本当に買わせても知らないよ?100万する服とか買わせちゃうよ?」
こういうことを言ってしまう時点でやっぱり優しい。本当に性格悪い奴だったら、安い物を気持ちよく大量に買わせて最終的な負債を膨れ上げさせるのだろう。こんなことを思いつく俺はきっと性格が悪いんだろう。
「おおこわいこわい」
「はっはー、怖いでしょー」
「嘘。怖くない」
「だよねー」
そんな話をしているうちに、入り口へと着いた。背の高い自動ドアが招き入れるように開いている。
「混んでんな‥‥‥」
「平日なのにねー」
店内の通路には、人の濁流が出来上がっていた。入ってしまえばきっと流されてしまうことだろう。だから、震える手で真紀奈の手首を掴む。
「どうしたの?」
困惑したような声色で彼女が訊く。悪い気はしたが、こうせずにはいられないから許してほしい。
「こんな混んでるところではぐれるのは嫌だから」
嘘は言っていない。本心はもっとおぞましいものだけれど。
「じゃあ、こうしよ」
彼女は俺の右手を握る。
「良いのか?」
「良いけど?」
素っ気なく真紀奈は返して、笑う。
「手、離さないでくれよ」
「そっちこそ」
手を繋いで人の流れへと飛び込んでいく。周りの人間たちのせいで熱いし臭いし鬱陶しいが、今ならば問題ない。
この感触を確かめられているうちは、きっと俺は正気でいられるのだろう。
◇
「あ、この服どう?似合う?」
「似合ってるんじゃね」
人波を抜けた先は、服屋だった。あの中にまた入って耐えながら進むよりもマシだし仕方ない。
「さっきからずっとそればっか。ちゃんと見てる?」
「見てる?って言われてもなあ。本当に全部似合ってるようにしか見えないからしょうがないだろ?」
「そんなことないってば」
「あるよ」
事実、真紀奈は美人だ。べっぴんさんだ。10人が見れば10人が間違いなく頷くだろう。
肩の辺りで切りそろえられた黒髪は絹のようで、黒に藍が差した眼は蝶の羽のように儚げで‥‥‥って、なんか変態みたいだ。
で。その美人さんは、ずらりと並ぶ色とりどりの服を端から手に取って俺に見せ付けているわけだが、俺に見せられてもなあ。3年間でこういうことはあまりしなかったから、ファッションには疎い。
「これは?」
真紀奈が手に持つのは、白い、なんだ、セーターみたいなやつだ。快活な彼女がそれを着る姿を想像してみる。
とても良い、良いと思う。そして気持ち悪いな俺。
「似合ってるよ」
事実を口にする。
「本当に?お世辞とかじゃない?」
「まったく気遣ってない。俺がそんな気の利いたこと言えると思うか?」
「ううん、鏑木くんはなんでも包み隠さず言ってくれるもんね。ダメなところは容赦なく突っ込んでくれるし」
「そうだろ?だから嘘なんかじゃない」
指摘というより罵倒に近い時もあったけれど、それはそれとしてコイツに嘘を吐いたことは一度もない。
「しかもこの3年間で何回も告白されてんじゃん?それもお前にその服が似合う理由になる」
『なんでお前が葦元と一緒にいるんだよ羨ましいから一発殴らせろ。とりあえず殴らせろこの野郎』とよく愚痴をこぼされたのを覚えている。
俺も彼らと同じ立場なら同じ感情を抱いていただろうから、仕方ない。たまたまの偶然なのに優越感に浸るのは醜いことだが、それを聞いて愉快な気持ちになってしまったのは否定できない。
「そんなこともあったねー。こんなのの何が良いのか分かんないよ」
服を片手にへにゃりと笑う。それもかわいらしいと思うが、本人は全く気付いていないだ方から、自覚がないというのは恐ろしい。それも彼女の魅力の一つなのだろうけど。
「魔性だ」
「わたし悪女じゃないよ!?」
かなり驚いている様子の真紀奈に、悪い悪いと軽く謝って「何買うか決めたか?」と訊く。
「これにしよっかな。安いし動きやすいし」
