第4話 過去語り_デッドエンド・スタートライン
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「‥‥‥乾いた寒気が肌を刺す三月中旬の朝。だけど窓から見える近くの山は緑色で、空は鬱陶しいほどに青々としていた。朝に弱い人間にとってはありがた迷惑と言っても差し支えない。
真紀奈は、こんな日にもいつものように外を散歩しているのだろうか。
『一心、まだ起きてないの?朝飯できてるから降りてきなさーい』
『もう起きた‥‥‥』
『早くしろー』
『へいへい』
『ああ、』
そういえば、卒業したんだっけ。
真紀奈との思い出以外ほとんど何もない学校生活だったが、すっぱり抜け落ちてしまうと胸の奥に穴が空いた気分になる。
しかし、それもすぐに埋まる。4月からは大学が始まる。そうすれば、なんだかんだで新しい思い出に上書きされていくはずから。
リビングに入ると、炊き立てのご飯と味噌汁の匂いがした。
『一心、おはよう』
『おはよう母さん』
『もうご飯できてるけど』
『食べるよ』
『今日はどうするの?また勉強?』
『やらないかもしれない』
『どうして』
『めんどくさい。あと予定がある』
『真紀奈ちゃん?』
『そう。あいつとお祝い会』
本当に長い長い2年と半年の末に、彼女は希望の大学に合格した。学部は違うけれど、俺も同じ大学だ。
『受かって良かったねぇ。一年生からずーっと頑張ってきたんだから』
『落ちてたら今頃俺は死んでるよ』
マジで死んでると思う。あれだけやってアイツが落ちたら生きていられない。きっと穴に入ってそのまま埋めてもらったことだろう。
『年末年始は二人ともひどかったねぇ。ゾンビみたいだった』
確かにあの時は本当に酷かった。いつもポジティブだった真紀奈の顔からは笑顔が消えたし雰囲気悪かったし。
『まあ、終わりよけりゃ全て良し。ノープロブレムだよ』
『これからが始まりじゃないの』
母がお決まりのセリフを口にする。
『いや、一旦休憩。疲れたし』
合格はスタートだという類の格言は唾棄すべきものだ。全力で走り続けて無理した結果怪我したら元も子もない。休む時ぐらいしっかり休まないと、再び走り出すなんてできやしないし。
『そうやって油断していると大学行って苦労するんじゃないの?』
『まあそうだけど。今日くらいは休ませてほしい』
どうせ苦しみ悶えるのは確定なのだからそこらへんはどうでもいい。
『そう。まあほどほどに』
『分かってるよ。‥‥‥ごちそうさま』
桶の中に食器を入れると、カチャカチャと耳障りな音がした。
『洗わなくていいよ。午前中からやるんでしょ?お祝い会』
『ありがと』
『どこでやるの?』
『レストランと真紀奈の家。夜はクラスの打ち上げ?を焼肉屋でやるから晩ご飯はいいや』
個人的には打ち上げというものがよく分からない。今まで一回も参加しなかったしそもそも誘われていなかったし。自業自得なので悲しくはない。今回のだって真紀奈から聞かされなければ知らなかったので本当にありがたい。
『そう。今日の夜は私居ないから鍵忘れないで』
『了解』
部屋に戻って着替えていると、ポケットから振動が伝わる。
開くと、真紀奈からのものだった。
『待ち合わせの場所ウチに変えてもいい?』
『家出てないから問題ない。どうした』
『ちょっと間に合いそうになくて。ごめんね』
『謝ることじゃないからいいよ』
『ありがとう、じゃあ10時半頃で』
『了解』
間に合いそうにないなんて、アイツにしては珍しい。受験の疲れが押し寄せてきたのか。
『体丈夫だしそれはないか。風邪なんて引いたことなかったしな‥‥‥』
時計を確認すると、すでに10時を過ぎていた。彼女の家は近くのアパートだから問題ないけれど。
不意にピコン、と着信音が鳴った。真紀奈のものではなかったので無視無視。
いつも着ている黒の上着を引っかけて、外へ出る。
○
アパートの2階の玄関前はいつも日陰で、頼りない切れかけの白い電灯だけがそこを照らしている。
チャイムを押すと、調子の外れた電子音が鳴った。
『はーい』
