今宵、月に君を想う
―――
「本当に、月が綺麗ですね」
「ああ、本当に」
入院中の彼女を連れ出して歩く夜道で、いつもと同じ会話。
彼女とは三ヶ月と少し前、僕が交通事故に遭って、検査入院した事で出会った。
彼女は主に純文学といった小説が好きで、いつも読んでいた。小さい頃から身体が弱いらしく、病院での生活も長いという。
一方、その頃の俺はと言うと、流行の音楽を聴くくらいで特にこれと言った趣味も無く、彼女との接点と言えるものも無かった。
しかし、一度話してみると、これが思いの外話が弾む。
「今、高校ではこんな歌が流行っているよ」
たったこれだけの、僕にとって当たり前の事が彼女にとってはとても新鮮な事だったらしい。
「そうなんですか。私はほとんど学校へは行けていないので……。他にはどんなものが流行っているんですか? 」
彼女はほんの些細な言葉からでも、話題を拾って話を続けてくる。
「今はこんなバンドが流行っていて、こういうテレビ番組の話を皆、毎日していて……」
そして、そんななんでもない日常を教えるだけで、とても嬉しそうな笑顔を僕に見せてくれる。
知らず知らずのうちに、僕は彼女に惹かれていたんだと、そう思う。病院で彼女と過ごした時間は本当に美しいものだった、と。
「毎日毎日、どうしてそんなにリハビリを頑張れるんですか? 」
僕が入院してからひと月と少しが過ぎた頃だった。退院に向けてリハビリを続ける僕に、ある日彼女が言った。
「どうして……だろう。別にこれといってやりたい事や目標がある訳じゃあないんだけどね。やっぱり、何もしていないと学校の皆に置いていかれる気がして、怖いからかな」
「やっぱり、早く退院したいですよね……」
そう言った彼女の表情は、心做しか普段より少し暗いように感じた。
しばらくして、僕は無事退院する事になった。
「良かったです。無事に退院できて」
彼女は嬉しそうとも、寂しそうともとれる表情を浮かべて僕に言う。
「この病院までは家からも歩いても十分位なんだ。だから、なんだその……お見舞いに来るよ」
退院してから、僕は毎日病院へと足を運んだ。
「前にも話したかもしれないけれど、私、小さい頃から身体が弱くて病院に篭りがちだったんです。だから、周りの人や今の世間がどうかなんて分からないし、知りたくても知る事が出来なかった。なんだか私だけが、世界に取り残されてるみたい……」
彼女が言っていた事はきっと、以前僕に訊いてきた『頑張れる理由』についての事だったのだろう。
「僕は僕、君は君だよ。僕の考えを無理に君が背負い込む必要なんてないし、君は世界に取り残されてなんかいない。仮に世界に取り残されたとしたって、僕は此処に君に会いに来るしね」
「それこそ、私の為に君がわざわざそんな事をする必要なんてないじゃないですか。私は私、あなたはあなたなんだから、私に合わせなくたって良いのに……」
そう言った彼女の瞼からは、雫が零れ落ちていた。
「この間の話だけど、別に僕はこれっぽっちも君に合わせてなんかいないよ。僕は唯、そうしたいからそうしているだけなんだから。それを言ったら君こそ、余計な気を遣わないで欲しいね。僕は好きで毎日君と話をしに来ているんだから、寧ろもっと遠慮なく接してくれた方が嬉しいよ」
「そう……ですか……」
何度か視線を床と僕で往来させてから、彼女はそっと遠慮がちに言った。
「じゃあ私、外を歩いてみたいです。病院の庭では無くて、その外を」
それは些細な願いだったけれど、きっと彼女の本心からの願いだったと思う。
「分かった。じゃあ夜にまた来るよ。そしたら一緒に、外を歩こう」
そう約束をすると、僕は病室を出た。
――
「月が綺麗ですね」
「ああ、うん」
「夜の病院を抜け出して、なんて、なんだか凄くロマンチックですね」
初めて彼女が病院から抜け出したその日は、満月の夜だった。ふふっ、と笑う彼女の顔を見ると、この顔を見る為ならなんでも出来るんじゃないかと沁沁思った。
適当に病院の近くを歩きながら、今は誰の小説を読んでいるのか、とか、学校ではどんな事があったのか、だとか。彼女とは確か、そんな事を話したと思う。
いつも、病院で話すのと同じ様な何気ない会話。しかし、いつもの小さな籠から抜け出せた彼女はやはり、とても生き生きとした顔をしていた。
