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水の証


さてまた一仕事だなと、ヒビキはダニエルを見る。


「……これは大変な事をお願いしてしまい……」


ダニエルはヒビキの視線を責めているのと感じたのだろうか、頭を深く垂れて謝罪する。


だがヒビキはダニエルのヒジの傷がどの程度であったかを確認したいだけだった。


ジャックに対して、アリスのヒールは自分以外にはさほど効果がないと言った直後の出来事だ。


つまり逆に言えば、今アリスが直したダニエルのケガは”さほど効果がない”程度の治癒との範疇という事になる。


擦り傷、切り傷、打ち身や捻挫ぐらいまでならその範疇でもいいとは思うのだが。


ヒビキが見たところ、ダニエルのヒジに負傷の形跡はない。


もともとその程度のケガだったのか、それとも痕跡すら消すほどのヒールを披露したのか……。


「ダニエルさん。お怪我の方は良くなりましたか?」


「……ハッ。古い傷でありましたが……このように動かしても痛みの気配すらなく完治いたしました」


「お、おい、ダニエル、そのヒジ、骨を砕かれ、歪んでいたはずでは?」


「ついでに言うなら裂けた皮膚を縫った跡すら消えているよ。まさに神の御手のごとくだ……」


つまり皮膚を裂き、骨が砕かれ、動かすだけで痛むような古傷をあとかたもなく治した、と。


「……か、かみのみて……」


そして抱き着いたまま、神の御手、というフレーズにピクンピクンと反応する姉。


今回の一件をさらに深く理解してしまったヒビキは、不時着先を考えに考える。


まずこの神の御手様の髪はすぐ元に戻るのだろうか?


今は元来の黒髪を魔道具のペンダントで金髪に見えるよう幻惑魔法がかぶせてある状態のはずだ。


それがさらに蒼くなるというのは、どういう効果がどう上書きされているのだろう。


ちょうどよく抱き着いているアリスの胸元に手をやり「くすぐったいですよ、ヒビキ?」という姉の声を無視して、ペンダントに触れて確認してみる。

 

するとベンダントが逆流した魔力の過負荷に耐えられなかったのか動作を止めていた。


「げ……」


もし故障であれば、さすがにマズいとヒビキが汗ばむ。


ヒビキと違いアリスは自身の容姿を変えられない。


黒髪黒目の人間というのはこの世界に存在しないのだ。


黒を身に宿すのは魔族のみ。万が一それが人の姿とうり二つであれば――魔人の王、魔族の王族である。


それが人間にどれほど知られているかは定かではないが、少なくとも人間ではない事は明らかとなる。


ヒビキはすぐにペンダントに魔力を充填する。


「お……おお」


感嘆の声はジャック。


「アリスさん……良かった!」


安堵の声はダニエル。


「……アリス、大丈夫です。いつものようにもう戻りましたよ」


いつものようにも何もないが、しつこいくらいに日常的である事を繰り返しておく。


「いつものように? そ、そうですね、いつものようにですね!」


ハッとして、キリっとなったアリスが、自分の金色に戻った髪を確認してウンウンとうなずいた。


このまま、良かった良かったと事がおさまれば万々歳であるが、やはり甘くはない。


「ヒビキさんはさきほど貴女以外には効果が薄いと言われました……ですが、むしろ素晴らしいまでのお力と思いますが……?」


ジャックの問いも当然だろう。


ヒビキは笑顔で口ごもる。


どうしようか? どうでもいいか? どうにでもしてしまうか? と心で三択をしている中、ダニエルが割って入る。


「相棒、問い詰めるような真似はよせ。今の相棒には見るべきものが見えていないぞ?」


「……ッ! そ、そうだな。ヒビキさん、大変失礼しました。もとより貴女方の事は内密にというお約束も反故にし、かつ国にご助力を頂くというお言葉まで頂いていたというのに、私は大変な失礼を!」


