冒険者の前に乙女であるが故の決断
アリスは青みがかった白い花を一輪一輪ていねいに摘んでいく。
陽のきらめく湖のほとり、その細腕で花を摘む美しい女性。
のどかな釣り人たちと、その小な船が時折生む波紋に揺られる白い花と青い花。
実に絵になる光景だ。
その美女の全身が泥にまみれていないければ。
そして時折、口に入った泥をぺっぺっと吐き出していなければ。
「……そうして泥の味を知って、なお立ち上がった者だけが強くなれるんですよ」
ヒビキがどこかで聞いた風な格好のいい言葉を、生暖かい笑顔で投げかける。
「確かに這いつくばって泥の味を知って、なお立ち上がった英雄は多いでしょうが……状況としてはずいぶんと違うかと……」
マッカランが小声で無駄口を叩くが聞こえないふりでヒビキがアリスをはげます。
「ただ実際アリスはよくがんばっていると思いますよ。中腰ってけっこう腰にきますからね」
「ええ、その通りです。不慣れで非力な女性にはずいぶんと辛い仕事のはずですが、輝くような笑顔ですね」
そう。アリスは泥だらけの顔ではあるが、満面の笑顔という点では輝いているとも言える。
なぜそんなにご機嫌なのかと尋ねると、アリスは笑顔で輝きながらこう答えた。
「普段の作中であれば不要なシーンとカットされるような地味なシーンを今、実際に味わっているのですよ? 今度、こういったシーンを読む時、今までとは違った臨場感を得られます! つまり、素晴らしい作品をますます素晴らしく感じることができるんです!」
理屈は理解しかねるが、理由はわかった為ヒビキはそのまま採取を続けさせた。
熱中症などで意識朦朧として微笑みを浮かべていたら休ませようと思っていたがそういった心配は無用のようだ。
実際、陽の光は背の高い木々によりだいぶ柔らかくなっているし、湖の近くという事で湿度はともかく気温もそう高くはない。
むしろ夕暮れ以降、陽がなくなれば冷え込むのではないかと思う場所だ。
「どうしました、ヒビキさん?」
マッカランが腰をトントンと叩きながらヒビキに問いかける。
「いえ。夜は冷えそうだな、と」
「そうですね。夕方あたりからは少し冷えてきますし、夕刻に来る二度目の買い取り馬車に魚を売ったら皆さん湖から上がられますよ」
「ああ、それで焚き火や宴会とおっしゃっていたのですかですか」
「そうですね。宿の部屋の中でベッドで毛布にくるまっているのもいいですが、皆さんだいたい同じように時間を持て余していますしね。話し相手にもこまりませんし。お二人のように若く美しい方たちであれば、きっと話し相手として大歓迎を受けますよ」
ヒビキが改めて見回せば、おじさんばかりだ。見ればおじいさんも混じっている。
「年の差が大きすぎて、共通の話題はなさそうですが?」
「いえいえ、きっと盛り上がりますよ。ウチの息子の嫁に来ないか、という話題で。八割はそれでしょうね」
「ご遠慮したいですね。残りの二割は?」
「オレの嫁にならないか、でしょう。それなりのお年の方もいますが、比較的若い方で独身の方も多いですから」
「若い、ですか……」
一番、若そうな男性でも四十は超えていそうだ。
ジトッとした目でマッカランを見るヒビキ。
「冗談ですよ。いえ、冗談とも言い切れませんが……真面目な話、釣りを一緒にしてくれる若い女性というのは貴重ですからね。もし釣りに興味を持たれたらどなかに尋ねてみるといいでしょう。お二人でしたらどなたでも喜んで釣り方を教えてくれますよ」
「そう、ですか」
釣りに興味がないかというば否である。
初仕事を完遂するという使命感に燃えているアリスではあるが、チラチラと釣り人達を見ているのも事実。
今日は夕暮れまでは花を摘み、マッカランがいなくなった明日以降はアリスの機嫌と気分を見つつ、釣りをすすめてやるのもいいかもしれないなとヒビキは考える。
「釣果があればお金になりますし。そのお金が宿を取り、魔草の採取を並行して行う冒険者の方もいらっしゃいますよ」
「ずいぶんと高く売れるんですね。ならば釣りだけの方が効率的では?」
「釣りだけではお金を得られても、冒険者として地位はあがりませんから。ランクが高くないと案内されない仕事というのもありますよ」
「ああ。確かアザァさんのギルド証は美しい色をしていました」
マッカランはうなずく。
「なんにせよ、先立つものといのは必要です。今日は私と同行されるのであれば帰りもお送りします。その後、もし明日以降もこちらへ来るのであれば……」
「『金策通り』で買い取り馬車に乗便させてもらう?」
「日通いであればそうですね。ただあくまで買い取り馬車ですから、貨車ゆえに客席なんてありません。そして乗せてもらえるのは荷物の魚を積んでいない行きだけですし、先に乗り込んでいる方がいれば乗せてもらえません。もちろん運賃としてお金も必要です」
「うーん」
朝一で待つぐらいの覚悟がいりそうだ。それを毎日? しかも帰りは歩き。うーん、となってしまうヒビキである。
「もしくは今日からここに泊まり込む、という案。それであれば何日かしたら様子を見に来ますので、その時は街までお送りします」
「うーん」
これはこれでうーんとなってしまう。狭く不便な宿に連泊というのは中々にストレスがたまるだろう。
男の身なら一人だけというのはむしろ気楽でもあるが、今は面倒を見る相手、しかもそれがうら若き乙女となると。
しかし、この厳しさ、不便さこそ、冒険者生活とも言える。
マッカランはどちらがいいとは言わない。ただアリスとヒビキが望むのはどちらでしょうか、と具体的な選択肢を好意で与えてくれているのだ。
「アリス、アリスー?」
花ではなく背丈の高い青い草を根から引っこ抜こうし、見事にすっぽ抜けて何度目かわからない尻もちをついていたアリスに声をかける。
「なんですかヒビキ?」
もはやその程度では泣き言などは言わなくなった成長したアリスの姿がそこにあった。
「毎日ここから歩いて街に帰るか、ここに泊まり込んで何日かしたら迎えに来てもらうのと、どちらがいいですか?」
「え? えっと、うーん」
突然の二択に迷うアリス。
「泊まり込む、というのはあちらの宿でしょうか」
「あちらの宿ですよ。赤い屋根、黄色い屋根、白い屋根、どれも歴史を感じさせる風格がありますね」
「古い建物ですから。隙間風程度は我慢していただく必要がありますよ」
ヒビキが包んだオブラートをマッカランが引き裂き、アリスが少しうろたえる。
冒険者生活を体験したいが、きれい好きな女の子でもあるのだから。
何かを悩み、しかし決意したようにアリスはマッカランを見る。
「マッカランさん。一つお聞きしたいのですが!」
アリスが深刻な表情で口を開く。
「え? あ、はい、なんでしょうか」
「虫はでませんか? 部屋に虫が入ってきませんか? 部屋の床を這いまわったりはしませんか!」
「床、というか。ベッドにも潜り込んできますが、噛んだり刺したりはしない虫で……」
「ヒビキ、日帰りです! 通います! 歩くのは健康と美容にいいんですよ!」
「ではそのように」
ヒビキは予想通りだったという微笑みで、マッカランはあっけにとられつつもすぐに納得して苦笑を浮かべた。