少しくぐもった、しかし明るい人相であることがハッキリとわかる真紀奈の声だ。
『鏑木だ。来たぞ』
『あっ、ちょっと待ってて。玄関空いてるから入って。寒いでしょ』
『サンキュー』
クリーム色のドアを開くと、ギギィと甲高い悲鳴を上げる。前はそのうるささに面食らっていたが、もう慣れたものだ。
入って右手側にある彼女の部屋からは、何かが擦れる音が聞こえる。
『何してんの』
『え?着替えてるんだけど』
さらっとそういうこと言われると困る。別にどうでもいいんだけども、無防備すぎる。
まあ、俺にそんな度胸はないけれど。そもそもコイツをそういう目で見てないし。
『のぞかないでよー』
『覗くわけないだろ!?』
『だよねー。鏑木くんヘタレだし』
『なんでそうなるんだよ‥‥‥というか真紀奈、お前も見られたくないだろ』
『え?別に良いよ。鏑木くんに見られても気にしないから』
『知ってるわい』
イラっとする。なんなんだこれは。コイツにその手の感情を向ける訳がないだろう?二人で勉強していた時の頑張りようをずっと見せつけられてみろ。そんなクソみたいなクソなんて持てねえよ。
『急に黙ってどうしたの?ははーん、もしかしてショックだった?』
『ないない』
『だよねー』
知ってる知ってる、という感じだ。本当に、俺の扱い方を分かっているみたいに。
仮にも2年半一緒にやってきたのだから、そうだよな。
『‥‥‥そうか、もう2年も前になるんだな』
『何が?』
『時間の流れって早いなーと。出会った時が嘘みたいに近く思える』
『どうしたの。そんなおじいちゃんみたいなこと、鏑木君らしくもない。‥‥‥でも、そうだね。この2年間、あっという間だったなー』
『最初の頃は何回も投げ出そうと思った。お前の諦めが悪いからそんなことできなかったけど。泣きついてくるし、しがみついてくるし』
『そうだねー‥‥‥でも、私を諦めてくれなかったよね。アリガト』
『どういたしまして』
薄いとはいえ、扉を隔てていて良かった。
きっと、今の顔はコイツの前では見せられないものだから。
『やけに素直だね。どうしたの?』
『さあ?』
ナニソレ、と笑う真紀奈。理由は俺にもよく分からない。
彼女は引き戸を開けて、
『じゃ、行こっか!』
満面の笑みで、そう言った。
○
『いい天気だね』
晴天の道路を歩く。真紀奈の服装は、白のセーターに紺のジーパンという装いだ。ファッションはよく分からないが、とても似合っていると思う。
『そうだな。桜はまだ咲いてないけど』
『桜、かぁ』
ふと、彼女が声を翳らせた。
『どうした?』
『え?なんでもないなんでもない!』
『なんでもない?そんなバレバレの嘘吐くかフツー』
そうやって言う時は大体なんかある時だ。
2年くらいの付き合いだがそれくらいは流石に分かる。
『あはは‥‥‥』
『どうしたんだ?言ってくれ』
お前の力になりたい、なんて口が裂けても言えないが。
『そんな真剣な顔されると困るなぁ。本当に、大したことじゃないんだよ?』
『それでもいい』
『そっか、ありがと。‥‥‥ちょっとだけ、最近見た夢を思い出したんだ。桜が咲く前に、私が死んじゃう夢を。
身体が冷えていって、頭がぼーっとして、目の前が暗くなっていく。隣には誰もいなくて、寂しくて、怖かった。夢なのに、本当みたいに感じちゃって。‥‥‥おかしいよね、こんなの。もう大学生になるのに』
その顔には、渾身の笑顔を貼り付けている。きっとそれは、せめてもの強がりだ。なんとも痛ましい。
『‥‥‥忘れて忘れて!今日は合格祝いだし、こんな暗い話しちゃってごめんね?』
『別におかしくないだろ、俺だってそれくらいはあるぞ。最近だって剣で串刺しにされる夢見て漏らしそうになったし。つーか、そもそも話振ったのが原因だからむしろ俺が悪い』
だいぶ早口でまくし立てたが、納得してくれただろうか。
『そう、だね。鏑木くんが悪い。そうだね!』
『そうだ、俺が悪い。よし、街に行くか。この話はこれで終わり、後は楽しもうぜ』
『うん!』
その声に、嘘の色はなかった。
○
『シーザーサラダとカレードリアお二つになります。取手の部分が熱くなっているのでお気をつけてください』
