初速度はゼロ
その日は、晴天だった。
雲ひとつない空と、嫌味なほど照りつける太陽。
梅雨の時期には珍しい晴れた日で、僕のいるアパートのベランダからはたくさんの洗濯物が干してあるのが見えた。
そんな日に僕は死のうと思っていた。
4階のベランダからならば、飛び降りたら死ぬことができるだろう。
下を覗き込むと、せっかくの天気だというのに誰も歩いていなかった。
白昼堂々と飛び降りたって、誰も発見しないかもしれない。
「さて、行きますか」
晴天だからといって死ぬのを諦めるほどこの世に未練はなかったし、何としても今日までに死ななくてはならなかった。
明日から、僕は二十歳になるのだ。
有ろう事か、ベランダに足をかけたところで、チャイムが鳴った。
居留守を使ったって良かったが、人生最後に訪ねてくる客にも少し興味があった。
慌ててベランダを飛び出し、玄関を開けた。
しかし、そこには誰もいなかった。
空耳か、はたまたいたずらか。
4階までいたずらしにくるなんていう話はあまり聞かないので空耳だろう。
とぼとぼと部屋に戻り、ベッドの上に腰を下ろした。
「よし、さあ死ぬか」と、ベランダに戻るような気分でもない。
昨日買ったばかりのタバコを咥えて、火をつけた。
死ぬ前には一服吸っておくのもいいかもしれないと思い購入した。
身分証の提示はしなかった。タバコを売ったコンビニの店員は色白で黒髪の美人だった。
年は自分と変わらないほどで、耳にピアスがいくつも開いていた。
彼女のことを考えていたらむせかえってしまった。
慣れないことはするものではない。と言っても、今から死ぬのだけれど。
タバコの火を消して、またベランダに出た。
晴れ渡った空をしばらく眺めて、これまでの一生について考えた。
思い返したところで、死ぬのをやめるわけではなかったが、こういうときほど楽しかった思い出ばかり浮かんでくるのだから、人間というものは愛おしい。
ベランダに、足をかけようとした。
そこで、また邪魔が入った。
声をかけられたのだ。室内から。
「あのう、水もらえませんか」
僕の後ろに立っていたのは、奇妙な化物だった。