8話 ダイダロスと誘蛾灯
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目を覚ますと、くぐもったエンジン音が聞こえた。まだ車の中にいるらしいのを、背中に伝わる微振動で知った。
「よく眠れたかい?」
通り過ぎる街灯が眩しく感じなくて、『治療』が上手くいったのを実感する。
「はい。ところで今はどこら辺なんですか?」
「高校の近く。だからあと15分くらいかな」
「そっかー‥‥‥」
左側の窓からは見慣れたコンビニと、しみったれた自分の顔が見えた。
身体の虚脱感や疲労感は消えた。精神的にも、黒々しい澱みは無くなっている。確かに『治療』は済んだのだろう。
正直な話、真紀奈への感情は崇拝だと糾弾された時、理解はできたのだ。
真紀奈に弱い所を見せたくないと思うのも、彼女の役に立ちたいと思うのも、それが根元だというのは筋が通っている。自分では名付けようがなかったその感情にしっくりくるものを付けられて、爽快感すら覚えたほどだ。
だからズレはなくなって、オレンジ色の街灯も、隣を追い抜くバイクのエンジン音も、全てが適正に感じられるのだろう。
だけど、まだ何か抜け落ちているような気がする。不調ではなく、別の引っかかりがある。
「‥‥‥」
住宅街を横目に流していると、車が止まった反動で身体が少し前に傾いた。家に到着していない筈だが、どうしたのだろう。
「守一さん?」
彼は、右肩からシートベルトを外す。
「一心くん、ちょっと外に出よう」
「真紀奈は‥‥‥」
「‥‥‥かぶらきくーん。この服似合うよー‥‥‥むにゃむにゃ」
見ると、後部座席を占有してぐっすり寝ていた。何やら寝言を言っている。
「じゃ、起こさないように出ようか」
「そうっすね」
男二人でひそひそ言葉を交わして、こっそりと夜空のもとに足を下ろす。
外に出ると、乾いた寒風が身体にからみついた。身を抱くほどではなかったが、風邪を引いても困るので上着のチャックを首元まで締め切る。
「あそこに行こうか」
「あ、はい」
少し歩いて公園に着くと、木製のベンチに腰を下ろしたので、空いた横にお邪魔する。自分たちを照らす白い灯に蛾がたかっているのが、不快だ。だが、同族嫌悪であることに気付いて笑ってしまった。他人から見れば俺もこんなものだろうか。
「わざわざこんな寒い中済まないね」
「いえ、そんな事ないですよ。どうしたんですか?」
「一心くん、ありがとう」
「え‥‥‥?」
急に頭を下げる彼にぎょっとして、否定の言葉ばかりが頭に浮かぶ。
何かお礼を言われることなどした覚えがないし、むしろ言いたいのはこちらの方だ。‥‥‥まあ、決して言えない感謝だが。
よく分からず戸惑っている俺に、黒いスーツの守一さんは「真紀奈の事だよ」と寂しげに笑った。
「あの子のために、俺は何もしてませんよ。頑張ったのは真紀奈ですから」
「またまたそんな‥‥‥、何もしていない?」
そんな事はないと言いたげな彼に「そうです」と強く頷く。
だって本当に『真紀奈のため』ではなかったのだから。初めはどうであれ、いつの間にか彼女を崇拝の対象にするようになっていた。それは事実なのだ。
「本当にそう思っているのかい?」
「‥‥‥はい。
『お前のやってきたことは自分のためでしかない』って言われた時、妙に腑に落ちたんですよね」
「そうかあ」
星を見上げて何度か頷いたのち、彼はこちらを向いて問いかける。
「で、一心くんはどう思っているんだ?」
「え?」
「納得させられたのは他人の言葉だ。君自身はどう考えているんだ?」
「‥‥‥俺が、?」
果たしてそれに答えて意味があるのかと、疑問が頭蓋骨の裏を走る。完膚なきまでに叩きのめされて、ぐしゃぐしゃになった思いは今更どうしようもできない。
「納得してないだろう」
「‥‥‥そりゃそうですよ。でも、きっと正しいんだ。どうせ俺の考えなんて間違ってるんです」
自分が固執した物ほど誤りなんて事はザラにあった。真紀奈への評価だって、的外れだった。だから、これもそうなのだ。
そんな予想に「そうかもね」とあっさりと肯定した彼は、こう続けた。
「で、それが?」
「え?」
「こういうのは合ってる間違ってるの話ではないだろう。君が納得できるかどうかの話さ」
