“希望”をご注文ですね
どこをどう走ったのかよく覚えていない。覚えているのはできる限り怪物から離れねばという恐怖にも似た強迫観念だけだった。
気付いたときには私たちは、石壁に背中を預けて座り、荒くなった息を必死に整えているところだった。
「……なあ、後輩」
「……何でしょうか」
「七録さんの体が消えていったように見えたのは、多分、俺の幻覚なんかじゃないよな」
「幻覚なんかじゃありません。私にもそう見えましたし……実際、消えていったのでしょう」
集団幻覚とは考えにくい。
聞き取れなかった呟きと、何かを悟ったようなあの表情の意味でも分かれば何かしらの推測は立てられる。だが生憎、どちらも持ち合わせがなかった。何もかもが分からない。
唯一たしかな事があるとすれば、それは探索が振り出しに戻ったということ。手掛かりゼロ、現在位置すら不明。状況はあまりにも絶望的だった。この私ですら、自分たちはここで死ぬ運命なのではと、不吉な考えを抱いてしまうほどに。
沈黙が余計に不安を煽ってくる。天使長先輩の方を見れば、彼は頭に手を当てて、ひときわ大きなため息を吐き出した。
「……すまない」
これまでに見たことの無いほど、虚ろな表情をしていた。
「こんなの自己満足でしかないって分かってる。けど言わせてくれ。……お前をこんな事に巻き込んでしまって、悪かった」
計り知れない後悔が一言一句に満ちていた。
「メイド喫茶に入ろうなんて俺が言い出さなかったら、いやそもそも、俺がお前を連れ出そうなんて思わなかったら……大変な目に遭うのは俺だけで済んだのにな」
なるほど。
たしかにそれは事実だ。インドア派な私のことだから、先輩から誘われなければ今頃自室で自堕落な時を過ごしていただろう。謎の空間に迷い込むこともなければ、こうして命がけの鬼ごっこに興じることもきっとなかった。先輩の言っていることは、100パーセント正しい。
だが。
「……何を言っているんですか。貴方らしくない」
正論を肯定するのが正しくないときだって、世の中には存在するものだ。今がまさにその瞬間だった。
「確かに私を誘ったのは先輩ですが、着いていくと決めたのは私ですよ。自分の決めたことにくらい自分で責任を持ちます」
変な所でバカ真面目になるのが、この人の悪いところである。良いところでもある。
たしかに怖いし、不安にもなるだろう。だが後悔をするのは、生き残ってからでも遅くない。今考えるべきはいかにしてここから生還するか。いかにして怪物の魔の手をかいくぐり、陽光の下に返り咲くかだ。
「ナーバスになってはいけない。まだ希望はあります」
「いや、でも」
「あるって言ったらあるんです。よく考えてみてください。入ってこれたなら、そこから出ることも出来るはず」
私は先輩の肩を掴んで、強引にこちらへと振り向かせた。
「元々迷路に出口はない。入り口を作れば、そこが出口にもなるのだ――魯迅先生もこうおっしゃっていました」
秀逸な言い回しを用いた指摘は、先輩を面食らわせたようだった。答えを返さぬまま何度か瞬きをして、それからフッと、その顔に苦笑が戻ってきた。
「……いや、全然違うだろ。お前、それは魯迅先生のファンに失礼だぞ」
よろしい。その方が私もやりやすい。天使長には、沈鬱な表情よりも笑顔がお似合いだ。
「オマージュなので許されます」
「はは。そうか、それなら大丈夫だな」
そうして笑った後、また真剣な表情に戻って、小さく呟く。
「……お前が後輩で良かったよ」
「変なフラグを立てないでいただけますか?」
あとちょっと照れくさい。おのれ天性の人垂らしめ。
「……よし」
先輩が手を打ち鳴らす。顔にかかっていた陰が、その途端に雲散霧消する。
「待たせたな後輩。探索の続きと行こうか」
「遅いです。最初からその言葉を言っていただきたかった」
「悪い悪い。でも、こうやって悩むのが人間ってもんだろ」
「自覚を持ってください。貴方は人間ではなく、天使長です」