赤い道
シトラスが声を上げなかったのは奇跡に近かった。
マッカランはすでに気絶しており、運よく捕食されていない。
スライムの察知感覚は、聴覚と嗅覚と言われている。
特に血臭。
血に誘われている為、身じろぎすらしていないマッカランを生き物と認識していないのだろう。
二匹目のスライムは大きさこそ成人男性が横たわった程度で、さきほど盗賊をむさぼっていたスライムに比べれば格段に小さい。
――だが透明だった。
シトラスは危険度で言えば、はるかに目前のスライムの方が高い事をすぐに悟る。
このスライムは飢えているのだ。
体内に何もない、かつ、透明という事は、最後の捕食から時間がずいぶんと経っている。
獲物を探る感覚も鋭敏になっているはずだ。
透明のスライムは、吐瀉物に顔をつっこんで倒れているマッカランの体のすぐ側を通り過ぎて行く。
途中、その靴の上をスライムがのしかかって通過していくが捕食はされない。
血臭に導かれている中では、微動だにしない物体を獲物とは認識できなかったのだろう。
素肌に触れられればさすがに気づかれるが、厚い革のブーツであればスライムにとって岩などの障害物とさしてかわらない。
スライムがマッカランの脇を通り過ぎ、シトラスへと向かってくる。
シトラスは慎重にその進路を空ける。
ヒビキとヒビキに抱きかかえられているアリス、カルアも進路上から外れている。
ここでシトラスがうまく回避できればやり過ごせる。
「……ッ……ッ」
物音を立てないように、それでいて迅速に移動するシトラス。
わずかな衣擦れの音は普段であれば、それだけで感づかれるが、雨がそれを打ち消す。
なんとかスライムをやり過ごしたシトラスは、血臭に向かって行くスライムから用心深く目を離さない。
スライムは、血臭の元に近づいたのもあってか臨戦態勢に入り始めた。
進路上にある大きめな石や枝などを体内へと取り込み、投擲の弾として用意したのが見てとれる。
もう少し早く臨戦態勢に入っていたら、マッカランの革のブーツは弾として取り込まれていただろう。もちろん足ごと。
その後は、一瞬で阿鼻叫喚となっただろう。紙一重での命拾いだった。
「シトラスさん、大丈夫ですか?」
やがて透明なスライムが街道へとたどり着くと、充分な距離は離れたと判断したヒビキがシトラスへと近寄る。
「我ながら、たいしたものだよ。振り返った時にスライムを見たとき、よく声をださなかった。商人殿は、まぁ、災難だった」
透明なスライムは血臭の元である、血にぬれた街道を徘徊している。
盗賊を食い散らかした大きなスライムもまた徘徊を続けており、やがてそれらが互いを認識したかのように動きを止めた。
「つがい、とか、群れになる、とかでしょうか?」
ヒビキが疑問を投げかけると、シトラスは笑う。
「スライムは群れない。餌場も共有しない。つまり」
二つのスライムが同時に互いへと飛び掛った。
「出会えば即、殺し合いだ」
「うわぁ」
透明なスライムが三角錐のように形を変え、大きなスライムの中心へとえぐりこむ。
大きなスライムは体躯の差を利用して、それを囲い込もうとしているようだ。
二匹のスライムが暴れるたびにに、大きなスライムが消化中だった盗賊の肉片が血しぶきとともに当たりに飛び散って行く。
「さて、どうする。今なら気づかれずに移動できる。ああなったらどちらかが死ぬまで戦い続けるはずだ。馬を繋ぎなおして、宿場に進むか?」
「ここに留まる場合はどうなりますか?」
ヒビキとしては、このまま嵐が去るのを待つ方がいいようにも思う。
「あの戦いを制したスライムが、どういう行動をとるかわからんぞ。戦いに疲弊して、あの場に留まられると身動きが出来なくなる」
そういう可能性もあるかとヒビキが思案する。
現状、まともに動けるのは、自分とシトラスとカルア。マッカランとアリスは夢の世界だ。
ならば、すぐに移動した方がいいだろう。
「移動しましょう」
「よし、馬はオレが繋ぐ。ヒビキとカルアで馬車に二人を突っ込んでくれ。今なら、多少の魔力を使っても大丈夫だ、だが急げよ!」
「ええ」
カルアはすでにアリスを背負っていた。
ここは筋力的にもそれが効率的かと、ヒビキは多少の魔力を消費して筋力を上昇させてマッカランを背負う。
気絶中の二人を馬車に転がし、カルアには介抱の為に一緒に乗ってもらう。
シトラスが森の中につないでいた二頭の馬を引き連れ戻ってくると、すぐに馬車へと繋げる。
「良し」
「スライムはまだ戦っていますね」
「好都合だ。今なら多少の音にも反応せん。行くぞ!」
シトラスは御者台に飛び乗る。ヒビキもその横につくと、鋭く手綱を飛ばして馬を走らせる。
カルアが念のため幌の後方に位置取り杖を構える。
駆け出した馬車の音に気づいた二匹のスライムが反応して一瞬、動きを止めたがすぐに共食いのごとき戦いを再開する。
シトラスはその二匹のスライムを横目に馬車を駆り、赤く染まった道から少しでも早く逃れようと手綱を握り締めた。
その後に目覚めたアリスの興奮はさめやらぬもので、自分が気絶していた間の話をカルアから聞き、何度もうなずいていた。
アリス自身、グロテスクなものに耐性があると思っていたが、やはり目の当たりにするとそうもいかなかったようだ。
それでも今回、窮地を切り抜けたシトラスとカルアの見所を逃したのが悔しかったらしく、ヒビキに小声で、今度からは起こしてください、と頼んでいた。
以降は、盗賊やスライム、魔獣に襲われることもなく。
数日の野宿を経て、一行を乗せたマッカランの馬車は首都へとたどり着いた。