「だから、納得するしかないじゃないですか」
たとえ認めたくなくても、受け入れて納得するしかないものだってある。できるできないではなく、しなければならない時であるはずだ。少なくとも今は、そこに着地させるしかない。「崇拝」というラベルを付けて、ブレないようにするのが最善である筈だ。
「『自分は間違ってる。だから他人が言っているほうが正しいんだと認めよう』なんて、ただの思考停止じゃないか?」
守一さんの声がだんだんと堅くなっていく。それは、今の俺にはなによりも突き刺さってしょうがない。
「解ってます。でも、それでいいんです。俺は、そんなのでいい。‥‥‥後で直せば良いんですから」
付ける薬も無いのにそんなことを言っていて、胸が冷たくなるのが分かった。
だけど今は、自分の事は後回しでいいから、納得できなくても、するしかないのだ。
「直せないよ。これから先も、絶対に無理だ。そもそも、直す必要がない」
「なんで、言い切れるんですか」
「意味がないから」
言われて首を傾げる俺に、彼は、地面を指差して静かに訊く。
「この蛾は、なんで死んだと思う?」
翅を折り畳んでピクリとも動かない羽虫は、白い光に照らされていた。
「電灯に当たったからじゃないんですかね」
「なら、次。この蛾に人と同じような心があったと仮定した時、なんでこの子は光を求めたと思う?」
蛾がなぜ光を求めたか。
それは、おそらく。
「‥‥‥明るくて、羨ましくて、自分もそうなりたかったから、だと思います。結局は死んじゃいましたけど」
全くもって愚かしい。
輝かしくて、羨んで、追いつこうとしたそれは、身の程を弁えていない大馬鹿だ。本当に、馬鹿馬鹿しい。
嘲りを込めて答えると、彼はなるほどと頷く。
「僕は、死ぬことが解っていても、追いつきたかったんじゃないかと思う。敵わなくても、そこには譲れないものがあったんじゃないかなって。
まあ、こんな話は無意味なんだけど」
「え」
乗っていたハシゴを外されたような気分になる俺に、ごめんごめん、と笑いかけながら守一さんは言う。
「だって、これは結局推測にしかすぎないだろう?そもそも蛾に思考する機能があるかなんて分からないし、仮にあったとしても僕たちと同じような考え方をするとは限らない」
「それはそうですけど‥‥‥」
「そして、これは人間でも変わらない。君という人間と一から十まで同じ思考をする人間なんかいない。君の行為の理由もそいつの推測でしかないんだよ」
「でも、そんなのは身勝手じゃないですか」
守一さんは、「その通りだよ」とうなずく。しかし、「でもね」と続けた。
「そんな物に納得しちゃいけない。君が作り上げた物には、君自身が名付けるべきだ。
たとえ全てを知ってる神様がいたとして、そいつが『お前はこういう奴だ』ともっともらしく振りかざしてきても、それは一心くんの物じゃないだろう?」
「でも、周りからその神様の通りに見えていたらダメじゃないですか。『真紀奈を私欲のために利用している』なんてのが周知の事実だったら、そっちの方が正しいんだ」
「それが事実だったらね。‥‥‥少なくとも僕は、君をそんな風に思ってはいないよ。仕事でそんな人を沢山見てきたけど、君はそうじゃない」
「でも、真紀奈は」
「思ってない。少なくとも、そんな話を僕にした事はない」と守一さんは断言する。
きっと嘘ではないのだろう。この人は真紀奈を大切な娘だと思っているから。
「でも、本当は思っているかもしれない。アイツはそういう事を言った所を見たことはないけど、心の中では」
吐きそうになるけど、言わずにはいられない。それが崇拝から来る物でも、だ。父の彼が目の前でも、失望されるとしても、もう止められなかった。
言い終えて、沈黙。
そして、彼は静かに笑う。
「‥‥‥そんなに不安ならば。娘に、今言ったことを全部話して、それから聞きなさい」
「でも、それは」
「僕は君の中の問題だと思っているが、君にとっては真紀奈がどう思っているかが大事らしい。だったら、本人に聞くべきだよ」
「‥‥‥そうですね」
頷くしかなかった。
「さて、そろそろ戻ろうか。冷えてきたし」
席を立った彼に、着いて行く。
体は軽い。だってのに、錘が巻き付いているようだった。