そう言って彼女が掲げたのは、店に来て一番最初に手に取っていた、長袖で薄手のシャツ。淡い紫が、どことなく気品を見せていた。
「支払い終わるまでここで待ってる」
「どこにも行かないでね?」
少しだけ心配そうに、しかしからかう様子で彼女は言う。
「行かねえよ」
「なら安心。行ってくる」
行列へ向かう彼女の背に、いってらっしゃいと手を振った。
◇
騒がしい店内。鬱陶しく感じられるのは、人混みの喧騒だけでなく、空間を暴力的な暖色に染め上げる照明のせいでもあるだろう。
「早く戻ってこないかな」
思わず口に出てしまった。すれ違う家族連れと目が合う。白と黒の服を着た背の高い男に微笑まれて、目を背けた。
彼には何を思われたのだろうか。
時計を見ると5分ほどしか経っていないが、体感としては1時間はゆうに超えているようで、ひどく疲れが溜まっているように思える。足が痛い。肩が凝る。頭がぼうっとする。真紀奈は早く来ないだろうか。
「ーーー」
頭から一気に血の気が引くのを感じた。
顔からはべとつく汗が滲み出る。視界は黒膜を覆われたように狭くなり、足は芯を失ってバランスを崩して、通りがかる長身の男性にぶつかってしまう。そのまま、四つん這いにへたり込む。
「すいませ、」
働かない頭と震える唇からどうにか謝罪を捻り出すが、返事はなかった。舌打ち一つ聞こえやしない。
「、え?」
違う。舌打ちどころじゃない。さっきまで店内に響いていた人の声が、捨て去られてしまったたかのように無くなっているのだ。
これはいったい、どういうーーー
「少年」
聴き慣れなくとも聞き覚えのある、仰々しく軽々しい声が、凍るほどに静かな空間へ響き渡った。
「なん、」
言いかけて、やめた。どうせ俺を四六時中監視しているのだ。こうして急に現れてきてもおかしくない。
「顔が青いぞ。今日も顔を洗わなかったな?ああ、そんな怖い目をしないでほしい、冗談だ。‥‥‥脱水症状とストレスだな。時間は止めておくから、休むと良いだろう」
時間を止めるなんて、どこぞの超能力者のようなことを言ってくれるものだ。
超然とした様子で浮遊するソイツを見て、口を歪める。
「どうした?」
「どうせお前喋るんだろ?寝かせろ」
「別に構わないが。私に何か出して欲しいということか?」
男は赤いカバーの本を片手に、クリーム色の床へ降り立つ。
違和感があったが、気のせいだろうと目を閉じて振り払う。
「ベッドでも良い。マットでも何でも出してあげよう。さて少年、何で眠りたい?」
「えらく親切だな。何が目的だ、?」
「目的は言った通りだ。君の足掻く様を見たい、ただそれだけさ」
飄々と漂う男。彼は世界から弾かれたように、むしろ世界を拒絶するかのように再び浮遊する。
「それを見るための協力は惜しまないってことかよ。じゃあ利用させて、もらう。布団と飲み物くれ」
自分の声が頭に響いて不快なのを耐えながら、男に要求する。
「仰せの通りに」
男が指を鳴らすと、俺の横に白い布団が出現した。その側にはペットボトルの飲料水。何とも親切だ。誰も見ていないのでゆっくり休むことにしよう。
のろのろと、カタツムリのようにそちらへ向かって、寝転ぶ。
「その対価と言っては何だが、一つ二つ聞きたいことがある」
横になった俺を見下す格好で、男が言う。
「なんだよ」
「君は、葦元真紀奈を救うと言った。その意思は揺らいでいないな?」
「当たり前だ。やれるだけの全てをやって、アイツを助ける」
分かりきっていることだろう。
「なんでだよ」
「君の様子を観察していたが、そんな素振りが微塵も感じられなかったのでね。忘れたい風景を頭の奥へと追いやろうとする子供のように見えたのだよ」
「それは、」
返事に詰まって、喉を鳴らす。
忘れてないとは言える。しかし、その指摘はあながち間違いではない。ある程度は男の言う通りでもあるからだ。
「逃げることはないだろうがこれだけは言っておく。運命からは逃げられない、ということを自覚しておくと良い」