『あ、はい。ありがとうございます』
街のビル二階にあるファミレスに入って、俺たちは昼食をとることにした。
暗いムードは、美味いもので吹き飛ばすのが一番だ。
『はい、スプーンとお箸』
真紀奈が向かいの席にいる俺に渡す。
『あ、サンキュー』
『いただきます』
『いただきます』
手を合わせてコールをし、食べる。
『もぐもぐ。やっぱりおいしいね、ここの料理』
『ああ。やっぱりここのが一番美味い』
2年間と少しで数多くのファミレスを回ってきたが、やっぱりここが一番だと思う。
『ここでもたくさん勉強したよねー。店員さんに怒られたこともあったけど』
『ああ、あったな。なんて言われたっけ』
『モノ頼んでくれないと商売にならない。勉強やるだけなら家でやってくれ、だったかな』
『正論だな』
ヘンに取り繕われるよりよっぽど説得力がある。そう言われなかったらきっと無駄に反発していたかもしれない。
『ねー』
たわいのない会話を繰り返すその時間。勉強の休憩に挟まれたそれは、とても暖かいものだったと思う。
『あのさ、鏑木くん』
『なんだ?』
『食べ終わったら、店員さんにお礼言いに行こ』
シーザーサラダに手を付けている真紀奈が言う。
思わぬ提案だった。
『この時間だと迷惑になるんじゃないか?それに、あの時の人がいるかも分からないし。‥‥‥ああ、でも』
確かにお礼はしたいな、と続けると、真紀奈は柔らかく笑う。
『‥‥‥なんだよ』
『鏑木くん、やっぱり素直になったよね。というか、本当に優しくなった』
『そうか?』
俺としては何にも変っちゃいないと思うが。今でも普通に口悪いし、治せる気は全くしない。
だけど、
『そう見えているのならお前のおかげだな。ありがとう』
コイツと出会わなければ、そうはならなかった。それだけは確実に言えることだ。だから、目の前の彼女には感謝しかない。
『‥‥‥‥‥‥ぁ』
『ん?』
見ると、彼女は顔を伏せていて、そして咳払いをしながら胸をトントン叩いていた。
『何してんの』
『ゲホゲホゲホッ、ごめ、水が変なとこ入った、ぁ』
『何やってんだか』
『ゲホ、ゴフッ、んんっ、んん。‥‥‥あー、危なかった、』
咳き込みながら、人差し指で目尻の涙を拭っている。
『大丈夫か?』
『うん。鏑木くんが急にありがとうなんて言い出すから、びっくりしちゃった』
『いやいやいや』
そこまで人でなしじゃねえよ俺。流石にお礼くらいは言える。
『えー言ったことほとんどないじゃん。だいたい『悪かった』とか『すまない』とかでしょう?』
『心当たりがありすぎて辛い』
『だからよけいに驚いちゃった。嬉しいし、恥ずかしいし』
彼女はパタパタと手で紅く染まった頬を煽いでいる。
俺は、そんな彼女に机に置かれていた紙とペンを差し出す。
『?これは』
『ほら、店員の人にお礼言いたいんだろ。だからこの紙に書こう。「長い間ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」って』
『‥‥‥そっか、その手が』
驚いたように彼女は口に手を添える。
『食い終わったし、な』
『うん、そうだね』
ボールペンを走らせて、なるべく丁寧に書く。書いていると、紙面というスクリーンに、ここに通った思い出が映されているようだった。
悩んだり、怒ったり、喜んだり、楽しんだり。
いろいろ、本当にいろいろあった。
それが想起されるたびに、紡ぐ文字の数が増えていって、途中、書き足らないことに気が付いた。
そして、もう一つ。
目の前で筆を走らせている彼女との時間が、自分にとって大きいものになっていると。
『これからも来ます。よろしくお願いします。』
だから、最後の一文は、そう締めた。
○
来た道を逆に、真紀奈の家へと向かう。
午後2時で日は高く登っているが、強く吹く乾いた風は容赦なく身を刺すので結構寒い。
歩道には、俺たちと同じくらいの年頃の人たちがところ狭しと歩いていた。上空から見たら、きっと白や赤や黒のドットの塊に見えることだろう。
『人多いな』、『そうだねー』、なんて言葉を交わしながらゆっくり進む。
