こちら、地獄になります
「つまり、出口が無い?」
答えを聞いた私は思わず疑問の声を上げてしまった。
仮に出口が存在しないとすれば、私たちはずっとこのまま、果てしなくここを彷徨うことになる。待ち受けているのは確実なる死だ。
「ああ」
「ですが七録氏。それは、まだ単に出口を見つけていないだけではないのですか」
「そうかもしれない。むしろそうだったなら、こんなに嬉しいことはない」
「無いとはっきりするまで、諦めてはいけません。絶望は目を曇らせるものです」
自分の口にしている内容が、ただの希望以外の何でもないことは、私もよく分かっていた。だが同時に、人に力を与えるのは希望だということも、よくよく承知していたつもりである。『悪魔の証明』とかいう忌々しい単語は、あの時だけ、辞書から取っ払っておくことにしたのだ。
「どちらにせよじっとしたままでは何も変わりません。俺たちは辺りを調べて回ります。そして、七録さんさえ良ければ、あなたも俺たちと共に行動して欲しい」
隣で会話を聞いていた天使長先輩が、神妙な口調でそう言った。
「一人よりも二人よりも、三人の方が安全。"牛の怪物"がいるなら尚更――そう思うのですが」
「丁度私もそう言おうと思っていたところだ」七録氏が頷く「喜んで、その申し出に応じよう」
よろしい。交渉成立だ。
三人寄れば文殊の知恵というから、きっと何かしらの打開案が生まれるだろう――私の中で淡い期待が湧き上がった。
もちろんそれは、期待以上の何でもない、ただの楽観的予想にすぎないものではあったが。同時に、当時の私たちに最も必要な感情であることもまた間違いないと言えた。一言で言えば『希望』である。
「少し休んでから、探索を始めるのはどうでしょう」
私の提案は問題なく了承された。
その時足元地面が、かすかに揺れたような気がした。だがあまりにも微弱な感覚だったので、私がそれ以上の関心を抱くことはなかった。
※
体感時間にして半刻ほどの間、取り敢えず右折も左折もしないまま、私たちは一直線に歩き続けた。転向をよしとしなかったのは、そうすることで、来た方向が分からなくなるのを防ぐためである。
いかに広大な空間といえども、いつかは果てに辿り着くはず。まずは南北(あるいは東西)に縦断を試みることで、一帯の広さを推測しようと考えたのだ。
「平面の迷路なら、壁に左手を当てて進めばいつかは出口に行き当たりますが」
「立体ではそうもいかないな。俺の直感にも限界ってものがあるし」
「元から頼りがいなんて無いですけどね。私が靴を蹴り上げて、落ちたときの方向で決める方がまだマシというものです」
「お、どんぐりの背比べをする気か?」
「舌の代わりに頭を回して、何か見つからないか探してみることを提案しますよ」
「はっはっは。君たちは仲がいいんだね」
七録氏が笑った。まあ否定はしない。
その時だ。
「――ん?」
再び例の、謎の震源を持つ振動が、石畳を這って伝わって来た。
地震だろうか、と考えて、すぐにそれは違うと否定する。地震の揺れは連続的だが、今回のものは断続的だった。衝撃と小休止とが交互にやってくる。そしてその度に、辺りの空気までもが一緒になって震えているかのような気がしてくるのだ。
揺れ自体はさっきより大きい。何事かと立ち止まってみたものの、どう動くべきか明確な答えは見付からなかった。
「マズイ、ここから離れよう」
七録氏、ただ一人を除いては。
「どうしたんです。こういうとき下手に動くのは――」言いかけた先輩の口を七録氏が塞いだ。
「これは"やつ"の足音だ。きっと近くにいる」
「牛の化け物のことですね」
回を重ねるごとに揺れは段々と強くなっているようだった。それはつまり――七録氏の言葉を借りるなら――『牛の怪物』が、こちらへ接近していることを意味する。
振動は前方から伝わってきている。
私の脳細胞が、戦略的後退を全会一致で決議した。その怪物が噂通り人を襲うならば、今の私たちは、オオカミの眼前に放たれた哀れな3匹の子豚に等しい。レンガの家でもあれば多少は持ちこたえられるだろうが、現実にはレンガどころか、藁の家すら作る余裕はなかった。
「では、そっと離れましょう」
私たちは音を立てないよう気をつけながら、ゆっくりと後ずさりを始めた。
だがどうやら――その判断を下すのは、あまりにも遅すぎたらしかった。
そいつは3つ目の曲がり角から姿を現した。まず角の部分がのぞいて、それから巨体の全体像があらわになる。
牛というよりも人間に近い造形だった。筋肉が肥大した人間の頭部を雄牛のそれと付け替えたら、きっとこのような姿になるだろう。とは言っても、その体つきはおよそ人間が辿り着ける域を超えていた。腕の太さは私の胴体に匹敵する。上半身に巻かれたベルトは、山のように盛り上がった筋肉へと食い込んで、ある種の拘束具の役目を果たしている。肌の色は茶色がかった肌色。背丈は私を遙かに上回る。その大きさを見るにこの通路は、いかんせん狭すぎるのではないかとすら思われた。
