名状しがたきエピローグのようなもの
天使長先輩は私のすぐ隣にいた。壁に手をつきお腹を押さえ、痛そうに顔をゆがめていたが、私の存在に気付くと手を上げて「やあ」と言った。
「大丈夫だったか、後輩」
「誰かさんのおかげで五体満足ですよ。ええ本当、誰かが無謀なことをしてくれたおかげです」
「そうかそうか、それならよかった」
「……私よりも自分の心配をしてください」
気丈な様子を醸し出してはいるが、おそらくそれは強がりである。痛いなら痛い、苦しいなら苦しいと、正直に言ってくれればこちらも楽なのだが。
「……どうして俺たちは帰って来れたんだろうな。出口らしい出口を見つけたわけでもないのに――」
そう訊いてすぐに、再び先輩が嘔吐く。やはりまだ攻撃の余波が残っているようだ。
「説明をしたいところですが、それよりもまずやることがあります」
「やること……?」
「ええそうです。貴方を病院に連れて行かねば」
※
「で? 俺たちが無事に戻ってこれたのはどういう訳なんだ」
病院での診察と治療を終えた矢先に、先輩はそう訊いてきた。よほど気になっていたらしい。
ちなみに医師からは、全身の軽い打撲と診断された。しばらくは安静にしなければならないが、生活に支障が出るほどではない。
個人的には内出血とか肋骨骨折とかが不安だったのだが、ただの杞憂で終わった。奇跡的に受け身が取れていたのだろう。心配して損した。
「それでは説明しましょう。何故、私たちはこうして戻ってこれたのか――」
話はそこまで難しくない。世にある有象無象の怪異譚――そこから導き出された鉄則を、少し応用すればいいだけだ。
異界にしろあの世にしろ、生きて現実世界に帰りたいなら、向こう側の食べ物を決して口にしてはならないと言われている。原理はよく分からないのだが、食べ物が楔となってその人を異界に固定するから、というのが私の考えだ。
私たちの場合、例のカツサンドがその楔にあたる。おそらくあのメイドと怪物の間には何かしらの関係があるのであろう。異界の食べ物を食わせることで客を迷宮へと送り込み、脱出不可能にしていたのだ。
しかし私たちの楔はまだ完全に打ち込まれていなかった――カツサンドは消化中で、体内に吸収されてはいなかったのだ。だからカツサンドを吐き出したとき、我々をつなぎ止める唯一の楔が消滅し、水が高所から低地へ流れるように、私たちも本来あるべき世界に戻った。
以上が、事実と推論を組み合わせて作り上げた私なりの答えである。
「ふうん、なるほど」
説明を聞いた天使長先輩は腕を組んで頷いた。
「ま、何はともあれ脱出できたから良かったんじゃないか」
結果オーライってやつだな。そう言った先輩は大きくのびをした。
頭上では太陽が西へと沈み始めていて、肌を灼く陽光が遠慮無く私たちに注がれていた。この季節、普段なら忌避するその光だが、この時ばかりは妙に眩しく暖かいもののように感じた。
「ああ、そういえば1つ言うことが残っていました」
「ん? 何だ」
「脱出する直前にですね。私は怪物に思いっきり唾を吐きかけてやったんですよ。ペッ!とですね。こう、思いっきり」
唯一にして最大の武勇伝である。神話の怪物に唾を吐いた人間など、古今東西見渡してもそうそういない。
天使長先輩が、嬉しそうな顔でハイタッチを求めてくる。
「よくやったぞ後輩。ざまあみやがれミノタウロス」
「ざまあみやがれミノタウロス。今日の夕食は松阪牛のステーキにしましょう」
「ははは。そんなジョークが吐けるあたり、やっぱりお前の頭はネジが数本飛んでやがるよ」
「貴方に言われたくはありませんね。この脳筋特攻野郎、強がり、命知らずめが」
※
こうして数多の謎を残したまま、私たちの冒険は幕を降ろした。謎は解明されてナンボ、と常日頃より思う私としては、なんとも虫の好かない終わり方である。
だがいくら不平不満を並べられたところで、分からないものは分からないのだ。もう一度あの空間に行くつもりは毛頭無いのであしからず。
故にこれから述べることは、全て推測ということになる。
まずは、七録氏の消失事件について。先輩と話した結果私たちは、七録氏が幽霊であったとの結論に至った。妙に青白かった肌と、怪物が触れられなかったこととがその理由である。
怪物によって命を奪われた七録氏だったが、そのことを自覚出来ずに迷宮を彷徨い続けていた。私たちと出会った時もまだ自分が生きていると思い込んでいた。だがあの時、彼はようやく自らの死に気が付き、どこか遠いところへと還っていった――そのように私たちは推測した。ありがとう七録氏。私たちが生還できたのはあなたのおかげです。
次に、あの空間の正体について。牛の怪物がミノタウロスであるのなら、あの場所はミノタウロスが封じられている場所、すなわちクレタ島のラビリンスに他ならない。ただ、何故極東の島国の地下と遠く離れたギリシアの島とが繋がったのかは、まったくもって不明だ。
これらのことは1から10まで全て予想に過ぎず、また事実を確認するすべも私たちは持っていない。
ただそれでも、一つだけ確かなことがある。
それは、例のメイド喫茶についてのことである。あのメイド喫茶は、断じて普通の場所などではない。それどころか、恐ろしき怪物のために奉仕し、人の皮を被って、やって来た客を異世界の地獄へと送り込む、文字通りの冥土喫茶に違いなかった。