なにやら問答じみたダニエルの叱咤は、ジャックを震えさせるような内容だったらしい。


ヒビキは己の心中の三択よりも枠外からやってきた、どうにかなってしまった、という幸運にのっかることにする。


「いえ、お気になさらず。ダニエルさんもそう恐縮される事なくお気楽にどうぞ。姉はわがまま……に優しいだけですから」


わがままです、というと今も抱き着いている神の御手様が機嫌を損ねるかもしれないので、無理やり表現を変えておく。


「わがままに優しい……なるほど、言い得て妙ですね」


「ああ、だが、素晴らしい。実に奔放で無邪気なアリスさんらしい」


そんなにいい事をいったつもりはなかったが、騎士の二人が納得しているからそれでいいかとヒビキは胸の中のアリスの背中をポンポンと叩き、ジャックに言う。


「それでは戻りましょうか。色々とありましたし、少し休みましょう」


魔草を採りに来ただけの湖でとんだ大冒険になったものだと、ヒビキは湖を振り返る。


「そうですね。色々とありすぎた一日でした」


ジャックもまた湖を見る。


一日といってもまだ日も暮れていないが、死も覚悟した時間の流れというのは短くても長く感じる。


「五体満足で帰れるとはなぁ」


むしろ元気になったぞ、と軽口が戻ったダニエルが右腕を回しながら湖を見る。


「……あの、ちょっと、血とか臭いすごいので……早く帰りましょう?」


落ち着いたせいか、ようやく自分の乗る舟の周囲にまで流れてきた魔蒼魚の肉片と、それが漂わせる血臭に気付き、口元をおさえぎみに座り込むアリス。


魔蒼魚のせいで散り散りに逃げていたピーラニッアたちも、無数に浮かぶその肉片に舞い戻り、あちらこちらで浮かんでいた肉片がしぶきとともに水中に引き込まれていく。


さらに空には水鳥の群れ、星流れたちも戻ってきて空から一直線に魔蒼魚の肉片をついばみに落ちてくる。


「星流れもピーラニッアも戻ってきたぞ。数が多いし危険だ。相棒、漕ぐぞ」


「おう」


目的は湖面の肉片とは知りつつも、さすがに空と水、療法から肉食の群れに囲まれるというのは良い気分ではない。


そしてヒビキの目は湖の奥からやってくる新たな群れの影もみとめていた。


「ワニも戻ってきてますね」


「ワニ?」


しまったここでは初見の生き物だったのを忘れていた、と素でワニという名前を口走ったヒビキは、慌てたそぶりなくフォローする。


「あの大きな口の生き物も戻ってきてますね」


「ああ、あれはワニというのですか?」


「そうなのですか?」


ヒビキはあえてとぼける。


ジャックはとても気が利く男というのは今までのやりとりでわかっている。


「ヒビキさんが今、そうおっしゃったのでは?」


「そうでしたか?」


「……ああ、いえ。聞き違いのようです。失礼しました」


ヒビキは微笑み、ジャックは小声で「ありがとうございます」と礼を言った。


ヒビキはこれ以上、姉が愉快なイベントを起こさないように隣に座る。


騎士の二人は姉妹が腰を落ち着けたのを確認した後、全力で漕ぎ始めた。


舟が肉片の浮かぶ中を通り過ぎる中、無数に浮かぶ魔蒼魚の破片に混ざるようにして青く光るものが湖面に浮いていた。


それを見つけたヒビキが拾い上げると、青い石のはめられた美しい指輪だった。


「なんだこれ?」


なぜこんなものが水の上に浮かんでいたのだろうと疑問に思いながら眺めていると、浮力を失ったようにしてヒビキの掌に重さがよみがえる。


「ヒビキさん、どうかしましたか?」


ジャックが声をかけてくるが、ヒビキはなんでもありませんと微笑み、指輪を手の中に握り込めて隠す。


何か面倒なアイテムだという予感が走ったのだ。


「ヒビキ、ヒビキ」


「なんですか?」


トラブルの元になりそうな指輪をとりあえず胸元にしまいこみ、アリスに向き直る。


アリスは我慢できないとばかりに、クスクスと笑いながら小声で、しかし自慢げに。


「神の御手、だそうです」


「気に入ったんですか?」


「ふふふ、うふふ」


「気に入ったんですね」


蒼炎の巫女、なんて名前を予定していたがアリスが気に入った名前があるならそちらの方がいいだろう。


姉妹で蒼炎の翼、というのもちょっとカッコつけすぎかもしれない。


しかし神の御手とは。


魔人でありながら、魔王の娘でありながら、神を騙るというのもなかなか皮肉めいていて面白い。


「神の御手。では、そのように――蒼炎の巫女とか蒼炎の翼というのは少し仰々しいですしね」


「え? ヒビキ? それは私の事ですか?」


きょとんとしつつも、しっかり耳には届いていたらしい。


「ええ。アリスを蒼炎の巫女として、私と合わせて一心同体で蒼炎の翼とかどうかな、と思っていましたが」


「あ、ちょっと待ってください。待ってくださいね。それはそれでちょっといい感じではないですか?」


「私は、神の御手、いいと思いますよ?」


「そうですか? そうですよね? やっぱりそう思いますか? じゃあ、神の御手でいきましょう!」


全力で漕ぎ続ける騎士達に、姉妹の内緒話は風のそよぎほども届いておらず、やがて四人はディアジオ達の待つ岸にたどりついた。


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