『なんでこんな人多いんだか。平日なのに』
『みんな私たちと似たようなものじゃない?』
『ああ、合格祝いとか卒業パーティーとかか』
『それもあるけど、デートとか』
『あー、あるなソレ』
デート、つまりカップル。その類の人間は俺に見えないところで幸せになってほしいと思う。
『まあ、‥‥‥似た‥‥‥な、かな』
真紀奈の声は、道ゆく人々の喧騒にかき消される。
『なんか言ったか』
『え?なにも言ってないよー』
聞き間違いか。
『人混んでるから気を付けろよ』
『うん、』
彼女の少し冷たい手が、俺の手に触れたり離れたりする。
振り返って確認したいが、人間がところ狭しと敷き詰められているこの状況だとそれもできそうにない。
まあ、少しはぐれてもすぐ戻るから大丈夫だろう。
その時、
ジ、
ジ
ズズ
『っ、あ?』
ザザザ
視界に黒々とした裂け目が起こり、その一瞬あとにアナログテレビで時たま聞く砂嵐のようなノイズが耳に入った。
ザ
ザザ
ザザザ
どうやら、気のせいではないらしい。目を瞬かせても、裂け目は消えないし。体調不良だろうか。
早く抜けて、どこかに座ろう。
そう思った時。
ふぉーーーーーーーーーーーん、
『ん?』
そんな音が、後ろからした。それは気のせいだけではなかったらしく。
周りの人々も立ち止まっt破裂音破壊音水音悲鳴衝撃音破壊音悲鳴慟哭水音爆発音悲鳴悲鳴コール音悲鳴足音サイレン悲鳴悲鳴混乱悲鳴悲鳴悲鳴ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
○
目を覚ますと、知っている天井だった。
『ここは』
俺の部屋だ。
あれ?なんでここに。
『‥‥‥あ、目が覚めたのね。もう夜遅くだ』
静かな、掠れた声がした。
『母さん、』
『良かった』
その声は、静かであるが穏やかではない。意気消沈してしまったスポーツ選手が絞り出すようなそれと似ていた。
『母さん、なんで俺はここにいるんだ?街の歩道歩いていて、それからーーー』
『落ち着いて、いいえ。落ち着くなんてしなくていいから、聞いて』
『なに』
何があったのか早く知りたい。
『何があったの?アイツは?』
すると母は、すぅと息を吸って、
『真紀奈ちゃんが、亡くなったわ。車に轢かれて』
意味がわからない。急にそんなことを言われてもなんだそりゃ。
タチの悪いジョークだと思いたいし、最初はそう思った。
でも、目の前の母の貌と声で、それは真実であると信じーーー、信じられるわけねえだろそんなもの。
『んなわけないだろ。ありえるわけがない』
『そう、よね』
母が持ち出したのは、夕刊だった。記憶している日の1日後のものだ。
『は、』
丸一日以上寝ていたというわけか。
一面の大見出しには、『白昼の街中で惨劇』と、白抜きの文字列があった。
どうやら視界を奪われた自動車が歩道に突っ込んで、十人以上の人々を轢き殺し、パニック状態の中でさらに押しつぶされて亡くなった、らしい。
ワイドショーで取り沙汰されているような事故が、あそこで起こったそうだ。
『ありえねえだろ』
笑い飛ばしたいが、記事内にきっちり自分になじみある地名が隠れているのでそうすることもできない。
『被害者一覧』の項目には、死亡者、負傷、重傷者、と分けられていた。
重傷者‥‥‥横へ横へ読み進める。
『いない』
負傷者‥‥‥横へ読み進める。
『いない』
記録を読んでいくたびに嫌な予感が背中を凍えさせる。
いや、そんなもの。ありえるわけがない。
死亡者‥‥‥横へーーー『葦元 真紀奈 さん(18)』
それを目にした瞬間、新聞紙をぐしゃぐしゃに丸めて、ビリビリに引き裂く。
『嘘だ』
ありえるわけがない。だってフィジカル抜群のアイツだぞ?死ぬわけがない。間違っている。
『ハ、ッ。ははっ、最近流行りのフェイクニュースかよ新聞会社もなりふり構わなくなったな。ああこの会社潰れた方が良いんじゃねえの潰れるべきだろ悪質すぎー、エイプリルフールでもこんなウソついちゃダメだよなー!!なあそうだよな母さん!』
自分の声が虚だ。だけどピエロじみたことを言ってなければやってられない。は?アイツが死ぬ?
