1話 混沌世界、穏やかな日常
‥‥‥外は暑そうだが、買い物に出かけた未空は大丈夫だろうか。まあ大丈夫だろう。
年がら年中長袖で動き回る妻を思いながら、陽炎で揺らぐ道路を見る。
気温のインフレ真っ只中の8月中旬。
そこかしこで賑わいを見せている静岡市には、立地も何もかも無視してーーーそう、海の上さえもビルが乱立している。
まあ、さほど珍しくもないことだ。
10年前、ある一つの出来事によって考えられなかった事象が次々と発生し、世界の有り様は一変した。全く、人の想像力とは恐ろしいものだ。
決して他人事ではないのだが。
炎天下を嫌った自分は、部屋のソファに寝転んで、愛猫のシロマルを身体に乗せて休日を過ごしていた。
「よーし、よしよし」
眠そうな顔をして膝の上で丸くなるシロマルは、名前の通りに白い丸、というより白い球体のようだ。
背中を撫でると、にゃおんと鳴いて背中をさらにキュッと丸くする。撫で続けると、それから逃れるようにして身をよじらせながら胸の方に寄ってきた。
「おーよしよしよしよしよし」
片腕で誘い込むようにシロマルを抱く。
前脚を寄せて服をガリガリとしてきたので、彼女の爪が傷つかないように引き離す。
するとシロマルは少し高い声で鳴いて、部屋の外へ、するする走っていった。
「あーあ行っちゃったー‥‥‥」
「おーとーうーさーん!」
逃げ出したのにちょっと落ち込んでいると、猫と入れ替わるようにして、パタパタという足音とともに快活な子どもの声が部屋に響いた。
「どうした叶助。夏休みの宿題やってたんじゃなかったのか?」
「疲れたからちょっと休むつもり」
小学3年生の息子は、眉間に人差し指と親指を当てながら答える。
「なんで俺のところに来たんだ?」
「きちゃダメだった?」
「いいや、何にも悪くない」
理由は?と聞く前に、叶助は
「お父さんにききたい話があるんだけど」
と先回りして答えた。察しの悪い自分に似なかったのは良いことだと思う。
「何を聞きたいんだ?勉強でわからないところでもあったのか」
「そんなわけないじゃん。この前のテスト100点だったし」
「聞いてなかった。すごいじゃないか、今日は焼肉だ」
「やったー!‥‥‥じゃなくて、お父さん」
高い声を少し抑えながら、本題に引き戻そうとする叶助。そのままなあなあにするつもりだったがダメだったか。
「じゃあ、何を聞きたい?俺が話せることはあまりないぞ」
「お父さん、昔の話をしてよ」
居合い抜きの達人よりも鮮やかに、本題の話を持ってきた。
「‥‥‥。なんでだ?」
「だってこの前お酒飲んで帰ってきたときに『おれの昔はすげーんだぞワハハハハー!!』ってじまんしてたから。あ、その後お母さんに水かけられてたけど」
「それ本当か?」
「うん」
叶助はヘッドバンキングをするように頷いた。
この前の自分を恨みたい。
「俺の昔についてお母さんは何か言ってたか?」
息子は首を横に振った。
「知らないって言ってた。お父さんの話をお母さんが知らないのっておかしいじゃん」
「話してないからなぁ‥‥‥」
それは話せない、話したくないというもっと情けないものだけれど。
常に先に向かって進む冒険家のような人だったのが幸いだ。
「じゃあぼくに話ししてよ。どうせお母さんに話せないんでしょ」
「うげ」
飾り立てずに核心を突かれ、大ダメージを受けた。
この年頃の子どもというのは容赦なくカサブタを剥がしてくる。大人にはない攻撃力だと思う。というかあったらダメなやつだ。
「うーん‥‥‥どうしようか」
彼女ーーー未空に対して悪い気もするし、自分自身を裏切るような気持ちになった。
前者はともかく、後者は悩ましいところだ。
くだらないこだわりだと捨て置くことは簡単だが、どうしたものか。
「きかせてよ!さもないとお母さんの前で同じこときくから」
それは非常に困る。
「そんな脅しどこで覚えたんだ‥‥‥」
「この前よんだ本にのってた」
「最近の小説はどうなってるんだ」
「面白いよ!お父さんは昔のばかりを読んでるから分かんないだろうけど」
「バレたかぁ」
「だって、本だなにあるの全部黄色くなってるし」
「よく見てるなあ」
そう言ってしまうのは、自分が無意識のうちに目の前の息子を見下しているからだ。
きっと、差があるのは知識の量だけであるというはずだろうに。‥‥‥まあ、今考えることでもないか。
「なんで昔のばかりよんでるの?」
「昔のも面白いんから。というか読まなくちゃいけないんだ」
「なんで?」
「それはな‥‥‥うーん」
「なんで?」
好奇心が強いのはいいことだし、こうやって目をキラキラさせて聞いてくれるのは嬉しいが、俺の逃げ場が無くなってしまうのは困り物だ。
できるなら答えたくはないが期待に応えなければならない気もする。
もう、こうなっては仕方ない。
「それはな、俺の過去に関係があるんだよ」
決心して言う。
叶助は「そうなんだ?」と首をかしげて、要領を得ない顔をしていた。
「それじゃあ、今から昔の話をするから座りなさい。めっちゃ長いぞ」
「ほんと!?」
「ほんとだ。おい、揺れるな揺れるな。バネ出てきたらケガするぞ」
「はーい」
動きは静かになったが、彼の声は弾んでいる。よほど嬉しいのだろうか。
ごめん、過去の俺。だけど目の前のこの子が喜んでいるから許してくれ。まあ許してくれるだろう。
「じゃあ、始めるか。‥‥‥その前に、ひとつ約束をしよう。これは俺とお前だけの秘密の話だ」
「男の約束だ!本でよんだやつだ」
「そういうことで頼むぞ」
「はーい」
日差しが強くなってきたので、薄いカーテンを閉める。ついでに照明を消して、座り直す。その方が雰囲気も出るだろう。
「早く早くー!」
「そんなに急かすな。‥‥‥よし、始めようか」
目を閉じる。
思い返すは、夏の日の残像。
この世界と変わらない街並み。うだるようなあの日の暑さ。変化にあふれた日常。どうしようもない悲劇。
すべて、すべて覚えている。
そして、忘れてはならない。忘れられるはずもないだろう。悲劇に酔った痛々しい感傷なのは知っているが、それでも深く刻みつけなければならないはずだ。
大切なその世界。
そのすべては、俺が壊してしまったことを。