ガラスコップ
行きたいところはこれ以上思いつかなかった。あっけない人生だったな、と今更ながら思う。
「いかがでしたか」
化物はにやつきながら尋ねた。
何も変わらない、と思った。自分の存在なんて、机上を這う羽虫のように、一吹きすれば見えなくなって消えてしまうような存在なのだと感じた。もしくは、パソコン上のデリートキーを押したように。そこにいたことなんて、誰も証明しようがないし、もはや初めからそこにいたのかもわからないような存在なのだ、自分は。
「そんなことはないと思います」
化物はもう笑っていなかった。
「あなたの行動や発言が、誰かの感情を動かします。そして、それを受けて誰かが行動を起こし、それが誰かの目に触れて、見た人はそれについてまた。そうやって世界は影響しあっていると私は思います」
だから、僕は。
200人以上もいる顔も知らないSNSのフォロワーに、誰へでもなく「死にたい」と言えばよかった。いいね、がひとつでもつけば飛び降りようとはしなかったのかもしれない。死ぬ前に、好きな人に好きだというべきだったのかもしれない。家族にごめん、でもありがとう、でも言えばよかったのかもしれない。もしくは、ばかやろう、とでも言ってもらえば。
僕は寂しかったのかもしれない。
寂しささえなくなれば生きていけたのかもしれない。
僕には誰もいない、だなんて思いこみだったのだろうか。本当に誰もいなかったら、死後に行きたい場所もなかったのかもしれない。今だからこのようなことを思うのだろうか。何が正しかったのだろうか。
「帰りましょう」
化物の顔が自分の目の前でゆがんだ。意識が遠のくのを感じた。
気が付くと、部屋のベランダにいた。
じっとりと汗ばんだ手はしっかりとベランダの手すりを握りしめていた。そっと下をのぞき込んでみても、特段異変はない。おばさんたちが固まって大声で話している。そのそばで子供たちがしゃがみこんで虫か何かを見つめている。自転車が迷惑そうにおばさんたちをよけて通っていった。こめかみからひとすじの汗が流れ落ちる感覚があった。風も吹かぬじめじめとした暑さである。
のどが渇いたので、部屋に戻る。机の上に内側が濡れたコップがある。しかし、どうしてかそれを使う気にはなれなかった。