お帰りなさい、現実へ
「では行くとしますか。取り敢えず、外縁部を目指してどれか一方向に進みましょう」
「それが最善の策だな。手掛かりが無い以上はしらみつぶしに歩き回るしか――――」
同意を示しかけた先輩が、不意に押し黙ってまぶたを降ろした。
「どうしました」
「しっ! ……静かに」
有無を言わさぬ雰囲気を感じて、私もおとなしく耳を澄ませる。
「……何か聞こえないか?」
集中する。すると次第に、何か大きなモノが振動する音が聞こえてきた。それは一定の周期を持っていて、しかも段々と大きくなっている。
数分前の記憶が脳内に蘇った。同時に遠くの方から、聞く者を震えさせる獣の咆哮が響いてきた。
「これは」
「あいつだ。こっちに向かって来てるぞ」
「早く行きましょう。あっち――いやこっちへ」
「ダメだ。多分こっちの方が――」
震源はますます近づいてきていた。石壁全体が揺れに共鳴したせいで、足音はあらゆる方角から響いてくる。それが、どちらへ逃げるかの判断を遅れさせた。万一怪物と鉢合わせになってしまえば、その時点で死が確定するからだ。決断は慎重にせねばならない。
だが今回の場合、その慎重さが仇だった。
音か匂いかはたまたそれ以外の未知の手段によって、相手はこちらの位置をほぼ完璧に把握していたようだった。私たちが移動を開始した直後、背後の曲がり角からミノタウロスの巨体が躍り出たのだ。怪物は私たちの姿を捉えるやいなや、間髪入れずに襲いかかってきた。
即座に私たちは逃げ出した。だが、三輪車で自動車を引き離すのが到底不可能なように、決死の逃走は数秒も続かなかった。数秒続いただけでも奇跡だった。
怪物の豪腕が私の胴体を捕まえる。そしてそのまま、逆らいがたい力で床へと押さえつけた。
「うぐっ……」
肺の中の空気がまとめて外に押し出され、激しくむせた。
これはもうダメかもしれない。
死を悟った人間は、とてつもない恐怖を覚えるタイプと何も怖くなくなるタイプに分かれるものだが、幸運にも私は後者であった。痛いのはいやだからアドレナリンを全開放出するのだ、わが副腎髄質――などと、意識を現実から引っぺがして、荒唐無稽なことを考えていた。
天使長先輩が、私の名前を呼ぶまでは。
「――――!」
私が拘束されたとき、足の速い先輩はそれなりに先を行っていた筈だった。だから言い方は悪いが、私を見捨ててしまえば自分だけは逃げ切れる状況にあった。戻ってくればもろとも胃袋行きである。どちらが正しい選択肢か、小学生にも分かる簡単な問題だ。
けれども先輩の愚かさは想定の上をいっていた。
こちらへと駆け戻ってきただけでなく、あろうことか彼は、私を捕らえる怪物の腕を必死に蹴りつけ始めたのだ。
「このっ……! 離せ! 離せよっ……!」
無謀と勇気は紙一重と言うが、この行動ははたしてどっちに当てはまるのだろうか。いやきっと、大多数の人は考えるまでもなく無謀と断定するのだろうが――個人的には、助けられた私としては、勇気の称号の方がふさわしいと思う。
だが現実は、どこまでも冷たく無慈悲だった。怪物と先輩では純粋に力の差がありすぎた。面倒くさげな片腕の一振りだけで抵抗は無力化された。なぎ払われた先輩は数メートルほど宙を舞い、背中から地面にたたきつけられた。
「がはっ……!」
怪物の一撃はみぞおちに入っていた。胃のひっくり返るような衝撃だっただろう。横たわったまま、先輩は腹に手を置いてひどく嘔吐いた。それでもまだ、歯を食いしばって何とか立ち上がろうとし、膝をつく。もう一方の手が口元に当てられた。
直後。先輩は盛大に吐いた。胃で消化途中だったカツサンドを思い切り吐き出した。
酸の匂いがこちらにまで流れてくる。いいから早く逃げろ、と私は言おうとした。まとめてお陀仏になるつもりか、と。
その時だった。先輩の身体が、急速に薄れ始めた。
七録氏の時とはまた様子が違った。彼の場合は手や足から順番に消えていったが、今回の異変は全身同時に作用していた。
どういう訳だろうか? 怪物の手には触れた者を消し去る力がある、という仮説が思い浮かんだが、すぐに違うと気付く。それなら私の身体も消えていくはずだ。ということは、この現象を引き起こしているのは他の何かで――。
「――そうか」
啓示が下った瞬間だった。
怪物の注意が先輩に向いている隙に、私は片手を顔の前にまで持ってきた。そして限界まで大きく口を開くと、人差し指と中指を、思い切りその奥へと突っ込んだ。
「うぇっ……」
二度と体験したくない悪寒が全身を駆け巡った。胃の中身が食道を遡ってくるのを感じる。いつもならトイレに着くまで我慢だが、今回ばかりはその必要はない。カツサンドを吐き出すこと、それこそが最優先目標だからだ。
昼食との再会を果たした直後、予想通り、私の身体も薄くなり始めた。そのことに気付いた怪物が、明らかに怒った様子で私を掴み上げる。
残念だがもう遅いよ。既に先輩の方は完全に消え去った。私もあと数秒でそうなることだろう。ファッキン化け物。永遠にさようならだ。
私を飲み込もうと大きく口を開けた怪物に、最後の嫌がらせとして唾を吐きかけてやった。ほぼ同時に視界がガラリと一変し、元の、人々行き交う地下街の光景へと戻る。
帰ってきたのだ。
安堵と平穏を確認した私は、両手を突き上げて「フォー!」と叫び声を上げた。
周りの人から怪物を見るような目で見られた。