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弟の幸せ


神の奇跡。


そうとしか思えない光景だった。


ダニエルは己が目を疑うような光景を前にして、ただただ震える。


うら若き美貌の乙女は、幼子をあやすような優しい言葉で、その妹の大けがを治したのだ。


それも一瞬、まさに瞬く間の出来事だった。


相棒のジャックもまた驚きを隠さず、傷が癒えたように見えるヒビキの安否を問うている。


二人の会話からは、今の治癒術に対して、そしてこの国に訪れつつある苦難への協力、そういった内容が聞き漏れた。


ダニエルはその側で、満足そうな笑顔を浮かべているアリスを見る。


外見からはなんの変哲もない杖、むしろ質素にすら見える杖で駆け出しであれば妥当というものだ。


むろん、それが優れた力を隠すべく、故意にそう見えるように作られたという可能性もある。


だがそれは力を隠したい者であれば、そうするであろうという可能性だ。


彼女たちは名も顔も隠しておらず、冒険者ギルドにも登録している。


であるならば、むしろ自分たちの力を宣伝しても不思議ではない。


「むむ……」


であるならば、さきほど見せた治癒の力は杖に依存するものではなく、アリス本人の力ではないだろうか。


「しかしこれほどの治癒術をお持ちとは」


ダニエルは疑問というより感嘆をにじませ、暗にヒビキに問いかけた。


どういう治癒術で、どれほどの効果があるのか、日に何度使えるのか。


などと直接に問うのではなく秘密の多いであろうヒビキが、自分から応えられる範囲で教えてもらえれば、という意図から出た言葉である。


「ダニエルさん。申し訳ありませんが、これほどの治癒効果を発揮するのは私に対してのみです」


「……なるほど。色々と合点がいきます」


あまりにも劇的な効果ではあったが、姉妹、もしくは一族間でのみの効果という事だろう。


そういった術は珍しくはない。ゆえに別の疑問が生まれる。


あれほどの効果がないにしろ、ヒビキ以外の対象者にはどれほどの治癒効果があるのだろうか、と。


ダニエルには古傷がある。


かつて負った名誉の負傷ではあるが、騎士たるもの命をも国捧げているのだから後悔はない。


それでも、この傷が原因で任務に支障をきたす日が来るかもしれないという不安はあった。


ダニエルはヒビキとジャックが真剣な表情で話し合っている中、ニコニコと微笑みながら待っているアリスに問いかけた。


「アリスさん」


「はい? なんでしょう?」


常に笑顔のアリスではあるが、今のアリスはそれでもなお機嫌の良い笑顔であった。


妹のヒビキが大戦果を挙げ、その傷も癒した後であるから、歓喜と安心があるのだろう。


「誠に不躾なお願いだとは思いますが……もし、叶うのであれば、私の傷を癒してはいただけませんか?」


ダニエル自身、今までの自分とは違う、かしこまった言葉使いをしてしまう。


真面目すぎるきらいのある相棒とバランスをとるようにと、なるべく砕けた雰囲気を意識しているダニエルではある。


だが、やはり神のごとき奇跡を顕現させるような相手となると、緊張を感じてしまう。


自分の身かわいさに、国の救世主になるかもやしれぬ相手に、勝手にこのような願いを口にして良いのかという罪悪感もある。


「あ、いえ。やはり貴女のような……神の御手を持つかのような術師様に失礼いたしました、今のは聞かなかったことに……」


口に出してみて、やはり前言を翻した。


あれほどの力を振るうならば、それに応じた大きな代償があるかもしれない。


だがアリスのように心優しいヒーラーであれば、それにかまわず術を使うかもしれない。


ダニエルは自分の考えなしの言動を恥じた。


「……神の御手……神……御手……」


しかしアリスは何事か小さく呟き、すぐに顔を上げて、嬉しそうに胸を張った。


「ふふふ。この神の御手、アリスにおまかせです!」


「アリスさん……」


あえて調子に乗った駆け出し冒険者のように振る舞い、自分の戯言を真似てまで安請け合いするアリスにダニエルは救われた。


そして、神のごとき慈悲を与えんと杖を構え直したのだ。


「それで、どのあたりが痛むんですか?」


「あ……はい、左腕の……ヒジ関節を。以前、ここを魔狼に食い破られまして……」


そでをまくっていくと、ダニエルの左ひじには大きな皮膚のただれがあった。


大きく皮膚が裂かれ、それを縫った跡だろうか。


ひきつりもあり、骨や筋肉の位置もずれているようで、動かすだけで痛みや支障もありそうだ。


「痛そうです……ですが、それもおしまいです!」


アリスの治癒の術に代償があるのかどうかはわからない。


それにヒビキ以外には効果が落ちるという話であるから、術をかけてもらった結果、何も変わらないかもしれない。


「痛いのー、痛いのー……」


けれども、こうして、優しく手でさすられるだけで、古傷から痛みが消えていくような感覚がある。


まだ術は完成していなのだから、それは治癒の力ではなく、アリスという優しい少女の心遣いだろう。


「痛いのー、いったいのぉー……」


ヒビキの時よりも呪文が長く、逆の手でかざしている杖からも何やら蒼い明滅が始まっている。


「いーたいーのー……いたーいーのぉー……ッ!」