彼は天上にぶら下がる電球を見つめていた。それは、遠い記憶を思い出す老人のように見える。
「何が言いたい?」
「少年、この世に神はいると思うか?」
急に要領を得ない質問を飛ばしてくる。本当に意味のわからないやつだ。
「なんで、そんな」
「世界という物語を書き上げる創作者と言い換えても構わない。いるかいないかの二択ならば、君はどちらを選ぶ?」
どうでもいいことだが、少し考えてみよう。
世界を好き勝手する神が存在しているのならば、理不尽極まり無いものだ。クソッタレな出来事は全てそいつの責任なのだから。だが、思わず口元を緩めてしまうような出来事もそいつの操作によって起こるのなら、一方的な糾弾はできない。
不運幸運、悲劇喜劇、厄災恩恵。
それらが全て神という名の者による脚本ならば、それを受け入れられるのかという話。
「いない、だ。そんな奴は存在しないでほしい」
寝転がったまま天井を見上げて答えると、男は不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。その黒い目から表情は読み取れない。
「なぜ?」
「決まってる。全部神サマの起こしたものだったら、アイツがしてきた努力は全部無駄になっちまうだろうが」
彼女の頑張りは全部見ず知らずの他人の恩恵によるものでした、など許せるか。頑張って頑張って報われたのに、その本質が神の見えざる手によるものだったのなら、茶番にも程がある。まったくもって笑えない。
「なるほど。君は葦元真紀奈のために神を否定するのか」
首を横に振って否定する。
彼女のために怒れているわけではない。俺はそんな大層な人間じゃない。
「見てきたアイツの姿が色褪せてしまったものになるのが耐えられないだけだ」
ひどい独占欲だと我ながら思う。彼女の側にいたのは俺なのに、見知らぬ奴がその空間に割り込むことが気持ち悪くて受け付けないというだけの話なのだから。
「それに、真紀奈が死ぬのはその神が元凶ってことになるんだろ。そんな奴は居なくて良いじゃねえか」
こんなのは当たり前だろう。彼女に害を為す者など、彼女のいる世界に存在してはならない。
「なるほど、我欲に塗れているな」
「貶してるのか?」
男は薄く笑う。どのような意味なのかは正確に読み取れない。しかし、答えに喜んでいるように見えた。
「では、もう一つ質問だ。そのような神と遭遇したのならば、君はどうする?」
仮定に仮定を重ねた質問。
付き合う義理はないが、最初に空想を語った俺には答える義務があるのだろう。
「クソッタレの理不尽を書くその筆を取り上げる。これしかないだろ」
「面白い答えだ。しかし、そんなことが君に可能なのかね?」
「できるできないの問題じゃない。人様の都合も考えず好き勝手する野郎に世界を任せたくないんだ」
俺の意見に、「そうか」と男は頷く。
そして、
「さて、少年。それだけ口が回るのであれば心労はさておき、体調は良くなったのではないか?」
「そうだな‥‥‥」
確かに、気持ち悪さや目眩は取れた。
「ならば起きた方が良いだろう。妄想の問答はこれにて終了だ」
「こんな話をしていたってアイツは助からないからな。あと、助かったよ。サンキュー」
こうして助けてくれるあたり、悪い奴ではないのかもしれない。
「そうか。では、彼女との逢瀬を楽しみたまえ」
そう言って、霧散する男。
「まったく、ほんとに何なんーーー痛ってえ!」
さっきまで寝転んでいた布団が消え、硬いタイルに背中がぶつかる。冷水をかけられたような感覚がして、思わず飛び起きた。
あの野郎。
やっぱり良い奴じゃないかもしれないと心の中で男の評価を下方修正して、周りを見渡す。彼が居なくなったということは、この超常が終わることを意味しているのだろう。
まったく、どういう原理でこんな無茶をやっているのだろう?
