自傷行為について(ええじゃないか)
「あの子、リスカしたらしいよ」
その言葉と共に生まれた嘲笑。何故? 何故嗤うのか。
「そ、そうなんだ」
大変なんだね、と素知らぬ顔をして左腕や左足の傷を隠す自分がいる。
よくある光景だった。リストカットの話が出ると、いつバレるのか、バレてしまえば自分にも嘲笑が向けられるのではないかとビクビクしていた。
これは、中一から高一まで自傷行為を行った者の戯言に過ぎない。
自傷行為とは。
意図的に自らの身体を傷つけたり、毒物を摂取する事であり、致死性が低い点で自殺とは異なる。リストカット、ライターやタバコで肌を焼く(根性焼き)、髪の毛を抜く、怪我をするまで壁を殴るなどの行為がある。虐待のトラウマや心理的虐待及び摂食障害、低い自尊心や完璧主義と正の相関関係があると考えられている。また抗うつ薬や、他の薬物などが自傷行為を引き起こすことが知られている。〈Wikipediaより引用〉
私が自傷行為をし始めた理由は重圧の緩和である。よく、周囲の人の気を引きたいがために行うと言われるが、決して他人に構って欲しかった訳ではない。
私の自傷行為は刃物で左腕や左足を傷つけることが主だった。手首は滅多にしない。誤魔化すのが難しかったからだ。その点、足は気づかれにくい。制服の夏服でも手首は半袖になると見えてしまうが、足はスカートで隠れる。体操服ではどうしようもなかったし、足は自分で切りにくいのが難点だったが。
私にとってこの世界は何故か生き辛かった。毎日同じように過ぎる時間。狂ったように怒る母。物を投げつける父。字面に起こせば凄惨たる親のように思える。でも、世の中皆、こんなものなのだろう。勿論、ごくたまにだが、機嫌が普通の時もあった。だから別に、悲劇の渦中に投げ出されていたわけではない。
重圧の根源……詳しい原因は分からない。「何となく」が的確な言葉のように思える。ただ、自分が弱いのは知っているのでどうせ、少しの刺激にすら耐えられなかったのだろう。皆、こんな生きる苦痛に耐えているというのか。
常々、世界から離脱したいとは考えていたが、自ら死を選ぶことができるほど自分の人生は達観していなかった。自分で死ぬこともできぬ。しかし生きるという重圧には屈した。少しでも和らげようと考えたのが自傷行為であった。痛みを感じることで重圧から逃れたかった。
物語の恵まれなかった主人公はカッターですぱっと己の体を傷つける。単純に尊敬する。
私は弱者だ。いざ自傷行為を行おうとすると、刃物の冷たい感触に背筋が凍った。いざ切ろうとしても、臆病者の力はひたすら弱く、刃毀れしたカッターでは皮膚すらも切れぬ。棚をあさり、やっと切れる物を見つけた。昔使った彫刻刀。最後に研いでもらったその刃は少しの力で朱の線を描いた。ちなみに、切出刀である。
さて、冒頭の言葉に物申したい。
学生時代、同級生に手を薄く切った者がいた。自傷によるものだった。他人からは「リスカしたらしいよ」という嘲るような物言いをされていた。面と向かってではないが。何故か人はそれを嗤った。悪いことでも、ましてや恥ずかしいことでも無い筈なのに。
心の底から思う。自傷行為を咎めないで、嗤わないで、否定しないでいただきたい。自分も好きでやっている訳ではない。それをしないと生きることができないのだ。むしろその言葉のせいでさらに生き辛くなるのだ。自傷行為が促進するだけだった。
私が自傷行為をやっていたことを知っている……というより打ち明けたのはたった一人の親友だけだ。
友達には誤魔化し続けた。部活の途中、その日の朝に作った傷を友達は
「猫にやられたん? まさか、リスカじゃないよね」
と言った。幸い、猫は飼っていたので私は嘘をはくことにした。
「そうそう、猫に引っ掛かれてさー」
そんなこと、うちの猫はしない。おとなしいから。ごめん、かぐや。
先生にバレてしまえばもう終わりだった。一度、バレてしまったのだ。
「そんなことやめてよ、ね? 親から貰った体を大切にしてよ」
聖職者とはよく言ったものだ。私にとってあいつは呪術師だ。毎日毎日飽きないのか。やめろ。勿論、生徒に何かあれば責任は問われるだろうから止めるのに必死になるのだろう。ただ。そんなことと軽く言うな。私はその「そんなこと」とやらに頼らなければ生きていけないのだ。私は自傷行為に生かされていた。でないと、生きることに押し潰されるのだ。あなたは私に死ねと言っているのか。親から貰った体? 過程はともあれこれは自分の体だ。他人にとやかく言われる筋合いなどない! むしろ、産んでくれと頼んだ覚えはない! この世界に存在などしたくなかった!
自分では人を救っている気かもしれないが、それは残酷な呪いにしかならないのだ。
私が何とか、自傷行為を止めたことを書いておく。
とある先生のおかげだ。先程触れた呪術師のことではない。仮に、そのとある先生をMと記す。
私はMに中三の頃、恋心を抱いた。丁度一回り、十二歳差の恋である。最も、私が惚れたときにMは既婚者であったが。
Mのことを想い、過ごす日々が楽しかった。今日はこれだけ話した、今日は手を振ったら振り返してくれた、今日はMの手に触れた……。安っぽい言葉になってしまうが、Mは私に生きる楽しみを与えてくれた。Mは私の生きる希望だった。本人はこのことを知らないのだが。
一時期は自傷行為を止めた。再発したのはMに子供ができたと知ったときだ。「そういうこと」を彼の配偶者と行った結果だ。Mだって人間で、三大欲求の一つを満たすことだってする。それがたまらなく嫌だった。
自分の勝手な思考で自傷行為が再発した。
ただ、子供ができたと報告したときのMの顔といったら! 見たことのないような、緩みきった笑顔だった。この時初めて私はMが幸せと感じたこの世界を楽しんでみようと……そう、思えたのだった。再発した自傷行為は直ぐに止んだ。
今度、帰郷する予定がある。Mに再会することがあれば、感謝を……いや、全て話そうか。ここに書いた文章を全部。そうして私は笑って伝えよう。今の私は生かされていない。生きている、と。
これでこの文章を終える。誰かに知ってもらいたかった。自傷行為を否定することは辞めてくれ、と。まあ、人一人が何か言ったところでそれは大きな世界の中でのたった一つのちっぽけな戯れ言にしかならないし、大きな力に抗うことは敵わない。ただし、それを理由に私は思考を放棄するような真似はしたくない。誰か一人にでも、私の思いが伝わればこれを書いた意味がある。どうか、自傷行為を行わずして生きやすい世の中になりますように。
これ書いてたら、Mに会いたくなった……
未だ自傷行為の傷跡はうっすらと残っているような感じです