アリエステルと恋慕の隙間
溜まっていた疲れからか、熟睡していたアリスがベッドの上で二度三度と寝返りをうつ。
「んー……ヒビキー、ダメですよー……」
馬車の幌の中とはいえ、野宿続きで体の節々がさび付いたようになっている。
入浴ができれば多少は良かったかもしれないが、それもここではかなわない。
「んん……んーっ……ヒビキは、まったくしょうがないですねぇ……」
本人がいたら苦笑するであろう寝言を漏らしながら、アリスは体をゆすっている。
ゴロゴロと狭いベッドの上を右に、左に、右に、右に、左に、右に。
バランス悪く動いていれば、いずれ迎える悲劇がアリスを襲った。
「んー……あいたっ!」
ベッドから転がり落ち、厚めのカーペットが敷いてあるとはいえ、それなりの痛みをもってアリスは夢から叩き起こされた。
「……ハッ!」
四つんばいのまま、勢いよく顔をあげて部屋を見回す。
魔王城の自分の部屋ではない。
馬車の幌の中でもない。
「あっ、ああ! あーはい、はいはい、そうですよ! 人間の街にやってきたのです!」
ようやく覚醒を始めた脳が記憶を掘り出し、現状を正しく認識する。
「マッカランさんのお宿でしたね! ……花のいらだち亭! 確かそんな名前のお宿です!」
花の彩り亭の一室である事も思い出し、周囲に視線をやる。
「ヒビキがいませんね……ヒービーキー?」
もともと四人部屋を二人部屋として内装や調度、家具を調えているので相当には広い部屋である。
だが、そうは言っても軽くあちこちを見て回ればヒビキがいない事はすぐにわかる。
「おなか、すきました」
充分な休養と睡眠をとったためか、体が栄養を欲している。
「宿の方にヒビキがどこに行ったかおたずねしまょう。一人でお食事というのも寂しいですしね」
アリスは部屋から出て、階下を目指した。
一階に行けば宿の従業員がいるはずだ。
アリスは珍しくヒビキの目がない事に、ちょっとした冒険気分でもあった。
「ふっふふーん」
軽快なステップでスロープを降りて行くアリス。
そんなアリスの冒険は、彼女が迷い出たら部屋に戻すようにとヒビキに言いつけられた従業員に引き止められて終わる。
「あら?」
はずであった。
「誰もいらっしゃらないのね」
一階のフロントとラウンジには従業員の姿はなかった。
***
その日、彼女はどうしても、どうしても、どうしても、少しだけ時間が必要だった。
同僚に頼んでその少しだけの時間、一人で宿の面倒を見てもらうように頼み込んだ。
なに、たいした時間じゃない。
宿から走って南街の書店に出向くだけ。
時間も夕食の片付けが終わった忙しくない時間だ。
通常はフロントに一人、ラウンジに一人の配置だが少しの時間であれば一人でも問題ない。はずだ。
「はっはっ、うふっ、はっはっ! 買えた、残りッ、三冊とか、本ッ当に、ぎりっぎり! だったわ!」
気色悪い笑みを浮かべで美女が走る。
目的のモノは無事に購入できた。あとは少しでも早く戻るだけだ。
従業員の制服の上から安物の黒いマントを羽織っているので悪目立ちしているが、夜にまぎれるにはこれ以上の姿はない。
フードをまぶかにかぶったまま、花の彩り亭へと向かう。
そんな彼女が大事に抱えている包みの中は一冊の本。
とある新人著者の本だ。
だが彼女は知っている。
多くの名作を産み落とした作者が、頻繁に名前を変えて出版している事を。
彼女はその筆者を”名無しの君”と呼んでいた。
名無しの君が、なぜそのような事をしているのかはわからない。
今回の新作も、城勤めの読書仲間から新作が出るらしいという噂を聞き、行きつけの書店の店長にそれらしい本が出たら一報をと頼んであった。
それが功を奏し、手元にこの一冊の本がある。