まるで三流の舞台役者がセリフに力を込めすぎているような雰囲気だが、ダニエルはそれが自分という第三者に対してのヒールだからだろうと認識する。


ヒビキ相手であれば一息ほどの短い呪文を、自分に対しては何度も繰り返して唱えている。


何度もさすられるヒジは、やがてほのかに熱を帯びたように温かくなっていく。


やがて。


「痛いの! 飛んでッ! いっけぇー!」


アリスがさすっていた手を虚空へ降った瞬間、ダニエルのヒジにひときわ熱い、むしろかつてそこに味わった痛みが走った。


ダニエルはうめきながらヒジを見て目を疑う。


そこにあったはずの傷跡は消えていた。ずっと抱えていた鈍い痛みとともに、一切がなくなっていた。


「な……ア、アリスさんッ……え?」


ダニエルがアリスを見た瞬間、持っていた杖に縦に裂けるがごとく大きなヒビが入る。


「あ、あわっ!?」


アリスが驚き、二つになりそうな杖をあたふたとおさえる。


だがダニエルの驚愕は杖を見ての事ではなかった。


「……ア、アリスさん、それは一体? その髪はどうした事ですか?」


かすれたような声でアリスの名を呼ぶダニエルは見たのだ。


杖にヒビが入った瞬間、アリスの髪が瞬時に蒼く染まったのを。


「え、か、髪ですか? あ、あら、あれれっ? えっえっえっ?」


自分の長い髪をすくうようにして見たアリスが、蒼く染まった自分の髪に驚いていた。


つまりこれは彼女にとっても想定外なのではと。


魔力に関わる事故の可能性すらあると考え、すぐにジャックを呼ぶ。


「あ、相棒!」


ヒビキとジャックがこちらを見て、二人とも目を見開いた。




***




一難去ってまた一難。そんな言葉がヒビキがかつて生きた世界にはあった。


今日だけでも三難か四難くらいはうまく処理して、もうそろそろひと段落だろうと思っていた。


アリスが色々と愉快な状況にしてくれた中でのジャックとの会話も、なんとか色々とうまく都合もつける事ができた。


むしろ今後の冒険者生活に役立ちそうなコネになるかな? というぐらいに好調に終わりそうだった。


そんな幸運も味方したような展開だったのに。


甘かった。


姉はそう甘くない。


自分の考えが甘いだけだった。


「アリスさん……!? その髪はいったい?」


ジャックがアリスの髪の色に釘付けになる。


大きめの舟とはいえ狭い空間に四人だ。密着しているほどではないものの、すぐ近くでこんな急変があれば驚きもする。


かくいうヒビキもジャックというの会話に集中しすぎていて、どうしてこうなっているのか経緯すらわからない。


素早く状況を確認する。


なぜか髪が蒼くなっているアリス。


アリスの手には今にも真っ二つになりそうな例の杖。


そして自分のヒジとアリスを交互に見つつ驚いているダニエル。


「……ああ、だいたい理解した……」


ダニエルが自分のケガを治してほしいとアリスに頼み、調子にのったアリスが例の杖を使ってヒールをした、と。


なかなか治らず、魔力を込めに込めた結果、ケガは治ったものの抵抗値だけが取り柄の杖が耐え切れず爆発。


いや、アリスの髪が魔力を帯びて蒼くなっているところを見ると、逆流したのだろうか。


ともかくそんな流れでこういう有様になったのだろうとヒビキは考える。


アリスの髪が蒼くなる、という突然の展開にさきほどは驚いてしまったが、大丈夫、まだ巻き返せる、まだ致命傷ではないとヒビキは自分の声に落ち着きを取り戻すべく深呼吸をする。


そしていかにも、仕方ないがないなぁ、あ、よくある事なんですよー? という雰囲気を出すようにしてアリスの髪を撫でる。


「アリス、また一度にたくさん力を使ってしまったんですね? 蒼い髪のアリスも素敵ですけれど、目立ってしまいますから控えてくださいと言ったでしょう?」


と、騎士達に向けて、困った姉です、という苦笑を浮かべつつ、いまだ慌てているアリスをなだめる。


いつもの光景、何でもない出来事だといわんばかりのヒビキのアピールに、ジャックとダニエルの顔からも驚きの表情が抜けていく。


依然、驚いたままの顔なのはアリスだけである。


「アリス、大丈夫ですよ? 大丈夫ですからね?」


「ヒ、ヒビキ、怒ってませんか?」


「なぜ私が怒るんですか?」


さすがに今回はちょっとだけやらかした自覚があったアリスだが、それを聞いてもまったく怒っていない態度のヒビキにようやくアリスは安堵する。


アリスにとって髪が蒼くなろうが、金色になろうが、色々と二の次であり、アリスが最もおそれる事は一つ。


いつも笑顔のヒビキがもしも怒ったらどうしよう、という事だ。


今回はそんな不安がわずかにかすめたのだ。


だが、ヒビキは怒っていない。


良かったと胸をなでおろしつつ、アリスはさらに己に否がない事をうったえる。


アリスはヒビキに抱き着きながら言い訳、ではなく、言いつけた。


「つい、そのダニエルさんが! ヒジがですね!」


アリスは別にダニエルが悪いと言っているのではない。


矛盾しているが私はきっと悪くないと言っているだけである。難しい乙女心がここにはあった。


その理由はヒビキに怒られたくないからではない。


ただ、ヒビキに嫌われたくないからだと知るゆえ。


何があろうとなんとかしてあげたいという、甘い自分がいることに幸せを感じるヒビキがいた。


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