軽い挨拶から始まる聞き込みが始まらない
ベンネヴィスは振り返った先の地面に座り込んだ年若い女性を見て驚愕する。
自分の耳が聞き間違えでなければ、おそらく朝の挨拶をされたのだと思う。
初対面の者であればまず自分に挨拶どころか、よほどの理由がない限り声をかける事もないだろう。
もしも誰でもよい内容、何か手助けが欲しいなどの理由であればますますもって自分に声をかける理由はない。
周りには何人もの暇人どもが宴会をしている。
となると、自分はこの女性の事を知らないが、この子は自分の事を知って声をかけてきたのだろう。
つまり職工ギルド絡みの要件という事だ。
最も考えられるのはギルドへの加入だろうか?
若く華奢な女性だからといって職人ではないとは限らない。
職人といっても様々だ。若いからといって腕前までも青臭いという事は絶対ではないし、若さ独特の感性というものもある。
この女性も凄腕の彫金士だったり、針子だったり、そういった可能性もあるのだ。
だが、身なりからしてどうにもわからない。
小銭稼ぎ目的の冒険者か酔っ払いしかいないような湖で、場違いなまでに高価そうな青いワンピース姿だ。
これが冒険者などといった装いであれば、かけだしの職人が素材などを手に入れる為、自分の手と足でそれら確保しにきたとも考えられる。
だが、こんな姿で魔草などをむしる者はいまい。
「……むむむ」
であれば。
彼女は職人ではなく、客だろうか。
どこかのいいとこのお嬢さんが、自ら職人を探して、何かをあつらえるために自分に声をかけてきた?
ありえなくもない話だ。
だがそういった依頼はそうじて金払いはいいが、依頼内容の仕様が面倒くさいか、依頼理由が面倒くさいか、依頼人の背景が面倒くさいかのどれかだ。
特に三番目の理由、依頼人が面倒な場合、依頼内容の話を聞いてしまうと、断れなくなる手合いのものもあるし、そういった相手だと依頼を聞かないという選択すらできない場合もある。お貴族様だったり、お偉いさんだったり、いわくつきだったり。
つまり。
この女性はそんな面倒くさい依頼を早朝から職工ギルドに持ち込み、自分がいないとなるとどこからか自分がここにいる事を知り得て湖にやってきた。
そして目当ての自分を見つけて声をかけて来たのだろう。と、ベンネヴィスは結論づけた。
「ぬぬぬ……」
これは相当に厄介な一日になりそうだと、ついうなってしまう。
言うまでもなく、ヘタの考え休みに似たりである。
たかが挨拶をされただけで思考の飛躍も甚だしいが、それくらい見知らぬ自分に声をかける者はいないし、そうであった場合は職工ギルドマスターである自分に要件がある時だけ、という過去の経験からの結論であった。
ベンネヴィスはなかば観念した顔になり依頼の内容を聞くべく、へたり込んだままの女性を起こそうと手を差し伸べて一歩近づいた。
***
一方で、アリスの心臓は生存本能のピークを迎えていた。
どれほどときめく恋をしたところで、今のアリスの心臓ほどの鼓動を叩きだすことはできないだろう。
(あ、挨拶、挨拶はしました! ……次は、この湖、今日、どうなってるのですか? とお聞きします! がんばれ私!)
だが歯がカチカチと鳴り、うまく言葉が出てこない。
「……むむむ」
目の前の筋肉がうなった。
心の中で悲鳴をあげるアリス。出てきそうだった言葉がひっこむ。
喉が渇く。
今ならどんな苦い野菜ジュースでもジョッキでいけます! というほどに枯渇している。
「ぬぬぬ……」
またしても目の前の筋肉の塊がうなった。
さらに一歩、近づいたきたではないか!