店でパラパラと中身を確認して確信した。名無しの君の新作だ、と。
わからないが、彼女ほどの愛好家であると文体や文字からにじむ雰囲気で同一筆者と判断できる。
彼、もしくは彼女の直近の作品で、評判が最も良いのは『美人姉妹冒険記』だろうか。
彼女としてもその作品が嫌いなわけではないのだが、どちらかというと過去作のとがった作品の方が好きではある。
「『黒狼紳士は愛を盗む』の続編でないかしらねぇ……無理かしらねぇ……」
彼女が最も好きな作品名をぼんやり呟く。黒マントと黒グローブをまとい、顔に傷のある盗賊が闇に紛れて首都を跋扈する話だ。
どんなに堅く守られた宝でも華麗に奪い去り、話の途中では警護にあたる騎士や警護を依頼された冒険者と己の正体を隠して一夜の恋を過ごしたりもする。
わりと初期の作品であるが、最新刊にてやや問題が起きた。
盗賊は男性主人公でありシリーズを通して、恋の相手の騎士や冒険者は男性である。
そこまでは問題ない。王は芸術表現に寛大であり、発表の場と時を制限する事もない。
だが第十巻で恋愛対象を王にしたのは、一読者でしかない彼女もマズかったと思う。
しかも王の名、ガイラクスを使用する暴挙。
一説では下書き時にモデルである人物の名前を仮名として用いていたのが、手違いでそのまま印刷されたという話である。
これを王は笑って許したそうだが、さすがに宮廷が威厳を損なう大逆罪とわめきちらし、ほぼすべての『黒狼紳士は愛を盗む、今宵は王の褥にて(第十巻)』が回収された。
今は発禁処分となっており、現存流通している本は幻の十巻とされて闇古書界隈では高値で取引されている。
ちなみに彼女はそれを三冊所持しているが、それはともかく。
「いやー、本当によかったよかった!」
花の彩り亭に到着しフードをはずし、本の包みは胸元に隠すようにつっこむ。
間違ってもこんな所で油を売っているところを見つかったら解雇もありえる話だ。
彩りと明かりで飾られた表から入る事はできないので、静かに裏口へと向かった。
「あらあら、やっぱり誰もいないんですね」
そんな表の玄関から出てきたのは、引き止められるはずのアリスであった。
***
「勝手な女だ……」
どうしても、ちょっとだけ、すぐ返って来るから、お願いお願いお願い、と畳み込むようにしてサボりを見逃せと懇願されたのは二人いる当直夜勤の一人だった。
同僚の若い女は、何度も頭を下げては両手で拝む。
頭を下げるたびに二つの丘が揺れ、両手を合わせて拝むたびに二つの丘が潰れて形を変える。
結局、投げやりに了解して男は、今こうして一人でフロントに立っている。
「……確かに暇な時間帯ではあるから、考えなしってわけではないんだろうが」
マッカランがオーナーの宿だ。高待遇で雇用してもらっている身としては同僚のサボりなど即座に報告すべきだろう。
職務の怠慢はミスを呼び、ミスは信用の欠如につながり、無くした信用は簡単に取り戻せない。
理性ではわかっている。
「……くそっ」
だが男には理性以外の理由でそれができない。
一言で言えば、惚れているのだ。
今日の夜勤当番とて、意中の女性と勤務とはいえ同じ空間で同じ時間を過ごせることを喜んでいたものだ。
だが、宿泊客の夕食がのきなみ済んで落ち着いた時間になると、急にそわそわとし始めた。
なんだオレを意識しているのかいや皆まで言うなオレも同じ気持ちだと男もそわそわとし始めると、先ほどのようにちょっとだけ野暮用で外に行きたいと言い出した。
最初はダメだと言った。何度も言った。だが結果は今この状態だ。
「何事もない事を祈ってはいるが……」
いつもであれば、退屈な夜勤だ。