そして何より恐ろしいことに――そいつの胸元は、人間の体内に流れる赤黒い液体で鮮やかに彩られていた。
『怪物』の称号にふさわしい。目に見える全ての特徴が、私に恐怖と、憎悪と、耐えがたい吐き気を与えた。
「――ミノタウロス」
私の口から漏れ出たのは、ギリシャ神話に出て来る怪物の名。
牛と人間の混成児。王によって迷宮に閉じ込められた半人半獣の怪物。
以前どこかで読んだ一節が、頭の中に蘇ってきた。
「ミノス王はダイダロスを以て迷宮を作り、ミノタウロスを封じる檻とした」
……どこで読んだのだったか? 生憎、よく覚えていない。
「だが暴れると手がつけられないため、9年ごとに7人の少年少女を生け贄に捧げる――」
「俺たちがその生け贄だ、ってか? 冗談じゃない」
ごもっともだ。
ミノタウロスの黄ばんだ両眼に、私たち三人の姿が映った。奇妙な数秒のにらみ合いが過ぎた後、それは鼻息を荒立てて、こちらへと向かってきた。
「逃げろ!」
言われるまでも無い。
頭が何かを考えるより先に、私の足は逃げの一手を打っていた。1メートルでも、1センチでもいいからなるべく遠くへ、怪物の目の届かない場所へと行かなければならない。そう悟ったのである。
追いつかれたとき何が起こるのかは不明だ。だがどう物事が転んだとしても、それが良い結果に繋がることはおよそ有り得そうになかった。
天使長先輩と七録氏も、私のすぐ後ろに付いてくる。さらにその後方からは、荒々しい足音と獣の咆哮とが聞こえてきて、空間をビリビリと揺さぶった。
何ヶ月ぶりかの全力疾走に体はすぐさま悲鳴を上げ始めた。日がな一日冷房という文明の利器に浸り、鍛錬もせず怠けに怠けていた過去の自分がどうしようもなく恨めしく感じた。
当然の結果として、またたくまに私は最後尾へと没落する。このままでは第一犠牲者まったなしであった。
だがそのとき、天使長先輩のスピードが不意に低下した。そうしてそのまま私の横に並んだかと思うと、こちらを見て、意味深に頷き、3つ目の曲がり角を指さす。
何をやっているんだこの人は?
「あそこ! 合図で横に逸れるぞ!」
「は?」
「3,2,1,今!」
強い衝撃が加わって、私の身体は半ば吹っ飛ぶように横へと倒れこんだ。先輩が私を突き飛ばしたのである。
突然のことに理解が及ばぬまま、そちらに視線を向けてみれば。飛び込んでくる天使長先輩と、その背中を掠める怪物の左手があった。
ここで曲がらなければ、捕まっていたのは間違いなかった。
勢い余った怪物は派手につんのめった。そしてそいつが体勢を立て直したとき、醜悪な瞳が狙いを定めたのは不幸にも、前方を走る七録氏の方だった。
「ひいっ! こっちへ来るなぁ!」
何故私たちを差し置いて、怪物は七録氏へと向かったのか。確かな理由は分からないので想像するしかない。
視界に入ったのが七録氏であったから。彼の方が美味しそうだったから。あるいは……もしかすると、先輩の貸し与えた赤いジャケットが、牛の闘争心を掻き立ててしまったのかもしれない。
何とか立ち上がった私たちは地面を這って進み、曲がり角から顔だけを出して様子を窺った。
七録氏が逃げ切れないことは明らかだった。一歩の大きさが違うのだから、根本的なスピードで負けるのも無理はない。
またたくまに距離が詰まる。獲物をめがけて、怪物が豪腕を振り下ろす。
惨劇の予感を前に、私は息を呑んだ。
だが直後――私の目に飛び込んできたのは、まったくもって予想外の光景だった。
「――え?」
怪物の伸ばした手が、七録氏の体をすり抜けたのである。
比喩などではない。まるで、本来はそこに七録氏が存在していないかのように、怪物の手は文字通り空を切ったのだ。
戸惑ったのは私たちだけではなかった。怪物も、そして当の七録氏本人までもが、何が起きたか分からない様子で自分の体を見下ろしていた。その口が何か、モゴモゴと動いて言葉を刻んだけれど、私の位置からでは遠すぎて聞き取れない。
と。そのとき七録氏に異変が生じた。
何の前兆もなく突然に、彼の体が消えはじめたのだ。空気に溶け込んでいくかのようだった。四肢の末端から順番に、肉体は透明度を高めていって、やがて何もなくなる。
理解の範疇を超えた出来事が起きたとき、人の思考は自動的に停止するのだということを私は初めて実感した。
先輩のジャケットが床へと舞い落ちた段階で、七録氏はついに頭だけになってしまっていた。だがそれでも、彼にはまだ自我が残っていた。私たちを見つけて、こう叫んでくれたのが何よりの証拠だ。
「何をやっているんだ君たち! 早く逃げるんだ!」
正気を取り戻させる鶴の一声。幸運にも、怪物の注意は未だ七録氏に向いていた。
何が何だか理解は追い付かないままだったが。ひとまずの安全のために、私たちは早足でその場から立ち去った。