もうダメだと思った。
自分の冒険はここでおしまいだ。
イケメンに囲まれてワイワイキャッキャッする吐かない夢はついえた。
薄情な弟を呪って来世こそ夢をかなえようと色々な覚悟と怨念をまき散らしながらも、アリスは生を諦めず秘策を講じる。
アリスはパタリと倒れこんだ。
気絶したフリである。
何かの小説で得た知識に、どう猛な肉食動物には死んだフリが有効という話があった。
知識は身を助ける。はずだ。
アリスは倒れたまま、うっすらと瞳を開けて目の前の巨躯を観察する。
そして食べられそうになったら、全力で薄情な弟の所までダッシュして盾にしてやる、と全身に緊張を走らせてた。
***
二人では話が進まないかもというディアジオの言もあり、ヒビキとディアジオは二人の近くで話の展開を見守っていた。
背後からアイツをしてアリスが振り返ったベンネヴィスの顔と声に腰を抜かし、今は死んだフリをしている。
「アリスの心の声が手に取るようにわかります。あれはそうとうに後で面倒くさい事になりますよ。大柄の男性の方にはいらぬ気苦労をかけてしまっているようですが」
「あちらはベンネヴィスさんという方で。実は西街の職工ギルドのマスターです」
ヒビキは驚いた表情を浮かべる。
「ああなるほど。だから信頼できる方と断言されていたのですね。確かに少々たくましい方ですが、人柄の良さというものがにじみ出ていますからね」
「……ヒビキさん、それはお世辞でなく本心からおっしゃっていますね」
「ええ、もちろん」
「素晴らしい目です」
ティアジオも当初は腰がひけて敬遠していたベンネヴィスであるが、本当に良い男なのだからそれを一目で見抜くヒビキの観察眼には称賛の他ない。
実際はそういうわけではないのだが、そういう事にしておいて誰も損はしないというヒビキの計算だ。
「では、そろそろ助け舟を出しましょう。アリスが今にも脱兎のごとくこちらに飛んできそうですからね」
気を失ったフリをしたアリスにベンネヴィスが困惑し、差し出した手を中空にさまよわせ、ジリジリと近寄ろうとしては足を引っ込める。
一方で気絶しているはずのアリスも身じろぎするように少しでも距離をとろうとしている。
まるで達人が間合いを削りあっているかのような緊張感である。
ヒビキは今夜はデザートを少し多めに用意してご機嫌をとるかと考えつつ、ベンネヴィスに挨拶をする。
「おはようざいます。少々お聞きしたい事があるのですがよろしいでしょうか?」
突然横から声をかけられたベンネヴィスはギョッとした顔で振り返る。
そこにはまた可愛らしい少女が、自分に怯える事もなく笑顔で立っていた。
「お、おう、なんだい、お嬢ちゃん?」
「私たちはさきほどこの湖に魔草を採取にきたのですが、昨日までは青々しく生えていたものが、今朝は御覧のあり様でして。何かご存じないかなと」
スラスラと言葉をつむぐヒビキを地面から見上げるアリスは驚きつつも、自慢げな気分になる。
(ふっふーん! さすがヒヒビキですね! 私の弟なだけはあります! ……いえ、最初からヒビキがこうすれば? いえ、けれどリーダーとしての成長のチャンスという話でしたし……)
アリスは地べたの上で自分がまたしてもリーダーポイント的な何かを獲得できなかったことに気付きうなだれる。
しかし、その後の言葉を聞いてアリスの鼓動は高まった。
「ああ。俺はもう少し早く来ていたんだがな。そうしたら湖にデッケエ魚が泳いでいたんだよ。それがどうにも魔草やら魔花やらの魔力を吸い取ったみたいでな」
「吸い取った、ですか?」
「まぁ、信じられんのも無理はないが、オレもこの目で見たし、ほかの連中が船を出してないのもあんなのが泳いでいたら危ないって事で朝から酒盛りしてるわけだしな」
得体の知れない巨大な魚。
しかも魔力を吸い取るという、あきらかに大きいだけではない何かの登場だ。
謎めく巨影の正体いかに、という冒険譚の出だしのようである。
実に盛り上がる導入だ。
それにここで立ち上がらなければ、今度こそリーダー失格の烙印を押されてしまう。
アリスはそのまま転がっていき、うまくヒビキの背後に回り込んでからゆっくりと、だがおそるおそる立ち上がる。
そして勇気をふり絞り、口を開く。
「……今日のこの湖はどうなってるんでしょう? 何かご存じないですか? 」
ヒビキの背後から、挨拶の後に言うべきだったセリフを吐き出した。
完璧にやり遂げた達成感で、アリスはふるふると感動に震える。
「お、おう。ありゃ、その娘さん知り合いか? 大丈夫だったか?」
地面に目をやったベンネヴィスが、いつの間にか立ち上がっていたことに驚きつつ、小さな少女の肩に隠れる青いワンピースの娘を見る。
「申し遅れました」
ヒビキは深く腰を曲げた丁寧なお辞儀をする。
「私はヒビキ。こちらは姉のアリス。遠くの国からやってきて、冒険者になったばかりです。どうぞよろしくお願いいたします」
「ア、アリスです! よろしくお願いします!」
アリスは転がって少し汚れたワンピースのすそをつまみ上げて挨拶をする。
思いのほか丁寧な挨拶をされ、ベンネヴィスは、お、おお、と剃り上げた頭をかきながら。
「冒険者だったのか。てっきり厄介な客かと……」
「厄介な客?」
ヒビキがどうしてそんな話のになるのかと首をかしげる。
「ああ、いやこっちの話だ。オレはベンネヴィスってんだが……長ったらしいし、皆はベンとか親方とか呼ぶ。お嬢ちゃん達も好きに呼んでくれたらいい」
「ベンネヴィスさんですね。それではベンさんとお呼びさせていただきます。よろしくお願いいたします」
「ベンベンビスさんですね! それではベンさん、よろしくお願いします!」
名乗った直後で盛大に名前を間違えられ、いやそういう意味の好きに呼べって意味じゃないがと思いつつも、略せば同じだしまぁいいかとベンネヴィスは話の続きを語りだした。