中心街にある宿であり、街中で起きたトラブルを持ち込まれた事などなかったし、客同士の騒動もほとんどない。
今夜も街は静かだし、宿も平穏だ。
たった一つ、荒れ狂う海のようになってる彼の腹具合さえ除けば。
「ダメだ、ちょっとだけ行ってこよう」
男は限界への挑戦を中断し、トイレへと小走りで向かった。
そして同時にスロープから降りてきたアリスの視界に、走り去る彼の背中はちょうど入らなかった。
フロントにもラウンジにも人影がない。
「どなたか、いらっしゃいませんかー?」
アリスは見当が外れて、仕方なく宿の外へと出る。
もしかしたら表の掃除などをしている従業員がいるかもしれない。
「あらあら、やっぱり誰もいないんですね」
宿の玄関を抜けて辺りを見ても、宿の関係者らしき者はいなかった。
「うーん、勝手に出歩くとヒビキが怒りそうですが、そもそもヒビキがいないから私が探しに出たので怒られるはずがありませんね!」
自己完結で自己弁護を終えたアリスは、ヒビキを探すべく夜の街へと歩み始めた。
***
男がトイレから戻ってすぐ、女も出て行った時の様に従業員用の裏口から戻ってきていた。
行く時に着ていた黒いマントはすでに羽織っていない。どこかで脱ぎ捨ててきたのだろうか。
「ごめんね、ありがとう! 本ッ当に助かっちゃった!」
「ああ、一つ貸しだぞ」
別に男は本気で言ったつもりはない。ただ会話のきっかけになればと、何気なく口にしただけだ。
「うんうん、返す返す! 確かお酒が好きなんだっけ? 今度の休みが一緒になった時、おごってあげるわ! それでどう?」
「……おう、悪いな」
「いやいや、それくらい。なんならお酌もしてあげるわ。こんなガサツな女で良ければね!」
「な、なら、頼むとするか」
望外の展開に男はあやうく挙動不審になりそうになりながらも、それを気合で押さえ込み、いつものようにぶっきらぼうに返事をする。
その後、女は例の姉妹のお姉ちゃんは降りてきたかと確認をして、男は自分がすぐに戻ってきた事もあり、降りてきていないと言った。
マッカランの大事な客であり、その客からの言いつけでもある。
逆に言えば、今夜はそこさえ気をつけていれば、大きなミスになりそうな客や案件はない。
男は今度の休みに胸をときめかせ、女は胸元にしまった本にときめきつつ、仕事を再開した。
すでに致命的なミスを犯している事に気づくことなく。
***
「あら、これは……あらあらあら、素敵ですわ!」
宿の外に誰か居ないかとぐるりを見て回っていたアリスは、従業員が出入りするであろう裏口の側にあった落し物を見つけた。
それは雑に捨て置かれた黒いマントだった。
「落し物というより、捨てられたものでしょうか」
辺りをキョロキョロと見回す。人影はない。
アリスはこのマントの持ち主に向かって心の声で、お借りしまーす、と言いながら羽織ってみる。
「おお、これは……おおおお……」
布は肌触りが悪く、重さもあるため着心地は悪い。
だが、それがいい。
「これこそ、まさに冒険者の装備品といったカンジですね! それにこれは……」
クンクンと鼻をならすアリス。
わずかに香水の残り香がある為、女性が身につけていたものかとアリスは推測する。
「ではちょっとだけお借りして街を見てまわ、いえいえ、ヒビキを探しに行きましょう」
アリスは高揚おさまらず、跳ねるような足取りで街へと向かった。
あけましておめでとうございます。
今週は本日、二日、三日の三が日での更新を予定しています。
投稿を始めて約二ヶ月ほどが経ちました。
感想や評価も頂き、とても嬉しかったです。
稚拙かつスローペースですが、それなりに続けられたと思います。
今年もよろしくお願いいたします。