『一心』
『ありえねえアイツが死ぬわけねえだろ。嘘もここまでくると笑いも起こらねえよむしろ怒りたい気分だなぁオイオイオイ』
『一心!』
突如、母に抱きしめられた。
『なあ、母さん。嘘だよな』
母は喋らない。
『沈黙は肯定ってことだし嘘なんだな』
抱きしめる力が強くなる。
『ちょっと痛い、痛い。嘘ってことでいいんだよな』
母は喋らない。
『なんか言ってくれよ』
そのまま、硬く、硬く。
彼女は本当に長い間、俺を抱きしめていた。
重石のようだと、思った。
○
3日後に彼女の家に向かうと、真紀奈の父に門前払いされてしまった。
『今は、時間が必要だと思う。私、そして君にも』
鉄のドア越しに響くその声は、怒りと悲しみで震えていた。
それが彼女の死を現実だと認めさせたがっているように思えてしまって、たまらず逃げるように立ち去った。
街には向かう気になれず、反対方向にある公園で時間を潰す。
子どもたちは、広場や、遊具を使って、キャッキャと遊んでいた。何を呑気な。
その様子は、俺を理不尽な感情に沈めてゆく。
首を振って、顔を伏せる。地面には紙くずが転がっていた。
何の気なしに拾って広げると、それは古びた大学案内のチラシだった。真紀奈が通うはずの大学のものだった。
無言で丸めて、近くにあったゴミ箱に捨てる。
嫌なものを見てしまった。
再びベンチに戻る。今度は子どもではなく、もう少し遠くの道路を意味もなく見渡す。
道をカラフルな有象無象が通り過ぎていく。談笑しているカップル、犬を連れ歩く男、スーツ姿の女性などさまざまだーーー
あれは。
まさか。
『ーーーっ』
たまらず、走り出した。
白と紺の配色を、その中に見つけたのだ。
『真紀奈、』
消えてしまう前に、追いつかなければ。
『はや、くっ』
しかし。
その背中に近づく度に胸の奥が凍っていって、足が錆びてしまったかのように動きは鈍くなって、立ち止まる。
周りの人間から、好奇と疑心の目を向けられるが、そんなのはどうでも良かった。
胸に風穴を開けられてしまった気分だ。きっと今は、何の喜びも心を満たしてくれやしないだろう。
有象無象に流される。まるで風に吹かれて霧消する塵みたいに滑稽だ。いっそ消えてしまえたらいいと思うのに、それをさせてくれない。
寒風がびゅうと吹いて胸を突き抜けた。
お前の大事な物は永遠に欠けてしまったのだと、残酷なまでに告げているようだった。
○
流されて流されて行き着いた先は、街の外れにある裏路地だった。
そこまで流されて、自分の行為の無意味さに気付いて帰ろうとしたその時。
ズ
ジジジッ
ノイズと黒の裂け目。この前、俺が気絶する前にもあったものだ。
前者は耳が捉える世界を、後者は眼前に広がる景色をズタズタのモノクロに塗り替えてゆく。
それは常識が壊されていくような感覚ーーー例えるならば飯食ってる時に身体に入った食べ物が全てガラスの塊に変わるようなものーーーを五感に叩きつけてきて、気持ち悪い。
ジジジ
雑音だって、これなら夏蝉の方がマシだ。
ザザザ
その中に一つ、足音があった。
それは五、六歩ほどして立ち止まる。
『ハロー、ハロー。愚かで哀れな鏑木一心よ。どうやらご傷心の様子だが、君は奮起せねばなるまい。と言ってもそんなことは現在不可能に等しいがね』
振り返ると、気取ったようなセリフを一息にして放つパーカーを着た長身の男が、夕陽を背にして堂々と立っていた。
『誰だよアンタ。新手の詐欺グループとか?そんな嘘に乗ってられる気分じゃねえから失せてくれ』
邪魔だからどけと手で払うが、動かない。
『あのさ、帰りてえんだけど』
『ふむ?それは嘘だね。君はただ日常をルーティンをこなしているにすぎない。本当は、どこかへ消えてしまいたいんだろう』
哀愁を乗せて、芝居じみた喋り方で男はズケズケと言い放つ。
『なん、で』