次はこっちから呼び出して聞いてみるか。
◇
その後靴屋へ行ったが、非常に混んでいてどうしようもないので、服屋へ戻ることになった。
「鏑木くん鏑木くん、これ似合うと思う」
夕方になって少し人が少なくなった店内に、彼女の優しげな声が一つ。
「これか?」
彼女が持っているのは、紺色の上着と白いシャツのセットだった。
「そうか‥‥‥?俺に似合うかこれ?」
基本的に家にあるものを適当に引っ張り出して着ているので、本当に分からない。流石に短パンとか派手な柄物はダサイことくらいは分かるのでそこら辺は気をつけているが、本当に分からない。ついでに調べる気もあんまりない。
「うん。カッコいいよ。クールだよ。この前のドラマに出てた主人公役の人みたい」
「ああ、学生と人妻の禁断の恋だかで話題になってたやつの‥‥‥」
そうなのかなあ。
似ているビジョンが全く見えない。
まあ、そこまで言われてしまうと仕方ないので、試着してみることにする。正直俺には似合わないと思うけれども。
◇
試着室に入ると、虚像の自分が出迎えている。特段嬉しくもない光景だ。
三白眼の下には濃い隈が刻まれていた。メイクだと言っても通じるくらいに青黒い。ひどい顔だ。こんなツラを彼女に見せていたのか、俺は。こんな顔して横に並んでいたのか、愚か者め。
自分の面構えを見るといつもこれだから嫌になる。否定的な感情ばかりが噴出して、しまいには虚像ごと鏡を叩き割りたくなってしまう。
本当に仕方のない奴だ。呆れ返ってため息すら出てこない。
胸に巣食うこの泥沼はどうしたら無くなってくれるのだろう。値札の付いた服に袖を通しながら、そんなことを考える。
三年間、真紀奈のサポートをしてきた中で肯定的な感情を得ることはできたが、それを自己評価に含めるのは何か卑怯な気がする。
彼女の役に立っているという実感は、はたしてそこに含めて良いものなのだろうか。それは、葦元真紀奈を自分の欲を満たす為の道具にすることになってはいないだろうか?神経質なのかもしれないが、それでも悩んでしまう。
彼女を汚す行為を、俺はしたくないのだ。
風に立つ獅子のような彼女の諦めない姿を見て、そう感じた。その気持ちは強まる一方で、他人からは病的に見えるほどかもしれない。だがもはや抑えようがない。
となると、これを自己肯定感に変換するのはやはりできない。我ながらメンドクサイ奴だと思う。だが、彼女を貶めずに済むのならばそれでいい。
黒いボタンを下から順に留めていく。留めるものかどうかは分からないが、あるということはその方が良いのだろう。
では、どうやったら俺は自信を持てるのだろうか。例えば勉強では、得意な分野でさえ上を羨んでは劣等感を抱いている。下を見て満足できるのならばそれもいいが、いつ追い抜かされるか怖くて目を背けるしかない。
多分、全ての分野で一位になったところでこれは変わらないのだろう。きっと全てを知り尽くすまでこの黒い澱は消えてくれない。これは、能力如何ではなくて性根の問題だ。完璧主義で強欲なんてこれ以上ないほどに酷い組み合わせで笑ってしまう。欲望を入れる器の底にぽっかりと穴が開いているようなものだから、いくら注いでも意味がない。
まあ、考えても仕方のないことだ。
何にせよ4日後を乗り越えることだけに専念するしかないのだ。今はそこに意識を向けよう。
◇
試着室から出ると、真紀奈が満面の笑みを浮かべてこちらを見ている。
「チョベリグだよ!すごいカッコいいよ!」
チョベリグってお前は何歳だと突っ込みたくなるが、彼女に褒められて悪い気はしないので胸にしまっておくことにしよう。
「そんなに?」
「うん」
真紀奈は短い髪を揺らして深く頷いた。
「うん、いい。素晴らしい。わたしの目に狂いはなかった」
手に顎を乗せてうんうん言いながら俺の顔を見ながらそんなことを言うものだから、気恥ずかしくなってしまう。人に褒められるというのは慣れないものだ。
「なら買おうかな‥‥‥どれくらいする?」
値札を見ると、2000円の表示に3割引のシールが貼られていた。だいぶお得らしい。
「どうする?」
「買うよ。俺も気に入ったしな。サンキュー、真紀奈」
「そっかあ。‥‥‥良かったっ」
真紀奈は、驚くほど嬉しそうに、花が咲くようなと形容すべきほどに、顔を綻ばせた。
「結局靴屋行けなかったな」