それから、 彼女の体調の事も考えて、外へ連れ出すのは週に一度だけ、具合の特に良い日を選んで。そんな約束をして、僕らは毎週、人知れず病院の外を歩いた。彼女は決まって、月の見える晴れた夜には体調が良かった。
今にして思えば、病院からそんなに簡単に連れ出せる筈も無いのだから、病院の先生やら彼女の両親やらが、なにか計らってくれていたのだろう。
しかし、楽しい時間が永遠に続く事が無いというのは、どうやらこの世界の摂理らしい。月夜の密会を繰り返すにつれて、彼女は段々と弱々しくなっていった。日に日に発する言葉が聴き取りづらく、僕に触れてくるその手がか細くなって行くのを僕は唯、話をして紛らわす事しか出来なかった。
「今日は、朝から体調が良いんです。だから、今夜は……」
「あぁ、約束通り今晩も抜け出そう 」
自分の身体の変化を身を以て感じていた筈の彼女だったが、それでも頑なに外へと出たがった。きっと、彼女なりの必死の抵抗だったんだろう。
――
「本当に、月が綺麗ですね」
「ああ、本当に」
入院中の彼女を連れ出して歩く夜道で、いつもと同じ会話。
彼女と過ごす、三度目の満月の夜。
彼女は僕の背中に負ぶさっていた。それはもう、初めて会った時とはまるで別人の様で、肩で息をしていて、話す言葉も聞き取れるか聞き取れないか。それくらいに、彼女は弱々しかった。
「良かった。今日も満月が見れて。あなたと一緒に見れて……」
「僕も良かったよ」
いつもより早く切り上げて、病院へ向かう。
「本当に、月が綺麗だ……」
僕がそう呟いた時にはもう、彼女は僕の背中で眠っていた。
――
翌日、放課後になるとすぐに病院へと向かう。ただ、いつもの病室に彼女の姿はもう無かった。
「今朝方、眠るように息を引き取ったんですよ」
病室で呆然と立ち尽くす僕に、看護師さんが話し掛けてきた。彼女とよく話していた看護師さんだ。
「え……」
「これ……彼女から預かっていたんです」
あれだけたくさんの時を一緒に過ごした彼女が、自分の知らないところで独り息を引き取った。突然そんな事を伝えられて言葉を失っている僕に、看護師さんは一枚の封筒を差し出した。
「恐らく、手紙だと思います。彼女は最後まで、独りではなかったと思いますよ」
心を読んだかのようにそう言った看護師さんの言葉を聞くよりも早くに、僕は封筒の封を開けていた。中に入っていたのは、看護師さんが言った通り、女の子らしい可愛い便箋だった。
『この手紙をあなたが読んでいるという事は、私は何も言わないで突然いなくなってしまったんだと思います。それは本当にごめんなさい。あなたと初めて会ってから、色々な話をしましたね。あなたがいつも聞かせてくれた話は、あなたにとっては当たり前の話だったかもしれないけれど、私にとっては本当に新鮮で、病院の中だけだった私の生活に新しい色を描き足してくれました。本音を言えば、あなたと同じ様に学校へ通ってみたかったけれど。あなたと一緒に登下校して、いつもの様になんでもない話をして、『お前らいつも一緒だな』なんてからかれたりもして。そんな毎日を過ごしてみたかったけれど。それでもあなたと過ごした時間は、私にとって宝物です。病院を抜け出して一緒に見た月は、本当に綺麗でしたね。最後まで、あなたは私の気持ちに気付いてくれなかったけれど、本当に、月が綺麗でした。私を背負ってくれたあなたの背中は、思っていたよりも全然大きかったです。
あなたの人生はまだまだこれからで先も続いて行くと思います。今ある当たり前の時間を、幸せに過ごしてください。
今まで、本当にありがとう。さようなら』
僕は最後まで読み終わるより前に、涙が溢れてきてしまって、読み切るのに随分時間が掛かってしまった。
看護師さんは彼女の通夜の日時と場所を書いたノートの端切れを僕の手に握らせて、黙って行ってしまった。
――
あの頃の僕は本当に何も知らなかった。君が亡くなってから、君が話していた小説も読んだんだ。大人になってしばらく経った頃、僕は初めて君の言葉の意味を理解したよ。
「今日も月が綺麗だな……」
君ががいなくなってから、今日で何度目の満月だろう。
今でも月を見る度、君を想う。