見ず知らずの男、しかも大仰に頭のおかしなことを言うような男に心の内を当てられて気味悪い。背中へ氷を入れられたように不愉快だ。
『毛の一本、細胞の一つに至るまで、君のことを知っているからだ。私は君のことを全て、そうとも。全て解っている』
『男にそんなこと言われてもなんと嬉しくねえよ』
『知っているさ。だが仕方のないこと、それが私と君の関係という物だ』
こちらに語っているのだか語っていないのだか分からないような感じで、ヤケに良い声を消費する男。舞台役者なのだろうか。
『演技の練習なら帰ってやってろよ』
『残念ながら私は役者ではない。むしろーーーいや、これは今開示するべきではない。ああ、そんな怪訝そうな顔は向けないでくれたまえ』
『いや無理だろ』
そんなことを言われても疑いは晴れるわけない。怪しいにもほどがあるだろう。
『ふむふむそれはそうだなぁ。では単刀直入に問おうか。鏑木一心よ、君はやり直しを願うかね?』
『はぁ?』
やり直し?やり直しってなんだ。何をやり直せばいいというのか。
フードを深く被った彼は、歌を歌うかのように、しかし笑顔と泣き顔の中間のような表情で、こう続ける。
『私はこう言っているのだ。残酷な運命という蜘蛛の巣に絡め取られ殺された葦元真紀奈を救いたくはないかーーーとね?』
その言葉に対して、困惑の上限がオーバーして絶句したとか、そういうものは一切無かった。
『できるのか』
その五文字がただ、口から発せられていた。
彼は無言でうなずく。
『どうして』
『理由を問うのかい?意外と冷静だな。そうだねぇ、これこそ眉唾な話だ。しかし話さなければ納得しないだろうから仕方ない。‥‥‥鏑木一心、君が葦元真紀奈が死んだことを認めていないから、これに尽きる』
なるほどと思いかけたが、考えてみるとよくわからない。
『鏑木くん、』
『それで俺を呼ぶなんてしないでくれ』
男の言葉を遮って、反射的に言う。
それは、アイツの呼び方だ。他の誰にも許していない。
『悪かった。軽率だったな、すまない。さて、話を戻そうか。もう少し詳しく言ってしまおう、そうすればちょっとは分かるかもしれない。君は彼女の死を実際に観測していない』
『確かにそうだな、でもそれとなんの関係が』
『まあ落ち着いて聞くといい。君は彼女の死を観測しておらず、彼女を救いたいと思っている。生き返らせたい、ではなく。これはつまり、君の中で彼女が死人と果てていないことを意味するのだよ』
当たり前だ。真紀奈が死んだなど信じられない。
『良い心の揺り動きだな。その調子だ。そして私はーーーそうだな、これも信じられないような話だ。だが信用してほしい』
その声は固く、強い。
『ああ』
『私は、この世界を外から観測している。そして、君を過去へと飛ばす力を持っているんだ。意識だけだが』
『やり直しって、そう言うことか』
つまり時間移動か。そういうものだと受け取っておこう。
『信じて、くれるかね』
『信じねえが別にいいよ。アイツを助けられるのなら悪魔にだって縋り付いてやるさ』
その答えに、彼は短く笑う。
『良い情念だが、この道行きは地獄だ。何度も、自分の無力さと向き合わなければならない』
『自分が無力だなんて知ってる。地獄だろうがどうだって良いから早くしろ』
アイツが欠けていることの方が地獄だ。
俺は、真紀奈が居ないことに耐えられない。
『本当に、いいのかい』
『ああ、とっととやれ』
彼は、俺の頭に手を乗せる。
すると、脳から何もかもがずるりと引っこ抜かれる感覚がしてーーー
『ガ、、ッアア!!!?』
酷い吐き気と痛みが俺の身体を覆っていく。
『辛いか』
『見りゃ分かるだろ、ぅ、が』
『もう一度問おう。‥‥‥耐えられるか?』
『あ、たりま、えだ』
その無様な声に彼は笑って、
『さあ、世界に抗え。その無謀は美しいのだから』
ポエムとも思えるエールを送った瞬間。
激しいノイズとともに、俺の意識は断線した。