日がすっかり落ち、黒と紺色がまばらになった空の下を歩く。少し肌寒い。
「そうだねー‥‥‥。でもさ、また今度に二人で行けばいいじゃない。わたしが誘っておいてこんなこと言うのもアレだけど」
「そうだな、また今度来ればいい」
また今度。
その言葉を口にして、喉の水分が失われる。唾を呑むことがうまくできずに咳き込んだ。
「大丈夫?」
「問題ない。そっちこそ、さっきから電話みたいに震えてて寒くないのか?顔も強張ってるし」
「え?だだ大丈夫ぶぶぶ」
思い切りエマージェンシーを身体が発している。どう見ても大丈夫じゃないし、そんな彼女を見ているのは忍びないので、着ていた黒のフリースを差し出す。
「これ着とけ。臭うかもだが我慢してくれ」
「えっ?あ、‥‥‥うん」
寒い寒いと言いながら歩調を早めて、彼女は上着を纏う。サイズが大きいのか、細い指先が見え隠れしていた。
「あったかーい。ありがと、鏑木くん」
「どういたしまして」
「あ、お父さんから連絡きた。『降ろした場所と同じところで待ってます』だって」
「どこだっけ?」
「もうちょっと真っ直ぐ歩いた先かな。ほら、あそこらへん」
「ん?ああ、あそこか」
「鏑木くん、上着貸してくれたけど寒くない?」
「心配すんな。全然寒くないから大丈夫だ」
強がりでもなんでもなく、本当に寒さは感じない理由は知ったことではないけれど。
「へー?」
「ん?」
俺を細目で見ながら、立ち止まった彼女がこちらを見る。
「えいや」
そんな掛け声とともに、ぬるいお湯をかけられたような感覚が左手に染み渡った。
「冷たいじゃん」
右手で俺の手をふにふにと握りながら、彼女はじと目でこちらを見る。
「マジで?」
指摘されてもよくわからない。感覚が麻痺していたようだ。気にするほどのことではないな。
「寒かったら寒いって言ってね?」
「気を遣わせたな、すまん」
「別に謝ることじゃないよ」
彼女は笑って言う。しかし、本当にそうだろうか。迷惑ではないだろうか。
そんな疑問を抱きつつ、手を繋いで歩く。
「あったかい?」
焦燥から必死に目を背ける心までも、手から伝わる温度に優しく包み込まれるように思える。
「もちろん」
「やけに素直だね」
言って、真紀奈は微笑む。
その笑みがあまりにも綺麗で目を逸らす。空を見上げると、満月が白金に輝いていた。
「月、綺麗だねえ‥‥‥」
立ち止まって上を向く彼女がそう呟く。
「宇宙に行ったら、お前はあそこで色々やるんだよな」
「月面基地に長期滞在して、探索して、地図を作って‥‥‥色々、ほんとうに沢山のことをする。すごく大変かもしれないけど、絶対楽しいはず」
「そのために、まずは4年後の試験に合格しなきゃな」
俺は教師で、真紀奈は宇宙飛行士。
目指す所も勉強で身に付けるものも、全てが異なる。別世界といっても過言ではない。何もかもが違うのに、これから彼女の役に立てるのだろうか。
「なあ、真紀奈」
「なに?」
「俺は‥‥‥。いや、なんでもない。そうだ。守一さんも待ってるだろうし、そろそろ行こう」
俺はお前の力になれるのか。力になれなくても、役立たずになっても、お前の側にいていいのだろうか。
思わず弱音が漏れそうになって、訊きそうになるのをこらえて、目線を落とす。
そんなことを聞いてどうする。彼女を自分の慰めに使うんじゃない。目の前の彼女を汚してはならないだろうが。
「鏑木くん、どうしたの?」
「‥‥‥何でもない。行こう」
真紀奈の後を追って歩く。
歩を進めるたびに、彼女の髪が少し揺れる。今まで見なかった光景だ。それと、頭の位置が俺の目線に近づいていることに気づく。
「真紀奈、背伸びた?」
「みたいだね。お父さんにも言われたし、本当に伸びたのかなー?」
言って、あーやだなーと苦笑している。
「背が伸びることの何がそんなに嫌なんだ?」
「ひみつー。少なくとも鏑木くんには恥ずかしくて教えられないかな、なんて」
「なんだそりゃ」
拍子抜けの回答に思わず笑ってしまう。何が恥ずかしいのだろうか。
「なんで教えられないんだ?」
「どうしても鏑木くんには言えないの。こんなの、変だと思われちゃうから」
頬を赤くして彼女は言う。何もそこまでムキになることはないだろうに。
「そうか。なら、また今度教えてくれ」
「言える時になったら、ね?」
「へいへい」
手を繋いで歩く。
見える星が、やけに綺麗だった。